”いざない”2
勇者よ、旅立て。
レンが朝の鍛練を終えて降りてくると、アルテアがすやすや眠っているのが目に入った。 16才になったばかりの少女は、眠っていると子どもじみて見える。 短くした黒髪と、大きな黒い瞳とを輝かせ、勇ましく剣を振るう娘にはとても見えない。 一度眠るとそうそう起きない性質なので、野宿時の見張りは一番最初と決まっている。 ふと、レンは興味を覚えてほおを突いてみようかと思ったが、その前に止められた。
「しーっ、起こしちゃいけませんよ、レンさん」
唇に指を当て、ポーラがにっこり微笑む。 修行中の僧侶であるポーラは、アルテアよりも少し年上の18才だ。 穏やかで大人びた雰囲気のあるポーラの隣に並べると、年の差はもっとあるように見えた。
「もう朝だが」
「疲れてらっしゃるんですよ。昨日も遅くまで魔法の練習をしてらして。 ロマリアに渡ったころには、転移魔法ルーラが使えるようになりたいっておっしゃってました」
「ルーラを?」
「はい。歩いてばかりだと移動が大変だからと。さすが勇者さま、目のつけ所が違いますよね」
嬉しそうにポーラが笑う。 冒険者としてはまだ未熟なアルテアだが、ポーラからの信頼は篤いらしい。 出会ってからの日数は変わらないのに、何がポーラに信用させているのか、レンには理解しかねる。
「キメラの翼があれば事が足りる。覚えるなら別の魔法の方がいいと思うがな」
「そんなことおっしゃって。キメラの翼も使えばなくなります。万全と言うわけではありません。 それに、アルテアさんがルーラを覚えてくだされば、旅はとても楽になりますよ。 ナジミの塔から戻ってくる時も、大変だったの、覚えておられるでしょう?」
大変だった。気が向いたらしいアルテアが、未探索の地下へ潜ってみないかと言い出したせいだ。 ヒースとレンの説教に加え、地下部分の湿った洞窟に出たところでやる気がなくなったようで、一行はアリアハン最西端まで行く危機をあやうく逃れた。
嬉しそうなポーラに適当に相づちを打ち、レンは着替えを取りに荷物袋のところへ移動した。 鍛練中の汗を流した時に、用意しそこねたのだ。 レンの装備は稽古着と言って、武闘家が練習着に好む服だ。 動きやすく丈夫な布で織り上げてあるため、激しい鍛練をしても破けることがない。 「レンーッ!?」
悲鳴に似た大声を聞き、レンはわずかに驚いた。 ヒースの声である。彼は普段、あまり大声を出さない。 外に通じている階段を音なく駆け下り、ヒースはレンを認めるなり叫んだ。
「どうなってるんだ、あれは!?鍛練してる時もああだったのか?!」
「そうだ」
あっさりと認めると、ヒースは今度はいざないの賢者を捜し始める。 出鼻をくじいたのはレンだった。
「留守だ。今日の夜には帰ると言っていた」
「何で肝心な時に……っ。 いったい、あれは何事だ?まさかおれが一日寝過ごしたわけではないよな?」
「その心配はない」
声が大きかったせいだろう。アルテアがぼんやりと目を開けた。 右手の甲でコシコシと目をこすり、「何の騒ぎぃ〜?」とぼんやり尋ねる。
「見た方が早い。ヒース、アルテアを連れて行け」
会話に参加していなかったポーラが、不思議そうな視線を向けてくる。 どちらにせよ説明が要るだろうと判断し、レンはポーラにもヒースに着いていくよう言った。 きちんと着替えを整えた後、レンもまた階段を上っていく。 階段の果てには、呆けたように口を開ける女性陣と、何度見ても変わらない光景に苦虫を噛んだ顔をするヒースがいた。
夕暮れが広がっている。 オレンジ色が徐々に紫色へと変わっていく時間帯だ。 ぽかりと浮かんだ白い雲が夕陽に照らされ夕方の空に染まっている。 冷たい風が吹き抜けて、起き抜けの若者たちの身を包んだ。 特に起きたばかりのアルテアには刺激が大きかったらしい。両手で身体を包み、ぶるりと震えた。 カァ、カァ……。 鴉の声が聞こえてくる。もうしばらくすると梟も鳴くだろうが、果たしてどうだろうとレンは思う。
