<外法1>
ぐるぐるとぐろを巻く龍になった夢を見る。 龍音が龍になる夢を見ているのか。 龍が龍音になる夢を見ているのか。 両方正しい、と宗崇は言った。
「おい……」 「おいっ、龍音!」 その日の目覚めは龍音としてのものだった。 風祭の声に瞳を開けると仁王立ちして睨みつけている姿が見える。後方に屏風。境界線だと言ったのは風祭であるのに風祭が越えることは是なのだろうか。
昨日、龍音は鬼の仲間になった。 間者とも知れない、監視役だと胸を張る風祭、十数年前に一度会ったきりの陰の継承者はいつからこの村にいたのだろうか。 幼い記憶は互いに曖昧で、龍音が娘だということを認知していなかった風祭は昨日は渋々ながらも同室を認めた。 だが明らかになったその事情を前に、それでも風祭の部屋を主張する龍音に罵声を浴びせた後、風祭は下忍に言いつけ、使われていない屏風を持ち出してきたのである。 部屋の中央にどんと置かれた古びた屏風。 (こっちからは俺の陣地だからな!入ってくるなよ!) 性別を気にした所作ではなかったらしい。 砂地に線を引いて主張するかのような風祭に、龍音は稚気が湧いたようで屏風の上から手をかざす。 (中空はどうする) (中空も駄目だ!こっちは俺の部屋。入ってくるな!)
「ようやく起きたか。起きろ!朝だぞ」 遅々とした仕草で起き上がると、風祭はしっかりと支度を整えているようで、既に軽く汗さえ流してきたらしい。 思いも寄らぬ賑やかな早朝。春とはいえ山の朝は冷える。温かな布団を迷いなく破棄できる辺りが風祭の若さなのか。 「新人のくせに、いつまでも寝てるなんて生意気だぞ。全く、こんな緊張感のない奴なのに、どうして御屋形様は……」 龍音は無言で風祭の向う脛を蹴りつけた。 「ッテ――っ!何すんだいきなり!」 「緊張感がないぞ。監視役」 「いい度胸だっ!表に出ろ!」 顔を怒りに染めて指差してくる風祭に、龍音は軽く首を傾げる。 「わかった」 「おおっ!……やけに素直だな。何か企んでやがるのか!?」 ふわり、と相好を崩して笑う龍音。 「里に住んでた犬を思いだす」 いぬ。 「……っざけんなー!!」 「朝から大声だな澳継」 「ぐっ……」 口ごもるので思い出したように風祭は片手に抱えた衣装を龍音に投げつける。 「早く支度しろ!御屋形様がくるより早く座敷に着くんだぞ」 「これは?」 「お前、ろくに着物もってねえだろ。貸しといてやる」 「澳継」 名を呼ばれて龍音を半眼で睨みつける風祭。待っていたのは小さく笑う姿だった。 「お前も優しい」 「ばっ……御屋形様に言われなかったらこんなことしねえよ!」 「なんだ。ではやはり優しいのは天戒か」 赤い衣装を広げながら、龍音は呟く。対して風祭は意識がそれて清々した、と思うはずなのにあっさり納得されるのはやはり気に入らない。九角が昨日龍音の衣装を気にかけていたのはそうだが、風祭に用意しろなどとは言っていない。いや、よく見てやれとは言っていた。だからこれは九角が言いつけたことなのだ。 わざわざ起こしに戻ってやるんじゃなかった。 龍音のやること為す事、全て気に入らないん、と舌打ちをする。 「確かに渡したからな!早く来いよ!」
障子を開き、ご丁寧にも閉めていく。風祭が去ったことで部屋はすっと静かになった。 渡されたのは赤い麻の着物で、白い切りの羽織も重なっている。袴ではなく胴着であるのにほっとする。袴や、むしろ女の着物を渡されても動き辛くて仕方が無い。 風祭は青がよく似合う。こんな赤い着物を持っていたとは意外だった。一番着ないものを差し出してきたのだろう、虫除けの薬の匂いが僅かに香った。 赤い着物。赤。 龍音は赤を好いている。機嫌よく瞳を細め、手早く衣装を身につけた。遅れると風祭がまた騒ぐだろう。 結構、気にいっているけれど。 着替えを終えて、縁側に続く障子をからりと開けた。 朝の気配は清しく、昨日の曇天が嘘のようによく晴れている。
