<因果2>

「お前は、幕府の者か」
 首を振る龍音。
「ならば倒幕派か」
 首を振る龍音。
「俺は鬼だ」
 小さく惑って、頷く龍音。
「面白い男だ。怖くは無いのか」
 紅蓮の男は、龍音の眼前に切っ先を突きつけていた。それを気にすることなく龍音は男の目を眺めている。
 問いに僅か首を傾げる。
「刀は……突きつけて使わない」


 龍音の言葉に、男はふっと笑いを浮かべた。ひゅっと風きり音を残して、刀を鞘に納める。
 殺すには惜しいな、と囁く。
「緋勇。俺の元へ来る気はあるか」
「……」
 龍音はじっと男を見つめると、傍の桔梗に視線をずらした。
「女は、どうした」
 桔梗はその言葉に目を見張ると、張り詰めていた気を一気に溶かした。
「お目当てじゃなかったし、気を失わせて帰したよ。小屋の男には逃げられちまうしさ……ひょっとして、だからあたしについてきたのかい」
 それを聞くと、龍音はふ、と破願した。笑みと呼ぶには小さな変化であったが、あどけない表情は聞いた年よりよほど幼く思える。
 なんだい、それを気にしていたのか。桔梗は嘆息を禁じえない。
「行く」
 短い答えに男は笑った。
「ついて来い……離るるば」
 死ぬ、といったのか殺すといったのか。
 振り返ることさえせず背中を見せて歩みだした男を見ながら、龍音は山の奥へと踏み込んでいった。


「育ての親って……この方みたいな髪をしているのかい?」
 道中問うてくる桔梗に、龍音は小さく頷いた。
「紅蓮の色の髪をしている」
 それから瞳を僅か翳らせて「江戸にはついた。もう、手がかりは無い」と呟く様はあれほど静かに山氣を制した者と同一人物には見えなかった。龍音にとって、とても重要な探し人なのだと桔梗は感ずる。
「あれも、刀を使う」
 では、だから龍音は無手であるのに刀に無知ではないのか。
「あんた、外法も使うようだけど」
「……私は下手だ」
 ぷいと龍音が視線を逸らす様子を見て、桔梗はくっくと笑う。
 無言で歩を進める眼前の男が、少し呆れたように肩を竦めた。


「緋勇、見ろ」
 男が足を止めて促す。深い森を抜けて眼前に広がるのは燈篭の数々だった。
 すっかり雨は止み、空には月が昇っている。これほど月が明るい夜だと言うのにあちこちに焚かれた篝火がどこか悲しげだった。
 大きな門がそびえ、そこから中へと入れるようだった。周囲は高い囲みが張り巡らせてあり、奥に見える強い陰氣の地へ続く道以外はすっかりと囲んでいるようである。見張り櫓とおぼしき上から、こちらへ視線を飛ばす者が早いうちから視線が合った。
「開門――!御屋形様のお帰りだ!」
 暗闇に閉ざしていた門が開く。篝火に照らされる中へと。
 だが山間の村はどこか暗く見せ掛けの温もりに満ちていた。
 こんな場所を、龍音は知っている。
 泣きたいくらい懐かしく、独りではいられないあの場所と、同じ空気がそこにあった。


「驚いたかい?こんな山奥に村があって」
 龍音は頷く。規模こそ小さいものの、山奥にあるとは思えないほど、しっかりと作られた村だった。
 男が振り返って龍音を見る。
 扉が開く様子をじいっと見つめる様子に僅かに瞳を揺らすと、名を呼んで注意をひきつけた。
「歴史の裏に、忘れ去られたもの達が……この国に哭き声をあげる場所」


「ここが、鬼哭村。……俺達の村だ」

 桔梗は述べた。鬼は人が変じたものだと。
 ここは、鬼が己は哭く鬼であると課した村。


「御屋形様よくぞご無事で」
「九角様」
「天戒さま、おかえりなさい」
 大門を通ると方々から集まってきた人々によって、瞬く間に男は囲まれた。それを龍音は不思議な気分で見やっている。紅蓮の髪が、慕わしげに人々に囲まれているというのはどこか違和感を覚える。
 彼らはいずれも男をとても好いているようだった。男もまたそれに温かな笑顔で答えている。
(……九角)
 小さく龍音は反芻した。それは覚えのある姓である。歴史に封じられた名として。
「出迎えご苦労。だがもう日は落ちた。山から獣など出てくるかもしれん、女子供は家に入っておれ、男達は警備を頼むぞ」
「はいっ」
 男の一声で去っていく村人達。つまり、この村はそういう場所なのか。


