<因果1>

 小屋に入ったのは、氣に誘われたからだ。
 森深い山に入ってしばらく、惹かれるように足を進めた場所には先客が居た。白い獣の氣をまとう坊主である。見るとすっかりと寝入っているようで起きる様子は無い。
 常は野宿を好み木陰で休むなどしている身ではあったが、いびきを立てながら寝ている坊主を見ていると、ここで今日は休もうか、という気になってきた。
 坊主とは離れた壁に背をもたれさせ、瞳を閉じるとほどなく眠気が襲ってくる。長い強行軍に、思いの外疲れているようだった。
 ざわざわと風が木々をざわめかせる音が遠い。


「……と、ちょいと」

 女の声がして「たつと」は目を覚ました。覚醒した意識に木戸を叩く雨の音が届く。いつの間にか外は雨になっていたらしい。パチパチと軽く火がはぜる音がする。それにやってきた時には感じなかった幾人かの気配。
 「たつと」が身じろぎを見せると、女の声が再度届いた。
「悪いね、起こしちまって」
 目を開けるとそこには三味線らしきものを抱えた妖艶な女が「たつと」を覗き込んでいる。黒々とした瞳が開いたことで居住まいを整えると、軽く「たつと」の横を示した。
「雨宿りも退屈でね。隣に座ってもいいかい?」
 了承を求めてくることに違和感を感じながらも「たつと」は小さく頷いた。好きにすればいいのに、と思う。どうせ「たつと」には関係のないことだ。人間はいちいちこうして許可を求めるものなのだろうか。
 頷くことで黒髪がぱらぱらと視界に振り落ちてきた。出鱈目に切られた黒髪はまとまる様子がない。身にまとうボロにガリガリの身体とあいまって「たつと」の身体を余計に小さく見せていた。
 前髪を振り払おうと小さく首を振る様子をみて、女は僅か唇の端を吊り上げる。狐の微笑だ。


 女は隣に腰掛けると手にした三味線を軽く揺すりながら詮無い話題を振ってくる。微かに薫る陰氣。
「あたしの名は桔梗。兄さんはなんてんだい?」
「……ひゆう、たつと」
 名を名乗るのは何年ぶりか。己の名が実に口にしにくく思いながら名乗ると、桔梗はわずか首を傾げた。
「珍しい姓だね。どう書くんだい」
 言われて「たつと」は懐にしまいこんでいた手を床板に伸ばした。『緋勇』と記す。
「良い名じゃないか」
 どこぞで聞いたような覚えがする響きだけれど、と桔梗は呟いた。良い、と言われても「たつと」にはよくわからない。名は名だ。固体を示す一番鮮明な言霊である。
「生まれはどこなんだい?」
「…………武蔵?」
 疑問符を載せた答えに桔梗は訝しげな色を見せたが、直ぐに「見えないねえ」と軽く混ぜた。緋勇の里は武蔵にあったはずだから、間違ってはいないはずだ……。
「浪人のようにも見えないけど、いくつなんだい?」
 桔梗の重ねた問いに、「たつと」は僅か眉を顰めた。名と生年。それは呪いをかけるために必要なものである。外法に携わるものならば、まず他人に知らせはしないだろう――だが「たつと」はくだらないことだ、と思いなおす。桔梗が「たつと」に呪いをかける意味がどこにあるだろう。もしもあったとしても……狐の呪いがこの身にどんな災いを及ぼすというのだろうか。
「長月の、十日」
「へえ。……まあ、こんな時代だからね」
 あっさりと呪の材料を差し出したので、桔梗の表情が少し和らいだように思えた。
 人間は不思議だ。
 他愛もないことで態度が変わる。


