酷い裏切りだと思った
必ずと約束したのに

共犯者の微笑みで
同盟者の真実で

母みたいな、確かさで





怖くてたまらない





怖いのに泣くことも出来ない






「よー、リュシオン!」
「ネサラ!」
 セリノスの空気はいつだって清浄に澄んでいる。降り注ぐ陽光の下、呼びかけられた声にリュシオンは振り返った。
『ネサラー!』
『よお、リアーネ』
 あどけなさを残しながらも、娘のかたちを宿してきたリアーネがネサラに飛びついた。そろそろ注意してやったほうがいいかもしれない。リーリアは兄馬鹿だと笑うかもしれないが。
 抱えあげたリアーネを柔らかく降ろしたネサラが、今日は土産があるんだ、とニヤニヤ笑う。懐から取り出されたのは魔力を宿した札のようなものだった。
「なんだ?ネサラ。またトケイとかいうのか?」
「いや、全然形違うだろ。でもこれもベオクの道具だな」
 見てみろよ、とネサラが札を持ってあさってを向く。しばらく意識を凝らしていたかと思えば、ネサラの前方の葉が鋭い風切り音を発してつむじを作った。
「お前の風切りか?」
「基はそうだけど、今は俺がやったんじゃない。この札に篭められた風切りが、俺の魔力で発動したんだ」
「お前、風切り使えるじゃないか」
「だからそーじゃなくってー」
 ネサラはリュシオンに札を持たせると、例えば、と上機嫌に解説してみせた。
「俺の風切りや、ベオクの魔道士でなくても、自前の魔力だけで魔法を発動できる補助の道具みたいなもんだ」
「ふうん?」
「護身の道具にうってつけなんだぞ。例えばたまに忍んでくる悪趣味な好事家とかに……」
 どーんとやってやれ!とネサラはけらけら笑った。リュシオンの機嫌は降下する。先日森を進んでいたら変なベオクに会ったのだ。リュシオンを見た途端気持ち悪く身体をくねらせたかと思うと突進してきた!たまに森の隅で祈りを捧げている者たちは構わないが、ああいうベオクは理解不能だ。
「魔力で風切りが?」
「そう、基は俺の」
「つまり、携帯用ネサラのようなものか」
『わたしも、ネサラをポケットにいれたい!』
「……おい、お前ら」





 全ては、良い方に進んでいくのかもしれない。
 ラグズ奴隷解放令が出された。ミサハは積極的に民にその身を晒すようになった。その顔は隠されたままだが凛とした声が女神の標が神使がここにいるのだと民に教えている。
 徒に無理難題を突きつけられることも少なくなり、力関係はあっても国として認められた要求になってきている。
 ミサハとは、よく会った。
 元老院の誰かに呼び出された時に限られるが、彼女と会うのは純粋と楽しかった。
 ラグズの思う統治と、ベオクの政治とがどれだけ離れているか。先んじているのか、澱んでいるのか。洗練なのか硬直なのか。話す事は私的なことよりもむしろ公的だっただろう。何十年も重ねてきた書物より老ラグズの言葉より、彼女の考えが面白い。
 思いを吐露する場を持たないミサハも、またネサラの存在は稀有だったのだろう。孫の誕生さえ遠く聞くのみのミサハは、その分だけネサラに知恵を注いだ。実験段階の魔符もその一つ。
 二人は確信として、全てを良くできると信じようとしていた。またそうでなくては、王など務められるものだっただろうか。










(是非とも、キルヴァス王に)
 新たに発見された金鉱の査察は、それほど面白い仕事ではない。暗闇の見通せない鴉に鉱山に潜るなど碌にできるものか。
 それでも文句のつけられないように、とネサラは細心を払った。ルカンと名乗った新顔は、嫌な顔をしている。下手な結果を持ち帰ればなんと難癖をつけるかわからない。
 山の中だからだろうか、いやに心が塞いだ。風が細く通るだけで、陽も月も届かないからだろうか。こんなものは、早く済ませて帰りたい。
(北から歌?)