「おい」
 少年の声に、龍音は顔をあげた。頭上に気配がする。どこか温い氣に僅か瞳を細めた。
「おや坊や」
「坊やと呼ぶな。なんだよ、そいつ?」
 木の上から飛び降りたのは胴着姿の少年で、龍音よりも年下に見える。じろじろと胡散臭いものを見るような目でねめつけていた。
「緋勇龍音っていうんだ。新しい仲間だよ、見ておやり」
「仲間!?こんなひ弱そうで背の低いやつがかよ」
「そうだよ。山氣の鬼を倒したんだよ」
「山の氣が薄かったんじゃねえの…………?」
 不快そうに吐き捨てると、ほとんど並んだ目線で睨みつけてくる。龍音の黒い瞳がそれを受け止めた。
 龍音が少年の睨みつける目線に既視感を覚えるとほぼ同時に少年の眉が顰められる。
「緋勇?」
 そんなの変だ、おかしい。とでも言いたげに少年は言葉を続ける。
「だって緋勇は」
 龍音は咄嗟に足が出た。
「――ッテェ!」
 思い切り入った蹴りは随分といいところに入ったらしかった。少年の顔が思い切り歪む。
「何すんだテメェ!」
 があっと吠え立てる少年に、龍音はだが戸惑った。蹴りをいれたのは、そう蹴りをいれたのは……。
「……そこに、あるから」
「ふざけんなあ!闘ろうってんのか!」
 苦し紛れの言い訳に、少年は挑発されたと受け取ったらしい。龍音はそれで誤魔化せるならいい、と思った。それに。
 ……それに、「風祭」と手合わせは、悪くない。
「およしよ坊や、これからお屋敷に連れて行くところなんだからさ」
「るせえ!おいお前、俺の背が低いからって舐めてんじゃないぞ!」
「自分で認めてたら世話無いよ」
 少年は苛々と地面を蹴りつけ龍音を指差した。
「おい緋勇!俺の名は風祭澳継。御屋形様の右腕だ!お前なんかにこの村ででかい顔はさせないからなっ!」
 来い、と言うように風祭が龍音の腕を引っ張る。その細い腕にこんなので大丈夫なのか、と再度眉を顰めた後、風祭はまたもや記憶を漁ることとなった。先に龍音の瞳を見たときと同じだ。
「緋勇……龍音?」
 腕を掴んだまま、風祭は龍音の瞳を覗き込んだ。龍音は、今度は蹴りをせず黙って……いや、少々バツの悪げにじっとしている。
「お前、たんたんか!?」
「澳継、いい加減にしろ」
 妙な呼び名を、と桔梗が声をあげる前に、咎めの声が入った。その声には如実に苦笑が込められている。
「お、御屋形様……あ、あのこれは――」
 急に途切れ途切れになった風祭に、龍音も少し笑う。あどけなさの強い笑いに風祭が地団駄を踏んで悔しがる。
「もう良いな。澳継、俺達はこれから屋敷に戻る。お前も来い、話がある」
「俺も?」
「そうだ、行くぞ」
 男が背を向けるので龍音は後を追うと、風祭がそれを追い越そうと早足で過ぎ去った。龍音もそれに倣う。
「真似すんなよ」
 不機嫌そうな風祭に、龍音はまた少し笑った。