ほとほとと歩みを進めながら、龍音は唐突に足を止めた。思いもよらず行き止まりになってしまったからだ。 おかしい。確かこちら側が昨日の広間に通じたと思っていたが。 きょろきょろと周囲を見渡してみるが動く人の気配はなく、左右に部屋があるばかりである。そのうち片方には妖の気配、ここは桔梗の部屋か。 京より一年。江戸に行こうとしたのにそれだけかけたのは真っ直ぐ道が歩けなかったからだ。気配が強いほう、と霊山に行き当たったり町に出ては気配の薄さに困惑したり。昨日来たばかりの屋敷ではろくに場所がわからない。 聞けばいいか、と呼びかけと同時に障子を開けた。 「桔梗」 呼ばれた桔梗は丁度ぼんやりまどろみに浸っていたところだった。寝入ってなかったのは幸いか。とろんとした半眼で龍音を見やると「おや」と声をあげる。 「龍さん、起こしにきてくれたのかい?」 首を傾げる龍音に桔梗は不思議そうな顔をしたが、直ぐに笑って支度をするから先に行ってくれ、と告げた。それでも首を傾げたままそこに佇む龍音。 「どうしたんだい?」 「……どこ、広間」 一瞬後に、狐の笑いが木霊した。
「それ、坊やに借りたのかい」 「ああ」 「坊やは、あれでいて結構良い趣味をしているからね。似合ってるよ」 少し嬉しげに動いた表情に笑った後、桔梗は行き方を説明する。こくこくと頷く様子から、別に方向音痴なわけではなかさそうなのだが。 では後で、と手を振る桔梗に頷いて、去ろうとした龍音を呼び止めた。 「そうだ、龍さん」 「なんだ」 「あたしは気にしないけどね。今度からは、一声はかけて返事を聞いてから開けたほうがいいよ。それが礼節ってもんさ」 「わかった」 素直なのかね。障子を閉めて桔梗は思う。風祭が緋勇の里に訪れたのは十数年前。緋勇の里が幕府によって取り潰しとなったのがそれより少し後。 十年余、どこで何をしていたのだろう。 風祭の様子を見ていても、気を操るのはともかく外法など身につける縁があるとは思えない。
「よお、やっと目が覚めたか!」 からり、と障子を開くと朝食の準備が並べられている。上座は九角の座であろう、それから左右に三つ設えられていて、一つに風祭がいる。 「御屋形様と桔梗がまだだ、座って待ってろ。言っとくがなあ、馴れ馴れしく俺の横に座るんじゃねえぞ、お前の場所は」 指差そうとしたのは風祭の正面の座である。それもそれでどうかと思う。 「俺から離れた席だ!」 龍音は周囲を見渡して、中央上座へと進む。 「馬鹿、そこは御屋形様の席だぞ!」 「一番離れてる」 「だからって――」
「おはようさん」 障子がすれる音と共に桔梗が顔を出す。立ったままの龍音と中腰に指をつきつけた風祭の姿に呆れたようにする。 「何やってるんだい」 「だってこいつが」 「面白いから」 なっ、と気色ばんだ風祭に桔梗が合点したように頷いた。 「たーさん、あんまりからかっちゃ駄目だよ。可哀想じゃないか」 「大概にする」 頷いて風祭の隣に座る龍音、定位置へと腰を下ろす桔梗の二人に風祭はしばらくきょろきょろとしていた。
「ありがとうねたーさん、起こしてくれてさ。坊やときたらやたら早起きのくせに起こしに来た試しがないんだから」 「なんで女なんかを起こしに行かなきゃならないんだよ」 風祭の体験してきた短い人生の中でも、起き抜けの女というのは関わるものではない、と思っている。 支度をしてないと怒り出し、外で呼びかけ続けても起きはしない。面倒事には関わらないほうがいいのだ。 「たーさんも女だよ」 「ばかやろう。こんなの女に入るかよ!」 桔梗の言葉に隣の龍音を指差した。身長は同じくらいと言っても龍音は女だ。身体のつくりが違う。加えてガリガリに痩せているので風祭の服は少し大きく見える。 女性にあるべき身体の丸みに欠けているので、道着を着ているとまるで少年である。 