「どう……。え……?私、寝過ごしたわけじゃないよね?」
ヒースと同じことを聞いたアルテアに、同じようにうなずく。
「おそらく昨夜からこのままだ。 あるいは、魔法使いの使う、昼夜逆転魔法ラナルータという魔法の影響との可能性もあるが、鍛練中少しも太陽が沈まなかったところを見ると、可能性は低い」
「そ、そんな……っ!?」
「ずっと、夕方……?」
困惑を隠せないアルテアとポーラ。 無理もない、とレンは思う。 何しろレン自身、朝の鍛練に外に出てしばらく太陽の動きを観察してしまったほどだ。 何が起きているのか理解はできなかったが、体内時計を信じるしかない。
「時間が止まっているように思える。 あるいは、ものすごくゆっくりなのか……」
「そんっな、こと、ありえるのぉーっ?!」
アルテアが叫ぶ。にわかには信じがたいのはレンも同感だった。
「ありえない、とは限らない。 人間にはとても実現不可能なことだと思うが、エルフなどの魔に近い存在ならば可能かもしれないし。 この世のどこかにあるという”時の砂の魔法”というのは、時間を遡らせる力があるとも聞く。 後は……魔法使いが用いる魔法には、パルプンテという、何が起こるか分からない未知の力を秘めたものがあると聞いている。 それならば、このくらいのはことはするかもしれない」
「……レン、魔法にも詳しかったの?」
「魔法も戦術の一つだからな。所詮文献知識だが」
「私、レンはそんじょそこらの賢者よりも物知りだと思う……」
「同感だなあ」
「本当です。尊敬します、レンさん……。 わたしの故郷の神父さまよりも、ずっとずっと物知りでいらっしゃると思います」
「褒めても何も出ない」
「知識が出てきそう……」
アルテアが余計な一言を加えた後、四人は改めて空を見上げた。 太陽はまったく身動きするようすがない。冷たい風が吹きつけてくる。
「夕方だっていう以外には、特に問題なさそうだね?」
「……どうでしょう?暗い時間ですし、あまり外には出ない方が良いと思いますが……」
「朝ご飯にしようよ。私、お腹空いてるし」
「……それも、そうですね。 っあ、そう言えば火をかけっぱなし……っ!すみません、わたし戻りますっ!」
「ええっ!?焦げちゃう!?」
あわてたポーラとアルテアが駆け下りていく。 騒々しい二人を見送った後、レンはヒースの方を見やった。 難しい顔をして空を見上げているヒースは、女性陣のようには単純な感想は抱いていなさそうだった。
「心当たりは?」
「……ない、こともないかな……」
「解決方法は?」
「分からない。……賢者は今日の夜には帰るって?」
「ああ。だがそう言ったのは昨夜の話だ。 仮に時間が世界的に止まっているならば、いつまでもやってこない時間の話だ」
「このあたりだけってことは?」
「地域限定で時間を止めるなどは、さすがに聞いたことがない。 太陽はごまかしは効かないだろうし……。 よく見ろ、雲が動いていないだろう?」
「ええ?……本当だ。でも、風は……あるよな?」
「ああ。だから変だ。いったい、何が起きてるのか……」
「……」
ヒースが押し黙るように口をつぐむ。
「心当たりとは何だ?」
「……昨日」
ヒースは小さく呟いた。
「賢者が言っていた言葉が引っかかる」
「どんな言葉だ」
「”いざないの魔力に気を奪われるな”」
「何……?」
「いざないってのは、いざないの洞窟か、泉のことだろうけどねえ……」
ヒースは何事か考えるように空を見上げた。
※※※
考えてもらちが明かないと知った四人は、そのまま一日を過ごした。 ひとまず今晩、賢者が帰ってくるかどうかを確かめようと言うのだ。 だが、難しいだろうと思ったレンの予想通り、賢者は帰ってこなかった。 ポーラが夕飯を作り、ヒースが気になることがあるからと外に出た。 アルテアは一日中、ぼんやりと部屋の隅に体育座りをしていた。
「帰って来ないな」
ぽつりとレンが言うと、アルテアは少し落ちこんだ顔でうなずく。