 ここは、どこだろうか。
 この温い空間はなんだろう。
 どうして、こんなにも胸が詰まるんだろう。


 失われた感覚だからだ、と龍音は承知している。
 それでいて、知らない感覚だからだ、とは気がつかなかった。


 案内された屋敷は、それなりの広さをもっていた。山中の村にしては驚くほどに。それもどこか思い出を荒して龍音は苦しい。屋敷の中には調度品などがあるわけではなかったが、どこも丁寧に掃除が行き届いていた。
 奥へと案内され広間へと通される。
「そこに座れ。桔梗……酒の準備を」
「あいよ」
 龍音が座にかけると男はほう、と微かに賛じた。
 武術をやっているからなのか、龍音は体の筋を揺らがせることなくしゃんと背を伸ばしている。元々ボロきれに近かった服は雨をうけて更に劣化していたが、それを除けばどこの武家の一員だ、といった様子だった。
「この村に入り、分かったと思うが……俺達は鬼道衆。江戸に出る鬼とは俺達のことだ」
 宣誓に男は龍音の様子をみたが、龍音は何ら動揺した気配もない。やはり既に承知でいるのだろう。
「お前から何か聞きたいことはあるか」
「……"おやかたさま"について」
「俺か?名乗ってなかったか……俺の名は九角――九角天戒。鬼道衆の頭目だ」
「天を戒めると書く?」
「そうだ」
「……九角は、今は失われた名だ。もはや俺以外に名乗るものはいない」
 ふと気がついたが、九角は、龍音の姓については何一つ聞かない。龍音も聞きはしなかった。


「御屋形様、本当にこいつを仲間にするんですか?」
 不機嫌そうにそう口にする風祭に九角は視線を向ける。
「そのつもりだが、不服か」
「い、いえ。……そういうわけじゃないですけど」
「緋勇、澳継とは知り合いか」
 風祭に聞かず、龍音に聞いたのは風祭に有無を言わせないためだろう。実際、龍音は返答に困りながらも口を開かざるを得ない。この紅蓮の髪に問われたら口を閉ざしていられない。
「……一度だけ、会ったことがある」
 龍音の言葉に風祭は堰を切ったように口を開いた。実際堰はあったのだ。龍音が故意に作った堰が。
「緋勇の里は、十何年か前に幕府に滅ぼされてるんです。生き残りはいないって聞いてます。こいつがいるのは、変じゃないですか。幕府の密偵かもしれないし……」
 話を次ぐたびに、風祭の勢いが鈍った。自分でも説得力がなくなっていくことがわかったのである。
「緋勇……って、聞いたことがあると思ったら十数年前のあれかい」
 ただ今戻りました、と付け足して桔梗が戻ってきた。
 九角が説明を求める視線を桔梗に向けるが、だがその前に止める言葉が入る。
「終ったこと、だから」
 龍音は瞳を伏せていた。長い前髪もあいまって表情が全く読めなくなる。
「お前は幕府に復讐したいとは思わないのか?」
 ゆるりと首を振る龍音に風祭が何か言い募ろうとするが、桔梗がそれを遮った。
「幕府の狗だとしたら、その時は口を封じればいいだけだよ」
 桔梗が天戒の杯に酒を注ぐ。龍音は少し俯いてその様子を眺めていた。
「……俺達鬼道衆は、互いの過去を気にせぬ。すまなかったな緋勇、探るような真似をして」
「いい」
 むしろ、隠している龍音の方が悪い気になった。こんな記憶は別に龍音の心を揺さぶるわけではない。ただ言いたくない、と思うだけで九角が思うように傷が残っているわけでもないのに。
「桔梗、注いでやれ」


「緋勇、お前も呑むがいい」
 龍音は促されて杯を取った。
「酒は好きか?」
 少し悩んでから頷く。
 酒に酔ったことはない。だからこそその旨味を存分に味わうことが出来た。微かな苦味が喉をすべり、極上の色合いを醸している。
「そうか。俺も酒は好きだ。酒は茶の代わりになるが、茶は酒の代わりにはならぬ。天地に愛された酒を飲むことは、天地を愛することに等しい」