「お二人さん、随分話が盛り上がっているようでないの。俺も仲間に入れてくれよ」
 他の幾人かの気配のうち、一人が声をあげて近づいてくる。白獣の気配の他、男と女の気配がしていたが、言葉の主はそのうち男のほうだった。小袖を着た目の細い男だ。
 真黒の瞳に映されることに男は不快を感じたらしい。お前に聞いてない、と罵りをあげ桔梗をじぃっと見つめている。桔梗は不快の色を丁寧にない交ぜ適度な距離を保ったまま返事をした。
「ああ、いいよ。こんな時だ、離れて座っているのは不自然ってもんさ。どうだいそっちの二人もこっちにきたら」
 桔梗の言葉に奥に居た朱袖の女はほっとしたように寄ってくるが、坊主は依然いびきをかくばかりである。
「ちょいと、お起きよ」
「……坊さん、起きろ」
 桔梗に倣って「たつと」も声をかけるが、坊主は起き上がろうとしない。目覚めている気配がするのに返答しない様子が「たつと」には不思議だった。
「地震が起きても……って感じだね」
「無駄だぜ。俺も何度か声をかけたが起きる様子が無い」
 二人の言葉に「たつと」は声をかけるのを止めた。坊主には坊主の思惑があるのだろうと思う。


「それにしても、止まないねえ」
 外で続く豪雨の音に桔梗が溜息をついた。藍色の布を解くと、その中からは三味線が出てくる。爪弾く様子は手馴れていて、心に澄んだ。
 誉めひそやす男と女に、桔梗は満足げに頷く。
「あんたはこういう歌は好きかい?」
 その言葉に「たつと」は小さく頷いた。雨に濡れた妙音だ。久々に聞く楽の音はどこか荒涼としていて、桔梗の心境が窺えた。この女は、嬉しい時はもっと妙なる業を奏でるのだろう、と思う。
 頷く中にそれを見て取ったのか桔梗は眉を片方だけあげるが、気にしないことにしたようだ。
「まあいいさね。……しかし、雨宿りは解るとして、なんだってこんなところに来たんだい?」
 その響きは何気ないものだったが、「たつと」は小さく身構えた。狐は本題に入ると慎重だ。これは、桔梗がもっとも気にしていることなのだと気がついたのである。


「あたしは、ここらに知人が住んでいて……まだ明るいから山道も大丈夫だと思って通ったんですけど。雨に降られてしまって」
「そりゃ災難だったね、あんたは?」
 よくぞ聞いてくれた、とでも言うかのように小袖の男は胸を張る。
「江戸に鬼が出る、ってえ話をきいたことがあるだろう?」
 三人はそれぞれ頷いた。「たつと」もしばしば街道に降りた時に江戸の鬼の話を聞いたことがあった。
「ああ、小耳に挟んだことがあるよ。なんでも町では鬼が出て偉いさんを襲うとか」
「俺は鬼は鬼でも鬼の面を被った人なんじゃねえかと睨んでるんだ」
「ひと」
 小さく呟かれた「たつと」の声に、男は気がつかず口上を続ける。
「多分、長州か薩摩か……まあ幕府に弓引きたい奴は多くいるからそれのどれかだ。そいつらが、この山に潜んでるんじゃないか、ってね。山に入っていく鬼の姿を見たって話があるのさ」
 小袖の男はしたり顔で「たつと」に視線を向けた。
「幕府は奴らを見つけるのに躍起になってるんだ。情報一つにたんまり褒美がもらえるぜ。どうだ、あんたたちも一口のってみないか」
 朱袖の女が困惑したように首を振る中、男が「たつと」に視線を向けているのは、この手にはまった手甲のためなのだろう。ボロボロのていの「たつと」だが、その手甲は武術の心得があるのではないか、と思わせる。
「お前は、死にたいのか」
 掠れた高めの声に、その場の視線が集まった。小袖の男は呆然としたように「たつと」を見つめている。脳髄を酔わせるような声だった。
「ど、どういうことだ?」
 物分りの悪い言動に「たつと」は説明を迷った。死にたいならそれでいいのではないだろうか。口を閉ざした「たつと」に男が苛立ちの声をあげる前に、桔梗が空気を遮った。
「そういえば、知ってるかい」
「何をですか?」
「この辺り、出るんだよ」
 鬼が。
 小袖の男はその言葉に色めき立つが、桔梗は素早くそれを否定した。
「あんたの言う倒幕の志士とかじゃなくてさ。あやかし、魔物、妖怪……そういったやつだよ」
「はあぁ?」
 男は眉唾ものだ、と言いたげな声をあげるが桔梗は大きな声をあげて彼らを起こしてはいけない、というように密やかな声音で続けた。
「本当さ。この辺りは出るんだって。周囲の人間はいつも噂している……」


