<聖所に立つものは>
水を汲みに那智滝まで足を伸ばした。何時もは嵐王が滝から引いている用水で足りるが、十字架を磨く水だけは那智滝から直接取りに行くことにしている。 言霊で聖別された滝は井戸から汲んだものとは同じ水であってもどこか異なり、清浄な気配を漂わせている。 朝一番はこの水で顔を清めながら、それでもこの浅ましい不徳さは洗い流せないと気鬱に浸った。 ざあざあという滝の音が耳に届き、俯いていた顔をあげると。
果たしてそこには、聖域があった。
水飛沫が舞う中で、冷たい水の中に身体を浸していたのは一人の娘であった。 漆黒の黒髪は額に張り付き、肌を水滴が伝う。瞳は閉じられ四肢はくたりと動かなかったが匂うほどの生命力に満ちていた。 華奢な身体はいっそ病弱と呼んでもいいつくりをしていたが、霊場からの氣を余すことなく受け取る肢体は黄金の氣に溢れている。 滝飛沫がまた一つ娘の頬に撥ね、神父は止まっていた呼吸をほう、と再開した。 那智滝が常より神聖さを保っているのは娘が原因。神父の口元から自然と歌が零れ出る。
父の神よ 夜は去りて 新たなる朝となりぬ 我等は今 御前に出でて 御名をあがむ――
ふ、と続く歌に娘の瞳が開く。まどろみから目覚めた視線が空を彷徨った。 ずるずる。 娘はバランスを崩して水の中に沈んでいきそうだった。神父は慌てて歌を止め、水から娘を引きずり出した。
「大丈夫ですか?」 穏やかな声音に娘はいくつか瞬く。視界には白髪に細い瞳。黒い洋装を纏った男が映っていた。 「だれ?」 ゆるゆると起き上がりながら問うが、一拍置いた後いくつか咳き込んだ。神父が慌てて軽く擦ってやる。 「私は御神槌……といいます。貴女は緋勇龍音さん、でしたね」 「ああ」 龍音はほう、と頷くと神父と聞いた、と呟いた。それは男であると聞いた、というのと同じように、事実を事実と言うだけの言葉だった。 「どうして那智滝に?」 「鍛錬を……岩が、水で滑った」 「頭はぶつけていませんか?」 龍音は頷く。 「それは幸いです」 それきり、なんとなく会話は途切れたが二人とも特に不具合を感じることが無い。穏やかな日光が降り注ぎ、柔らかく目を細める。
「さっきの……」 「はい?」 「さっきの、歌は……御神槌?」 「ええ。24番です。……賛美歌はお好きですか?」 どこか、おずおずとした様子で御神槌は聞いた。 「そういう歌を聴いたのは初めてだ」 江戸260年切支丹はご法度。龍音が聞いたことがあるはずもないか、と御神槌は僅か落胆した。 この国に入って唄いやすいよう、と訳されたものだがそれでも昔からあるこの国の歌とは異なっている。 「どう……思われましたか」 龍音は降り注ぐ太陽に瞳を伏せると、伸びやかに天上を指差した。 「空……?」 「ひかりのようだと、思った」 掠れた声で、囁いた。
「教えてくれ」 「……よろこんで。緋勇さん」
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