「王っ……!!ネサラ様!」

 キルヴァスか、セリノス。ミサハにルカンの愚痴を吐いたっていい。

「セリノスがニンゲン共に……っ!」










(どうして。どうして?問いに応えは返りはしない)










(はじめは、火の手が)
(煙に巻かれてほとんどが動けず)
(全滅とも)
(ニンゲン共が狂ったように)
(ベグニオンの)
(森は沈黙)
(フェニキスの救援)
(ニアルチ殿も救護隊を送り)

(既に)

「既に、フェニキスは救助を断念したようです」





「ティバーンっ!!」
 金鉱はベグニオンの端だった。伝令と側近に短く指示を吐き捨てて、ネサラは化身した。ラグズ最速といわれる鴉王は黒い風となってテリウスを疾走する。
 先触れもなく、礼もわきまえていない。それで殺気立つフェニキスに邪魔をされなかったのは、鷺でなくともネサラの心がわかったからに相違ない。
「ティバーン、ティバーン何処だ!耳、聞こえているんだろう!」
 ティバーン、王の腕輪が鈴と鳴り、ネサラはやっと何処だ、と怒鳴り散らしている相手がティバーンであることに気がついた。ネサラはティバーンは何処だ、と喚き散らしていたはずだったが、ティバーンは違うと判断したらしい。ネサラの瞳にティバーンが映ったのを見て取ると、こっちだ、と嘴を撫でた。
 何処だ、何処。
 ――は。
 化身を解いてネサラはティバーンに続いた。

「入るぞ」
「――せん、てぃば、まだ――」
 擦れて、ひび割れた声だった。
「っリュシオン」
 ネサラは翼を動かした。リュシオンだ。金色の、気性そのまま真っ直ぐに伸びた髪。薄汚れた白い服。しなびた白翼。リュシオンだ。
 森の色をした瞳が揺れて、ネサラを映した。固く動かない背後に横たわるのはロライゼだろうか。介抱されている様子だが。
「ネサラ」
 かさり、と音がする。リュシオンが両手に握り締めていた紙だった。
「リュシオン」
 傍に飛んだ。赤く汚れた痩身に手を伸ばすと、リュシオンの身体がくたりと崩れた。
「は、母上が。兄上も、姉上も、リアーネも、民も、森、も。父まで――」
「リュシオン、お前は休め」
「あ、あいつら。わけが。負の」
「いいから」
「殺してやり、たいと」
 リュシオンの手から、魔符が落ちた。

「――っ、だから!」

 ネサラはリュシオンを抱きしめた。
「殺した!許せない、ニンゲン共……っ!だから、だから、だから……!」
「お前は悪くない!お前はお前と、ロライゼを守った!生きものとして当然だ、命として当たり前だ。お前は悪くない……!」
 乾いたはりついた瞳から、涙が零れた。炎に乾いたリュシオンが、はらはらと鷺に戻っていく。零れるたびに世にもうつくしい生きものに還る。やがて腕の中でリュシオンは両目を閉じた。深い深い眠りに落ちたのだ。

 ネサラは暫くリュシオンを抱きしめていた。鼓動が変わらず続いていることを実感した後、ロライゼの横にしつらえてあったクッションの上に降ろしてやる。
 真紅の瞳でティバーンを振り返ると、鷹の王と目があった。
「罵らないのか、ティバーン」
「なんでだ。……そうじゃなきゃ、鷺は滅んでた」
 静かで静かな怒りの言葉に、ネサラは大きくふらついた。そうでなければ、鷺は滅んでいた。
「……リアーネは、他の、鷺は?」
 首を振る王。
「そうか」
「鳥翼だけの問題じゃねえぞこれは。全ラグズをもってベグニオンへの返答とする必要が」
「聞きたくない」
 ネサラはふらふらと飛び上がる。今は無理もない、とティバーンもそれを見送った。ネサラは王だ。衝撃が強かろうと、程なく戻るだろう。そしてその時の鴉王の決断を、ティバーンは疑ってもいなかった。










 リュシオンに。リュシオンに。リュシオンに。
 静かに飛ぶネサラに黒翼が寄ってくる。
「事実関係を究明しろ。セリノスは俺が直接見にいく。ベグニオンの状態と、元老院……神使の、あの女の見解とやらを……っ」
「ネサラ様」
 動揺を隠せぬ様子のシーカーに、ネサラは冷たい視線を向ける。とても優しい気分ではない。
「ベグニオン皇帝、神使ミサハは死亡しました。即日元老院は死因を布告。セリノスの鷺による暗殺であると。一部国民が激昂しセリノスへ押し入ったのが今回の発端のようです」
「……死亡?」
「はい。直後反帝政の過激派が真犯人であると公布されました。神使の死亡は確かです。また第一皇位継承者も同時に死亡とのこと」
「……引き続き、現状を調べろ」
「はい」

 シーカーが去って、ネサラは一人になった。
 セリノス、セリノスに行かなければ。だって、自分はまだ見ていない。
 ぎくりとした。
 俺は死を確かめに行くのだろうか。眼球のかたちをなぞると、瞳からは涙の一筋も流れていなかった。当然だろう。





(飛ぶことすら怖くてたまらなくても)

 もう、ミサハはいない。



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(08/05/31)