 ドンドンドン

 視線がぱっと入り口の方に向けられた。
「な、なんだ?」
「誰か来たのかい?」
「こんな雨の中にかよ」
「あたし達みたいに雨に降られてしまった人かも……ちょっと見てきますね」
 朱袖の女がそう言って立ち上がり、入り口の方に歩いていく。「たつと」は隣に座った桔梗を見やるが、別段気にした様子も無く座っているので女を黙って見送った。
「ほおっとけよ」
「まあまあ、いいじゃないか」


 ぴしゃり、と戸が閉まった。途端雨の音が小さくなるが、自然と会話が途切れる。

「そういえば……」
 出し抜けの桔梗の言葉に、男はびくりと背を震わせた。
「どうして、鬼が生まれるのか知ってるかい?」
「なんだよ」
 ひきつった声を出す男に、桔梗はおかしそうに笑っていった。「さっきの続きだよ」
「心毒もって鬼となる……鬼っていうのはね、人の妄執や憎悪、そういった負の思いが作り出すんだよ」
 だから、いつどこに現われてもおかしくはない。
「例えば、あんたの後ろにだっているかもしれない」
「へっ、姉さん脅かしちゃいけ――」
 たんっ、と男の後方から音。「ひっ!?」男は振り返るが何も無い。
「風だ」
 小さく呟かれた「たつと」の声に男はからかわれたものだと思ったようだ。
「姉さん、勘弁してくれよ」
「本当さ」
 桔梗は唇の端を吊り上げるが、瞳の奥は悲しげな色があった。
「鬼は、人がいるところにどこにだって現われる……」
 桔梗はちろりと悲しみを消し去り、「たつと」を見やった。
「ところで、兄さんはなんだってこんなところに?」


「私は、探し人を……」
 「たつと」は静かに口を開いた。朱袖の女のことが気になっていた。
「探している者と、似た者をここらで見たと聞いた」
 集まる氣に惹かれて、この山の麓にたどり着いた頃に聞いた、鬼の話と――。
「紅蓮の色の髪をした男が、この山に入るのを見たと」
 桔梗の氣が、一瞬張り詰めて……溶ける。
「……」
 「たつと」はぱちりとはぜる火を見つめながら知った。桔梗は、何かを知っている。


「……そういえば、あの姉さん随分と遅いね。どこまで見に行ったのやら」
 桔梗がこれから言う言葉を、「たつと」は考えてみた。こちらを見やって、こういうだろう。
「ちょいと見に行ってみるか。ねえ、ついてきてくれないかい?」
「わかった」
 桔梗がありがとよ、と笑う。立ち上がる桔梗に続きながら、「たつと」はそっと後方を振り返った。
 いびきをかき続ける白い獣を見て取って、「たつと」は小屋の外に出る。


 小屋の外は雷雨だった。豪と降る雨で視界は暗く落ち、二人が立てる音も擦れる。
 額を流れていく雨粒は心地よかったが、気配が雨に流されて朱袖の女がわからない。
 声をあげながら進む桔梗は足を緩めようとはせず、「たつと」は黙って後を追った。


 山道が途切れ獣道を進み、桔梗の足取りは止まらない。
「桔梗」
 呟きなれど雨に消えることのない呼びかけに、桔梗は静かに振り返った。
「女はどうした」
「……それを、探しているんだろう?」
 ああすっかり濡れちまったねえ、傘があればよかった。そう零しながら桔梗は困った様子は無い。
「何かに襲われちまったのかもしれないね」
「……獣か、何かに?」
 雨は一向に止む気配は無く桔梗の額にも次々と雨粒が伝っていった。山道を歩いているはずだが桔梗の足元から音は聞こえてこない。全て雨に掻き消されてしまっている。
 桔梗について随分と歩いて、既に背後の道は定かではなく小屋は遠い。
「本当に酷い雨だねえ」
 桔梗は微笑んだ。陰氣に堕ちた笑みはこの上なく美しい。遠くに落ちた雷が美貌を凄惨に彩る。


