<風渡り人の邂逅>
九角屋敷の程近く、決して小さくはない民家がある。 そこからは絶えずガタンゴトンと音が響きその奇妙さに寄り付くものは稀だ。 嵐王は何度目かの実験を繰り返していた。 あと一息で完成するものが、その一歩が追いつかない。 塵に投影された天狐を吹き消し、蚯蚓がのたくったかのような設計書に目を通して……。
「嵐王」
呼びかけに嵐王がまずしたことは、仮面を引寄せることだった。代々受け継がれてきた"嵐王"の顔だ。 被ると僅かな安堵さえも心に潜められ、嵐王が完成する。 戸の方に顔を向けるが声の主は呼びかけるだけで入り込んではこないようだった。
「嵐王。忙しいか?」 「いや休憩をいれていたところだ。緋勇殿、よく来たな」 聞きなれぬ呼び声は、華奢な娘のものだった。 嵐王が戸を開けると姿勢の良い立ち姿で龍音が佇んでいる。 内藤新宿への情報収集から昨日帰ったと聞いていた。只の失踪ならば興味はないが、幕府が裏についているとすれば話は別。後は幕府の所業を後押しして須らく罪状を膨らませて怨嗟を広げればいい。 面白い話を持って帰ってきたものだ、と思っていた。 初対面の際誘いはしたが、翌日やって来たのは意外といえば意外。特に何か品を求めに来たようでもない。 「茶を入れる。入るがいい」 工房には座るところは僅かしかないが招いた限りは茶の一つは出すかと嵐王が背を向ける。龍音はきょろきょろと周囲を見回しながらそれに従った。
「色眼鏡」 龍音は幾つ目かの発明品をその手に取った。赤硝子の填められた丸眼鏡を目に寄せると驚いたように瞳をしばたく。 「世界が赤い……」 「火に対する時は黒眼鏡だな。強い火は発明には欠かせないが目を焼く」 「この工房に、それだけの火力が?」 「只の民家と侮ってはならぬ。よいか、まず鬼岩窟の――」
なんと、一刻ほどもそれに費やした。
「嵐王、これは?」 陰陽の外法が描かれた装置は所狭しと物が置かれた工房の中では綺麗なほうだった。 綺麗にしているのはそれが途中だからだ。一つでも不安要素を混ぜ合わせては何が起こるかわからない。 「風祭が聞いていただろう」 「研究途中」 小さく頷き、物珍しそうに眺めている。何年も集積して作り上げた特殊な薬品が傍で揺れる。 「式神」 「式神羅紗、だ。本式の式ではない」 それから饒舌に話し出そうとしない嵐王。上手く進んでいないのだ。 見てみるか、と差し出された羅紗は浸された薬品の為かしっとりとしている。 「名を書こう」 外法に聡い娘がそう言う。式神羅紗は科学と外法を融合させて作り上げようとしているものだった。その仕組みはかかる手間を比べれば随分と分かり易いものである。 書き込み、条件付け、表示。言霊、感応、投影。 龍音は筆を手にしてそこに"胡蝶"と記した。言霊から具現を為すのは思いもよらず難しい。しかし試してやるか、と差し出した手だが龍音はそれに首を振る。 どこにでもある童謡を口ずさむとふっと息を吹きかけた。 と、その瞬間羅紗から飛び出た胡蝶の姿。半透明であるはずなのに現実めいた面持ちで、まるで生きているかのように表情が揺らめく。ふふと笑みを浮かべて飛び回る。 龍音の相好が緩んで嵐王を見るが、対して嵐王は憤りを露にした。 「何を、馬鹿な……緋勇殿!魂を与えてどうする!」 娘の顔が驚きに躍った。 「これでは普遍的な兵器にできん。……何より、御主は鬼道衆の面々を式に喰われたいのか!」 龍音が首を振る。嵐王が苛立ちを隠せずに式を吹き消すと、そこには肩を落とした龍音だけが残った。 「魂を持った武器は使い手を選ぶ。御主が扱えるからと、誰彼構わず分不相応な武器を押し付けるのは発明家として失格だ」 「すまん」 胡蝶の羅紗を申し訳なさそうに置く龍音の姿に、嵐王にも憐憫が湧いたらしい。 「その羅紗は緋勇殿が持っていろ。その力、御主が倒幕に役立てればよい」 龍音は嵐王を見上げると、羅紗を袂にしまった。
「……媒介が、必要だな」 「媒介?」 すると胡蝶は龍音の眷属だというのだろうか。嵐王は己の思考の愚かさを笑った。 「そうだ。下級なものでも良い……強く念の込められた眷属」 「つくもは、どうか」 物に込められた念。似合いかもしれない。 嵐王は一枚式神羅紗を取ると、そこに名を記した。肩に幾重にも巻きつけた翅を、仮面を軽く削った破片を。 「緋勇殿、唄え。……もう一度、息を吹きかけてみよ」 思いがけず小さな手に羅紗を握らせると、龍音は不思議な心地をした瞳で嵐王を見上げてくる。 「……と、呼んでみて」 「何?」
「たつと、と呼んで。もう一度言ってみて」
強請るような掠れ声に惑わされたのか。 「……唄え、たつと」 娘はどこか切なげに瞳を伏せると頷いた。
ねむるよいこよ ねむるみどりご わしのこえがきこえるか おめざめのときがきたよ まぶたをひらこう
龍音がふっと式神羅紗に息を吹きかける。羅紗の投影が命を結ぶ。 嵐王の前には、鏡のように"自分"が立っていた。その顔はどこか戸惑ったように歪み、そっと布を引き上げ仮面を被る。 あまりに情けない、生彩めいた己の顔。嵐王はだがむしろ、それを眺める龍音にこそ戸惑った。 何て事を頼んでしまったのか、と言いたげな顔つきである。嵐王は龍音に会うのはこれが二度目だが、むしろ心根を捉えさせないような娘であったはずだ。 「たつと」 嵐王の声に、びくりと龍音は跳ね上がった。 「工房の中でなら、呼んでやろう。その代わり工房内のことについては、誰にも話さないことだ」 「天戒にも?」 「若にもだ」 不思議そうにしてわかった、と頷く龍音。 「さあ、今日はもう帰れ」
戸はからりと閉じ。 懐かしさを覚える陰気は途切れる。
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