「本当に、時間が止まっていると思う? もしそうなら、どうやったら戻るのかなあ」
尋ねた先はレンだったが、これはレンには分かりようもない。
「知らん」
「そっか。困ったなあ……」
「もし、明日もこうだったらどうする?」
「……どのあたりまでこうなのか、調べに行きたいな」
「調べる?」
「仮に時間が止まってるなら、原因があるだろうし、私たちだけ止まってない理由もあると思うの。 昼間、ずっと考えてたけど……、私、鴉が鳴いてるのを聞いてる」
ほう、とレンは思った。 なかなか鋭い着眼点だ。
「ねえ、レン?」
ふっと視線を上げてアルテアが尋ねる。
「話そうよ」
「……唐突だな」
「うん。暇だからかな」
「……そうか」
会話は続かなくなった。 元々、レンはコミュニケーションが得手ではない。
「おまえはなぜ、魔王退治をしようと思った?」
「え?」
尋ねると、アルテアは驚いた顔をした。
「あー……っと」
わずかに口ごもり、手元に目を落とし。 アルテアは少しほおを赤くしながら答える。
「なんだか許せないからかなあ」
「……漠然としているな?」
「うん。明確なこれって理由じゃないの。 バラモスが憎いとか、そういうことは私にはないんだけど。 私、勇者になりたいと思った。 まだ誰にも、諦めて欲しくないと思ったの」
漠然としない。それは、アルテアの中で言葉になっていないのだろう。 レンは適当に返答としながら、その理由を思う。
「なぜ、俺を誘った?」
「え?」
「強者ならばもっと強い者がいるだろう。魔王を倒すなら、使命感が強い方が良かったはずだ。 俺は最初に言っただろう? おまえが、それに足る資格がないと思えば離れると」
「ああ」
晴れやかに笑って、アルテアはうなずく。
「そうあるべきでしょう?」
……何?
「私を絶対視しない人が良かったの。 私は勇者になろうと思うけど、必ずしも勇者になれるわけじゃない。 バラモスを倒せるとも決まってない。 なのに、盲目的に、私を信じるような人は困る。 無理だと思ったら、私を見捨てて逃げてくれる人じゃなくちゃ困るんだもの」
それは、とレンは言葉を呑んだ。 確かに自分は見捨てるだろう。宣言した通り。 アルテアがそれに足る器だと思わなければ、アルテアにこだわる理由がレンにはない。 レンには、やらねばならないことがある。
「ヒースやポーラもそうだと?」
「あーうーん。どうだろう。 さっきのはレンを誘った理由だから。あの二人はまた、別の理由かな」
「どんなものだ?」
「ポーラはね。ああこの人だって思ったの。 リストを見て会った人たちにはピンと来なかったけど、ピンと来たというのかな」
「ヒースは?」
「……ヒースはよく考えなかった。一緒に行くのが当然のような気がしたんだよ」 それはどう理解するべき言葉だろうとレンは思った。 信頼か?直感か? 「……何時出るんだ」
「え?……調べに?」
「ああ。時間があるなら少し涼んでくる」
「寝て起きたらにしようと思ってるよ」
「分かった」
レンが階段を上がっていくと、代わりにヒースが降りてきた。 タイミングのいい、と胸の内で感心する。
「どうだった、周囲は」
調べに行きたいと言ったアルテアに感心したのは、それが自分たちの思いつく手段と同等だったからだ。 地理感のいいヒースが一人、見回りに行っていることをレンは知っていた。 完全武装で出かけていたようだ。ブーツや服の端が土で汚れているのが分かる。 祠の中では絨毯を汚さないよう、入り口に水場を設けてある。 いざないの泉が湧いているのと同じ水源からくる地下水を汲み上げているらしい。 台所・風呂場とは別になっているため、完全に土落とし用だ。とても個人宅とは思えない作りである。
水を平桶に汲み上げ、ブーツの土を払っていたヒースがわずかに顔をしかめる。 平桶に汲み上げた水はわずかに濁った臭いを漂わせていた。
「レーベに続く道が戻れなくなってるみたいだ。 途中までは行けたんだけどね、霧が立ちこめてて、気づいたらこっちに戻ってきてしまってた」