「でも美人さね。この村で美味しいごはんを食べればちゃんと太るさ。その時になって今の言葉後悔するかもしれないよ」 龍音は風祭を蹴ることもせず姿勢よく座っている。昨日は夜遅かったが、今は朝の明るい光が室内にも届くかのように明るい。桔梗も心中で嘆息したことに、痩せっぽちではあったが龍音は綺麗な顔をしていた。表情の変化が乏しいので、たまに笑う姿が愛らしい。 「こっ、これくらい、どこにだって――」 「ふふ、ムキになりなさんな。それとも実はたーさんの寝顔を眺めていたりしたのかい?」 「なっ。だ、誰がこんな奴の顔なんか!」 「あはは。坊やにはまだ早いかもしれないね」 すっかりへそを曲げた風祭だが、年齢的には武家ならば嫁をもっていてもおかしくない年頃だ。まだ早い、と言わしめるのは風祭の性質であって、その気兼ねの必要なさが龍音が同室に風祭と求めた理由なのかもしれなかった。 話の種とされている龍音は、だがぼんやりと中空を見上げている。 先ほどから香ってくる食事の香りが食欲をそそっていて他のことに気が回らない。昨日は山になっていた果実を一かじりしただけなのだ。
「桔梗様、澳継様。お味噌汁をお持ちしました」 通いの下女が食事の支度を整えていく。もうじき九角が来るのだろう。 「今朝の具はなんだい?」 「桔梗様のお好きな大根と油揚げでございます」 「そいつはいいねぇ。おかわりしちまうかもしれないね」 「ふふ、たんとお召し上がりくださいまし。お客人も」 じっと食事を眺めている龍音への呼びかけに、当人ではなく風祭が反応する。 「こいつは客人なんかじゃないぜ」 不機嫌そうな声音に桔梗が笑って付け足した。 「天戒様がね、たーさんを鬼道衆の仲間にするつもりなんだよ」 「まあ、それはお凄い!」 昨日の戦いにおいて、戦う龍音も癒す龍音も相当に目立っていた。その場にはいなくとも、話には聞いているのだろう。下女は嬉しそうに笑う。 「フン。凄いもんか」 不機嫌に拍車がかかった様子の風祭。 「御屋形様も手駒が欲しいだけさ。九桐が戻ってこないんだからな。そうじゃなきゃこんな怪しい奴いれるもんか」 「九桐ね……今頃どこで何してるのかね。あの放浪癖にも困ったもんだよ」 九桐。話す二人の語感には親しみが感じられる。それもまた鬼道衆の一人なのだろう。それもかなり中核にいる。 「知らねえよ!また、王子の骨董品屋にでも足を伸ばしてるんじゃねえか?」 「骨董」 反応した龍音に風祭は苛立ちを抑えきれない顔で視線を向ける。 「なんだよ、龍音も陰気な骨董に興味があんのかよ?」 こくり、と頷く龍音にさらに問おうとしたところで、低くよく通る声が届いた。 「尚雲のことなら心配要らぬだろう。必要になれば自ずと帰ってくる」 三者がそれぞれ視線を向けると、そこには九角の姿があった。下女が深々と一礼し広間を後にする。 「御屋形様」 「あいつは、俺に断りもなく勝手に野垂れ死ぬような奴ではない。未だに村に戻らんのも、何か理由があるのだろう」 九角は信頼しているようだった。龍音は九桐という人物に少し会ってみたくなる。 主が座に着くと広間の空気がぴっと通る。それぞれ九角に礼を整え、朝食の時間となった。
「たーさん、どうだい見るからに旨そうだろう」 膳に箸をつけた龍音の顔が若干緩んだ様子をみて桔梗が声をかけた。こくりと頷く様子にはどこか稚気がある。 フン、と極力隣に視線をやらないように風祭は食事を進める。 「気になるのは、尚雲よりも参番隊だな」 同じく食事を進めながら九角。 「幕府もあの女を血眼になって捜しているはずだしねえ。何かあったのかもしれないね」 「生きてるかもわかんないような女、よく捜すもんだぜ」 九角の表情が少し翳る。龍音がそれを見上げる横で桔梗が呆れたような声を出していた。 「あたし達鬼道衆だって、あの女を見つけることが大事な目的の一つだろ」 「そうだけどよ」 「あの、女?」 