お前を殺したら終わりだったら良かった
きっと笑顔で飛んでいった


真実は目の前が真っ暗で
迷う方に近かった





この手に余るほどの重荷






 明るい夜だった。
 ベグニオンは夜となっても、どこもかしこも街灯で明るい。暗くなれば利かない目であったが、ベグニオンを歩くのに支障はない。
 気が滅入っていた。疲れていた。どうでもよくなった。様々な理由をあげればキリがないが、あるいは気まぐれだったと思う。

 その女を、殺して終ればいいのに、と思ったのだ。

 神聖帝国ベグニオン、その絶対の忠誠と信仰の頂。
 歴代の支持率の最高を誇る美しき皇帝。
 神使ミサハ。
 お前が死んだら、全て済んでしまえばよいのにと。





 メリオル大神殿は警戒が厳しいが、忍びなれたネサラにとっては穴だらけもいいところだった。
 元老院のお偉方のほうが、よほど警備には神経質だ。ひたひたとネサラは進む。無駄に高い天井は、まるで鳥翼の密偵には対処できない。高い天井に黒翼で留まるネサラに、翼音に慣れたはずの天馬騎士も気がつきやしない。
 案外、暗殺も容易いかもしれない。
 浮かんだ考えは素敵に感じられた。誓約書がなければ解除は不可能だと知っていたから実行に及ぶ気はないが、最大権力者が空位になれば、なにか隙をつけるところはないだろうか?
 楽しくなってネサラは翼を進める。まだいける、もうちょっと奥。
 気に食わない神使の顔というものを拝んでみたい。歴代の王には神使に誓約を強いられた者もいるが、ネサラは元老院からの呼び出しばかりで未だお目にかかったことがないのだ。

 果たして、神使の真紅の衣は玉座にあった。

 感じたのは、まず既視感だった。
 月明かりの届く高い窓。昏い玉座の間。他に誰の気配もない。
 玉座の間で、一人主が座っている。
 その顔はヴェールによって覆い隠され、なにも見ていないかのよう――。

「何者です」

 気配は完璧に隠していたはずだった。ネサラはさあっと蒼くなる。自分は何て軽はずみなことをした。神使、そうだ、女神の声を聞くものがそう呼ばれるのだ。女神の。
 ネサラは静かに玉座の間に降り立った。
「どういうことだ」
 神使ミサハは真紅の衣を身に纏い、ヴェールの下の金色の瞳でひたとネサラを見つめ返した。
「ベグニオンの皇帝は、親無しが就くものなのか」
 力なく微笑む皇帝は、ヴェールをそっと押し上げた。既に孫が生まれようという年だというのに若い娘のような容貌である。





「それでは、貴方がキルヴァスの新王なのですね」
「ネサラだ」
「私はミサハ……このベグニオンを統べる神使……です」
 それにしては、随分と孤独な玉座だ。皮肉を込めてネサラが呟くと、そのとおりですよ、とミサハは笑う。
「神使は代々印つき。歴代一の支持率と言われようと、親衛隊にすら素顔を晒さぬわたしです。どうして温かな輪に入れましょう」
「何でそこまで」
 ラグズにとっても、親無しというのは忌まわしい。それは承知であったが、神使が代々親無しならば、何か変わってもいいようなものだ。
「わたしはね」

 まるで、迎えがきたように思いました――この凶々しき玉座に。

 諦めたように笑うので、ネサラは苛立たしく首を振った。
「勝手に、凶兆にするな」
「本当に、そうですね」
 ミサハは微笑む。その笑顔に何の含みも感じられず、ネサラは困惑した。
「黒い、綺麗な翼です。己のルーツもわからぬ私と比べ、なんと強いことでしょう」
「……あんたは鴉の血ではない。俺じゃあそれくらいしかわからない」
 そうですか、と嘆息するミサハ。
「……鴉であったら、どうしたんだ?」
「そうですね。私が何者であるかを知ることができれば、もっとしっかり立つ事ができるかもしれない。未だラグズを奴隷として扱い続ける私の国、他国の独立を認めず、支配を強制する私の国を、変えていくことができるのかも……」
「……本当に、そんなことを?」
「ええ。……実行に移せないわたしの言葉では、説得力がないかもしれませんが――」
「本当にそんなことを思うのなら、今すぐに、キルヴァスの誓約を解いてくれ」
 ミサハがゆるりとネサラを見た。言葉は止まらなかった。

「俺の国を侵すな、俺の民を殺すな、わけのわからぬ古の誓約なんかで、未来を閉ざすことを今すぐやめろ。……どうして!」
 ミサハの金の瞳が困惑している。ああ、どうして。
「どうして、お前は王だろう。皇帝だろう。この国の王だろう……なんで」

 なんで、知らないんだ。

 ミサハがそっと頬に手を伸ばしていた。ネサラは泣いていなかったのに。










 必ず誓約書を見つけて、キルヴァスを解放しましょう。ミサハはネサラにそう告げた。
 それは契約ではないし、確証でもなかったが、ネサラはミサハを信じてみたいと思った。

「見ていてください、ネサラ。近く私は大きな改革をしますよ」
「改革?」
「ええ。……私ね、もうすぐ孫が生まれます。きっと女の子で」
 私と同じ、印を継ぐわ。
 ミサハの金の瞳は、強い光を宿していた。ラグズとベオクの血を受け継ぐこの娘を、親無しと呼ぶのは相応しくない、そう感じた。
 血を、命を、家族を。
 繋いでいく生命の、なんと輝かしいことか。

 数ヵ月後、ラグズ奴隷解放令は発布される。
 キルヴァスに強いられる難題も数を減らし、ネサラはまたこっそりと忍んでいった。今度は酒を手土産だ。
 ベグニオンは、きっといい国になる。
 キルヴァスも、きっと解放される。
「見ている、ミサハ」





 けれども重荷は、手に余った。
 俺にとっても。彼女にとっても。二人で持っても。



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(08/05/28)