「すると、閉じこめられているわけか?」
「そうなるみたい。 さすがにこれは、アルテアに報告の必要があるね」
「いったい何者が……」
「何者、は分からなくても。何のためにかは、簡単に予想がつくな」
「何?」
ヒースは困った顔をして呟き、レンの横を行きすぎる。 その表情は、とても不本意であると言っている。
「誰かがおれたちの足止めをしたいとすれば、それは一人しかいないんだよ」
「……アルテアか」
「そう。勇者アルテアをアリアハンに閉じこめてしまえば、もう次は続かないだろうからね」
「では、これは魔王軍の仕業か?」
「とも、限らないけど。可能性の一つでしかないから」
「賢者はいざないの魔力と言っていたんだろう?別の可能性だとすれば何がある?」
「それだよ。 いざないの魔力、だとしたら、ターゲットはきっとアルテアなんだ」
「……よく分からん」
「レンなら分かるかと思ったのになあ」
「あいにくと、俺には魔力はない」
「そういうことじゃないって」
軽く笑いながら、ヒースは装備をかちりと外した。 脱いだ上着を脇に寄せ、丹念に土を落としてからブーツを履き直す。
「いざないの洞窟は、何度も魔物たちに奪われた洞窟だよ。 未だ番人を手放すことができないほど邪悪な気が充満してる。 こういうところでは、どんな攻め方でモンスターがやってきてもおかしくない」
「なるほど」
「勇者アルテアは、名前だけで十分警戒するに値するから」
さらりと言って、ヒースはそのまま奥へと歩いて行こうとした。 「……おまえは、アルテアが嫌いか?」
「え?」
ふと、口から出た言葉だった。 ヒースが驚いたように足を止める。 「いや。気にしなくていい」
自分は涼みに出るのだ。そのまま階段を上がって行こうとするレンの背に、ヒースの呟きが届く。
「……分からないよ。おれにもね」
※※※
階段を上がっていく。 夕暮れの光景が広がっているはずが、ぼんやりとした霧が辺りを包んでいる。 進んでみようかと思ったが、足下にしゅるしゅると降りてくる霧に足が鈍る。 ”霧が立ちこめてて”
ヒースの言葉を思い出した。
「まさか……範囲が広がってる? いや……狭まっているのか。俺たちを囲んで」
いけない。頭の中で警鐘が鳴る。 レンは霧から目を離さぬようにして、拳を握りしめる。
『あなたは何を望んでるの?』
声が聞こえた。
「……な?」
記憶を探るが、まったく聞き覚えのない声だ。 どこから聞こえてくるのか、判断できない。 気配を探るが、濃い霧の向こうに何があるのか、把握できなかった。 無意識に背中に汗が伝う。 レンは魔法知識や武器知識が豊富だが、武闘家は基本的に自らの肉体だけに依る職種だ。 未知なる存在には弱い。
「……誰だ!」
『あなたは、何を、望んでるの……?』
ぞくりと背中を悪寒が走り抜けた。 身に何か得体の知れない恐怖が降りかかろうとしているのが分かる。 濃い霧は一気にレンを飲みこんだ。 凍りつくよな寒さが、粘り着くように足下から這い上がってくる。
声の主は顔を見せなかった。
握った拳がぎりぎりと鳴る。
『……レン』
遠い世界で懐かしい声が言う。
『もう、こんなことは止して。レンが傷つくだけで、何の意味もない。 そんなに傷ついてまで』
うるさい、とレンは腕を振り払う。
『あなたは何を望んでるの……?』
濃い霧の中に残され、ただ一人。 足下にあったはずの階段の感触も感じられない。 立ちこめる濃い霧が、レンの意識から現実感を奪っていったのだ。 魔法に違いないと思いながら、対処する方法が思いつかない。 幻にやられたり、混乱に落とされたりした人間を、正気に戻す方法はどうだった? 敵を倒して効果が切れるまで落ち着かせておくか、痛みにより、正気を得るか。
「……レン、……レン……!」
夢なのか、現なのか、レンを呼ぶ声がする。 何を望むかなど、問われるまでもないとレンは思った。
握りしめた拳だけは感じられる。 レンは爪を立てて拳を握りしめる。食いこんだ爪が、赤い血を滲ませていった。 |