「お前と、我等を惹き合わせた星の導きに」
 二人は酒を呷った。


 龍音が酒を呑みほすと、同じく杯を傾けた九角と目が合った。
 酒を飲み交わす、と言うことで儀式代わりにするつもりなのか。
 さもなくば殺す、とのたまったのに九角の態度からは殺気が見えない。
「旨い。今夜の酒はまた格別だ」
 桔梗が順次注ぎ足す。
「そういえば、変な女に会いましたよ。白い着物の三十四、五の……ちょっと気になる感じでしたね」
「ふむ……甲州街道に放った参番隊からの報告は?」
「まだ戻ってないよ。何かあったのかね……」
「あやつらも訓練は受けている。そうそう斃されることは無かろう」
 そう述べる九角と桔梗の表情には憂いが見える。参番隊とやらを心配している様子だった。
 この鬼を名乗る人間達は、随分と情に厚いようだ。心配と言う言葉を抱いたことの無い龍音は思う。それとも鬼の面をつければ瞬く間に非情の徒と化すのだろうか?
 面は己の第三の顔。そういうことなのかもしれない。
 周囲を彷徨う者たちへの憂いを告げる桔梗に、九角は結界を強める必要があるな、と重ねて述べた。
「そうなら、山氣の鬼と死合った所を重点に」
 雨を媒介にしたから、結界に影響しているかもしれない。
 何をしたんだよ、お前。と風祭が水を向けるが九角は眉を寄せるのみであった。
「以降、この山で広範囲の解の外法は行うな」
「わかった」
「緋勇、お前結界は張れるのか」
「少しなら……」
「よい、後で見せてみよ。上手く相生できるやもしれん」
 風祭の表情がみるみる難しくなる。龍音が何か力を及ぼす、というのが気に入らないのだろう。分かり易い様はいっそ気持ちがいいほどだ。
「この村に踏み込まれることだけは、避けねばならんからな……」
 それは、幕府を倒すよりも。そう言っているように見えた。そして、それは言ってはいけないことのようであった。
「この村にやってきた外の人間は、久方ぶりだ」
 龍音はぺろりと酒を舐めながら九角を見やる。
 この男は、どうして龍音を連れてこようと決めたんだろうか。
 里は滅ぼされようと倒幕の意思は龍音には無い。それに、それはここに来てから風祭によって明らかにされたことであるはずだ。
 紅蓮の髪を視界に収めて、龍音は九角の次の言葉を待った。
「お前は、歴史に記された事柄の全てが真実だと思うか? 」
 龍音は黙って首を振る。
「真実を見極める瞳は持っているか。――それでは、何をもって正義とする?闘いに勝った者か?それとも信念を貫く者か?」
「正義など、己の中にしかないものだ」
「己の信ずること、そこにのみ正義があるというか?」
 龍音の言ったことは、より否定的な意味であったが九角は苦しげに吐露するのみで、それを聞きたいわけではないようだった。
「下らぬ。……そんな下らぬ信念のために命を落とすとしたらどうする。大切なものを失うとしたら……それでも、お前は信念を貫けるのか」
 龍音はどう答えればいいのかわからなく俯いた。それから小さく首を振る。
「……信念など、歴史の巨大な潮流に比べれば儚きものよ。徳川と言う流れに比べればな……そう、徳川幕府はそうした多くの屍の上に成り立っているのだ。幕府とは名ばかり、実体は罪人どもの集まりよ。徳川に破れた故に歴史の影に埋没した多くのものを……この村をみれば分かるだろう」
 酔ったのか。九角は思う。
 今夜は妙に饒舌だ。
「誰が、その恨みを晴らす」
 それは、重苦しく九角の肩に背負われた宿業であった。


 貴方こそがその資格がある、と説かれる。
 親の顔など覚えていない。
 己よりも強く、深く悲しみと憎しみを抱いた者こそ資格があると言えるのではないか。
 だが一日一日を精一杯生きる者たちに、それを課すのは重荷ではないのか。
 それならば俺が背負う、と思ったのである。
 だからこれは、むしろ義務だ。


「待っているだけでは誰の救けもこない。この腐敗した時代を壊さなければ、真の平和は訪れはしないのだ」
 九角の饒舌さと比べて、面した龍音は黙って聞いているばかりである。
「平和とは待っていても訪れはしない。勝ち取るものなのだ……」


「違うか」
 問答の中、初めて九角は龍音の意見を聞いた。見つめる黒い瞳に動かされたのか、龍音はどう答えるのか、と聞きたく思ったのか。
 龍音の返答は遅かった。思考を重ねていたのだろうか。
「違うとは、思わない。時代の変事に戦いは常に起こる……だが」


「悲しく、思う」

 戦いを続ける人がか。
 愚かな政府がか。
 それとも己に言い聞かせずにはいられない九角がなのか。


 九角は言葉を失った。正面の龍音だけに見えたことだが、その瞳の中には迷いが映る。
「……」


 呷った酒は、苦かった。 




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(11/03/20)