断崖に落とされた 足元は今にも崩れゆく岩場 前後左右は崖に隔たれ遥か見下ろす未曾有の濁流 ごうごうと、吹き荒れる空
翼を広げた それしかなかった
その日、セリノスは常と変わらぬ麗らかさであった。 「よお、リュシオン」 『鷹王』 「今日は一人なんだな?」 『リアーネが一緒ですよ』 王子の膝元ではいまだ幼い妹姫がまどろんでいる。遠目に見ると、宗教画もかくやといった佇まいであった。 いつもは、これに黒い少年が入る。 目の前には存在しない光景を思い出し、ティバーンは面白げに笑った。一人ひとりだと静謐な絵画のような子供たちが、玩具箱をぶちまけたように生気に染まる。 ティバーンは、大きく息を吸った。 セリノスの空気は高く心地よい。 明日もきっといい日だ。
「言い残すことは……?」
その身が王であるうちに。ネサラは宣言した。 キルヴァス王城、試練の間。ラグズの王は血統ではなくその力によって決められる。そのための試練は様々存在し、ネサラが迎えたものもその一つだった。 最も緊急に、新たな王を必要とする際に行われる。 ――決闘だ。
ベグニオンの元老院議長に、三十の少女を送り届ける。 それがこの度王が執った命令であった。戦後であれば珍しいことではなかったかもしれない。だがキルヴァスとベグニオンは表向き平穏を保ち、まして三十の少女とは子供が次々に死に絶えた頃を過ぎてやっと恵まれた子供たちであった。 まず親が反対した。 再度強く命を下せば、だが彼らは王に逆らわなかったであろう。ラグズとはそういう生き方をする生きものなのだ――だが王は。 反意を示した者の、喉元を抉り落とした。 王の常軌は逸している。喉奥からあがる悲鳴を堪える少女達を背に庇い、ネサラは古来の作法に従って、手首に巻かれた『候補者』の鎖を王の足元に投げつけた。民の混乱を堰き止めるためであった。
だが、決闘にはならなかった。 ならなかったのだ。
殺し合いとしか呼べない死合いを終えて、ネサラは呆然と蹲る王を見つめた。何一つ加減を許さない、王の猛追である。 ネサラと王は互いに己と相手の血に汚れ、黒翼と決闘の場を真紅に染めている。王は地面に、ネサラはその足で。 (違う) こんな結末のつもりでは! ネサラは混乱した。強いられた死闘は平静を失わせ、溢れる負の気が正気を失わせる。血の求めるままに化身し嘴をたて、決闘の終わりはネサラが想定したような美しい終わりと継続を迎えていない。 「王」 呼気を洩らすような呼びかけに、鴉の王はぎょろり、とネサラを見上げた。恐ろしく怜悧で、理性的な瞳だった。 「腕を出せ、ネサラ」 咄嗟に差し出した腕に王は金色の腕輪を落とす。忘れるな、と呪うように。 「お前が決めたのだ」 王となると。例えそれが狂乱の王を止めるためでも。だから――。
「それ故に、私は決闘を受けた」
お前に、背負わす時だと決めた。 「ネサラ、お前は知ることとなる。この玉座が――」 王は己の首元に爪をあて、嫣然と笑った。その腕からは赤くいびつな文様が見える。 どれほど、血に汚れているのか。お前がキルヴァスの王ならば! 王は爪を引き斬った。 どしゅう、と血が吹き上がり、王が墜ちる。
「――”王”」 翼を血に汚したままで、ネサラは玉座の前に座っていた。ぼんやりと、金の腕輪を嵌めた腕を見つめている。 「ネサラ様」 「シーカー、文様が」 少年の喉から漏れ聞こえる言葉に、シーカーはひゅう、と息を呑む。 「王の腕に刻まれていたような、文様が出ている。……なんだ、これは?」 王があんな振る舞いに及んだのと、決闘で紛れもない殺気を放ってきたこと。それに何か、関係するのだろうか――。 「ネサラ様……」 「どうした、シーカー。何故泣く?」 「私の口からは、申しかねます」 「ニアルチは?」 「別室にて。倒れられましたゆえ」 「なに?」 「お体ではありません」 身体の不調ではない。不調ではないが――シーカーの瞳から溢れて止められない涙。それとおそらく、同じもの。 「やはり、継がれるのだと。それが悲しいのです」
すべてを、お伝えいたします。
弔いの鐘が鳴っている。
「――元老院議長殿」 雷の音が近く聞こえる。稲光で浮かび上がるのはまがつひの黒翼。 湧き上がった警戒心は、その姿が常のものとは異なっていたからで、瞬時に霧散したのは、それが細く小さいものに思えたためだった。 「キルヴァスの……鴉、か?」 人影は僅か首を傾けると、ええ、と肯定した。それでほっとする。海峡を飛んでベグニオンまで遣わされる者は、共通してベグニオンとキルヴァスの誓約を知っている。元老院を危険に晒すわけはない。 また一つ空が光り、目の前の人影の姿が現された。警戒心が失せるのも当然だ。窓からの侵入者は見た目、まだ少年、と呼べるような子供だった。肩口まで伸びた髪がゆら、と白い肌に張り付いている。 「王はなんと言っている?まあ、断るわけはないが……つれてくるのは、早めにな。準備を整えるのが遅れては侮られる」 「随分たくさんおいりなんですね。神使の墓所でもつくるんですか」 「前につくったばかりだろう。」