「悲鳴すら聞こえやしない」

 山氣が揺れて、現ならぬ声が響いた。雨に負けぬ轟音と共に、何かが近づいてくる気配がする。巨大なものが近づいてくる様子とは裏腹に、木の一つ倒れる音はしない。
「人の恨みが鬼を生む……恨みが人を、鬼と化す」
 桔梗の背後から現われ出たのは複数の……鬼、であった。怒れる面に強大な身体。暗緑の身体をもった鬼である。
 清浄な山氣と陰氣とが渦を巻いて一つとなっている。この山は綺麗だな、と「たつと」は嬉しく思った。


「あんたに怨みはないが……あの場所に居た事。あの話を聞いた事。……あの方を探したことが、不幸だったと思いな」
「紅蓮の髪の男を、知っているな」
 現われ出でた山氣の鬼の姿を視界に収めることさえなく問うてくる「たつと」に桔梗は底の知れぬ怖れを感じた。
「あんたは、何故あの方を探しているんだい」
 幕府の者か、と続けた桔梗に「たつと」は首を傾げただけだった。
「育ての親だ」
 え、と桔梗が問い返す前に、その場には鬼の声が轟いていた。


 まだ聞きたいことがある、と桔梗が鬼に静止をかける前に、愚鈍ながらも鬼は駆けてしまっている。彼女が作り出したわけではない鬼は既に止めることはできない。
 「たつと」は痩躯の小さな人間だ。鬼が片手でつかめることさえできそうな身体は、鬼の一突きで千切れ飛ぶだろう。
 だが「たつと」は怯えることも竦むことも無く、ただ空をみあげて口を開いただけだった。


「……空にありて天雨。地にありて慈雨」
 掠れた唄声だった。不思議とよく通る。
「森羅万象のはらからよ、我が言霊もって呪とならん」
 唄にのせられたのは他愛もない童謡だったが、一欠けら一欠けら秘められた言霊が氣をもってして唄を響かせる。
 桔梗は唐突な寒気に襲われ、己の身体をかき抱いた。それは桔梗を弱めるほど強くは無かったがそれを寒気として感じたのである。


あめあめぼうずがやってくる
やしゃをさらいにやってくる
さてさてこどもをかくしんせ


 山氣の鬼の動きが、明確に鈍った。「たつと」は唄を大気に乗せながら、そっと鬼へと拳を落とす。
「あめふりやんす、おかえりや……」


    変生、還したもう

 とん、と軽い拳打をもって、最後の鬼が空気に溶けた。
 雨は弱まりを見せていて、途端静寂が包む。


「そ、そんな……まさか倒すなんて」
 聞きたいことがあったのだ。止めようとしていたのは確かだが倒されるのは想定していない。桔梗は慄いた。
 雨で張り付いた前髪のために、黒い瞳がよく見える。真黒で一縷の光も入らない色だ。
 向けられた淡白な視線に桔梗は息を飲み、三味線を強く掴む。
 無手の武術を使うのか、と考えてはいたが今の術は、まるで……。


「面白い。外法を使うか」
 低い、男の声がした。
 桔梗の後方から現われたのは、紅蓮の影だった。「たつと」は瞳を見開いて凝視する。
 紅蓮の色をした髪。深い自信を秘めた瞳。僅かに吊り上げた口元。腰にさされた……刀。
 「たつと」は男から視線を晒すことなく、だがそれに寄り添う桔梗に一言呟いた。
「……若すぎる」
「当然だよ、あんたの親でいてたまるかい」
 男はそのやり取りを気にせず、怜悧に「たつと」を見つめた。その瞳にはだが冷たさより興味が強い。
「あの鬼は俺がこの山の陰の氣で作り上げた鬼……実にして虚、虚にして実。お前の拳は、人ならぬ力を操ると見た……何より、外法を操るお前は何者だ。名乗れ」
「……ひゆうたつと」
「たつと?」
 小さく頷き、口を開く。


「龍の音と書く。……" 龍音 "」




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(11/03/20)