「……龍音、<菩薩眼>というのを知っているか?」 「龍脈の読み手」 「ほう。菩薩眼を知る者は覇道を狙う者と相場が決まっている。これでますますお前の正体がわからなくなったな」 あまり、長く話したい話題ではないようだった。 「鬼道については……お前にこの問いは愚問だな。当然知っていよう」 頷く龍音に九角は二冊の書を取り出した。古びて読み込まれてはいるが、その古さを想像すれば、異例なほど状態が良い。 「ここに二冊の鬼道書がある。鬼道とはお前も知るように卑弥呼に始まる呪術の一つ。この書は卑弥呼が巫女である壱与に乗り移って書き記したといわれるものだ。九角家に代々受け継がれてきた。……陽の書には練丹、占術などの陽の呪術。陰の書には反魂、厭魁などの陰の呪術の秘奥が記されている」 お前も熟読すれば外法に磨きがかかろう、と笑うと九角は書をしまう。 「菩薩眼もそこに記されていた。参番隊はその女を捜しているのだ……お前も鬼道衆の一員として留意しておくことだ」 「では天戒様、今回の任務は」 「ああ。参番隊からの連絡がない状況を探って欲しい。それと最近幕府の動きが活性化している。内藤新宿で動向を探れ」 「はっ」 大阪と密に書状のやり取りをしているという話もある。と延べ九角は龍音に視線を向けた。 「どうだ龍音。お前も行ってはくれぬか?」 命令するような語調ではなく、穏やかに問うた九角の言葉に、龍音は頷く。 「構わない」 命令を承る台詞じゃない。風祭が眉をしかめるが九角が気にした様子はなかった。 「うむ。今回はお前の力を皆にみせる機会でもある。しっかりとな」 情報収集は組織を動かす上で重要なことだが、新入りで滅多なことは頼めないといってもあまりに血の匂いの薄い任務だ。龍音が溶け込み易いように気をつかったのかもしれない。 おそらく否と言っても九角は仕方ないと苦笑したのではないだろうか。
「そうだ、龍音。この村を守る霊場について誰かからきいているか?」 「いや」 「無理もないさね。昨日来たばかりなんだし」 「うむ。……そうだな、俺から教えておこう。この村を中心として、場には四つの霊場がある。那智滝、双羅山、夜氏之社、そして鬼岩窟」 「その名は……」 「そうだ。熊野の那智の滝、日光の二荒山、京の吉野森……各地の霊場の名に照らして言霊を冠した」 「結界のためか」 「そうだ。お前も行ってみるといい、肌で感じることが出来るだろう」 道理でこの山が清いはずだ。だがそれにも勝って陰氣を発しているのは鬼岩窟なのか。それとも徳川を呪う人々の念なのか。 「村の案内も、たーさんの紹介もしてないしね。それもしないと」 「……おい、そんなことより早く行こうぜ。日が暮れちまう」 難しい話が続いたためか、風祭は機嫌が悪い。既に食事を済ませてしまったのも原因の一つだろう。 「夜の方があたしらには動き易いだろ」 「そうだけどよ……」 「だったら早いほうがいい。ねえ坊や」 「……なんで俺だよ」 「あんたしかいないだろう?たーさんを案内してやりなよ。あたしは嵐王に用があるんだ」 暇だろう、と言い切られ風祭が言葉に詰まる。 「で、でも龍音が嫌かもしんねえだろ」 「たーさん、嫌かい?」 「楽しみだ」 「なんでそんなに行く気満々なんだよ」 「たーさんは坊やが気に入ったみたいだね。ちゃんと案内してあげるんだよ」 「ちっ……おい、早くメシ食い終われよ。ぱっぱと済ますからな」 不満を述べながらも、風祭は面倒見がいい。龍音は表情を緩ませた。
広場で待ち合わせと決め、膳を前に一礼。
「では、天戒」 「うむ。行って来い」 龍音はその言葉に少し不思議そうな顔をしてから破願した。
「帰る場所があるようで、いいな」 微笑む龍音。
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