ラグズ奴隷の数は、権勢を顕す。 牙の一族は数が多くガリアに属していないものも多い。そのため奴隷としては価値が低かった。便利だ、という意味では獣牙に勝るものはないが、元老院議員ともなれば、鳥翼を何羽揃えているかが問題となる。 鳥翼は仲間意識が強いため、放浪するはぐれは少ないからだ。勿論いないわけではないが。 議長は目の前の子供の鴉を撫でてやろうと手を伸ばした。 黒く艶めく翼、切れ長の瞳に、病的に白い肌。噂に聞く鷺が聖女の可憐だとしたら、鴉の媚態は高級娼婦のそれだった。 「今度の宴席で皆驚くだろうな、給仕が皆鴉であったら。お前たちはどんなに飼い慣らしても、瞳の奥に不満を潜めておる。……わしは、それが気に入っているのよ」 実際には己より年上なのかもしれない。だがその問答は無意味であろう。ラグズは長い時間をかけて成長する生き物で、同じ時間を過ごしても得るものはベオクの方がよほど多いのだから。 「宴席ではお前たち一人ひとりのために衣装をあつらえてやろう。全て黒、黒と言っても様々なものがある。深いもの、浅いもの――」 鴉の少年は、嫣然と嗤った。 「なんとくだらない」 また一つ、稲光。議長は一瞬映ったものにぎょっとした。少年の手が――。 「そして心から感謝を!そのくだらなさに」 溶けるように嗤い、ネサラは議長の首に縋り寄った。王の称号が許すものがあるならば、そのうち一つはまさしく。 心、醒めたままの化身。 ごきり。
ネサラは静かに佇んでいた。外は嵐で、細かな音も耳に届かない。暗闇の中飛ぶのは命取りである。誰もが知っている。だからこそ、この瞬間しかないというのはネサラだけが心得ていた。 「シーカー」 「はい」 ナイフによって喉元を切り裂かれた獣牙を運び込んで、シーカーが傍らに侍る。 ネサラはその手に握ったままであったナイフを足元に落とした。銀のナイフは鋭利で美しく、装飾過多である。 開け放したままの窓からはざあざあと雨が吹き込み場を激しく濡らしていた。 「議長殿。元老院議員……ニンゲン様」 心まで支配され、主を護ろうとしたラグズを踏みつけ、ネサラは。 「申し訳ありませんが我々キルヴァスは、ベグニオンの奴隷ではない」 この男が誓約の原本を持っていないことは、既に調べさせていた。既に大きな流れから外され、ただ名誉のみの議長であったことに気がつかない。 「貴方が既に権力から外された身でよかった。鴉は裏切りこそ本質、その通りです。それでも……同胞を差し出すことは、小さな胸が痛むのでね」 名誉に五月蝿い元老院。権力から邪魔にされている議長。神使との仲違い。国民からの不審。ネサラが事前に得ることの出来た材料は僅かだが、それで行動には充分だった。同時に悟られなければ問題はない、ということをネサラは心に刻んだ。深く。 感傷深く留まることは容易い。だがネサラは未練なく踵を返すと、シーカーから雨除けの外套を受け取った。 「帰るぞ」 意識を集中して、その背から翼を隠す。尖った耳さえ隠せばベオクに判別する手段はないのだ。夜中でもこうこうと明るいベグニオンの夜を抜け、ネサラとシーカーは黙々と歩いた。 夜が明けても、嵐は止まなかった。
ティバーンはイライラとする心を宥めて中空に留まっていた。前王の崩御とネサラの即位。そのあまりにも急な知らせに飛んできて、既に半刻この場で待たされている。 国境の空は櫓の設置で忙しいようだ。ティバーンを止めた鴉も設置場に派遣されている見張りの一人だった。 (こんな、行き届いた国だっただろうか) これではまるで、百の治を越えた大国のやることだ。ラグズの国は絶対の統制がある。実行は難しくはないが、この発想は? 「これは、鷹王!どうした領空侵犯か?」 風に乗った声にティバーンは翼をはためかせた。 遠く空から飛来したネサラが、その勢いを感じさせぬ優雅さで舞い降りる。黒衣の少年のその腕にはまった、王の腕輪。 「ネサラ……即位したと、いうのは」 「本当だ。――改めてご挨拶申し上げる、フェニキスの鷹王。キルヴァス王ネサラだ」 それからネサラは心を伺わせぬふざけた様子で笑うと、ティバーン、と囁いた。
「俺は、キルヴァスは既にこの場に存在する。命続く限り」
進むのか、戻るのか。 全てはこれから。
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