初めて手を汚した血は、もちろんラグズでもベオクでもなかった
生きるための狩だ
厳しい峰が多く森の少ないキルヴァス島
どうしてこの島に住み始めたのか、ネサラは知らない





汚れた手のひら






 寒いんだろうか、暑いのだろうか。
 全身の体温が奪い去られたように寒い。頭にだけ血が集まって、目の前がガンガンと点滅する。ぼうっとする。
 早く、帰らなければ。
(王、ニアルチ)
 その名はネサラが尊敬する数少ないものだった。ニアルチに会うべきではない。だが不安があのじいを呼ばせるのは止めようもない。
 羽根がざわざわする。周りの風がよく読めない。

(だめだ、飛べない)
 セリノスの一角でネサラは小さくうずくまった。
 心を静かに保て。
 声をあげなくても、心が騒げばリュシオンが気づく。
(それは駄目だ)
 誰の傍にも、近づくわけには。





『ネサラが飛んでいくのを、見ましたか?』
 ラフィエルと歓談していたところに入ってきた小さな鷺に、ティバーンは訝しげな顔を向けた。この子供「たち」が、世話する立場の自分たちに、日が高い間に話しかけてくることは珍しい。
 ティバーンは傍らの『目』に見るようにと言い渡すが、ヤナフは首を振るだけだった。
 そうですか、と小さく言ってリュシオンは羽根を返す。見送ったラフィエルが優美な眉を潜ませた。
「ネサラは、体調が優れない様子で突然帰ると言い出したみたいですね」
「突然?」
「はい。あの子から離れなくては、という気持ちで一杯で、後を追えなかったようです」
 ふうん、とティバーン。子供は何が原因で喧嘩を始めるのか、もう子供ではなくなってしまったティバーンにはよく思い出せない。しかし直ぐに仲直りするさ、とあっけらかんと言い放つことが何故かできなかった。何か、ティバーンにも引っかかっていることがある。
 手足の伸びてきたネサラ。鴉の民特有の、切れ長の目。リュシオンを遠ざけた――。
(思いつかんな)
 首を捻ったティバーンに、静かであったウルキが口を開いた。
「ネサラの声は、まだセリノスにあります。呼吸が荒いですね。翼音ばかりしますが、飛んでいる様子ではありません」
 飛んでいる様子は。
 思い当たることがあった。





 自分の周りで、風がブレている。
 羽根をがり、と握り締めても痛みを感じない。
 胸の中がからっぽに寒い。
 でも、熱い。

 ひぐ、とネサラの喉から音が漏れた。その呼気さえ肌をぎしぎしと障る。
(ニアルチ)
 脳裏に浮かびかけた二つの名は故意に削除する。
 羽根を掻き毟る代わりに大地を蹴りつけ、ネサラは惑乱した。
「う、く」
 虚空を掴むように手を伸ばし――その手が蒼黒に翳んだ。
「……ふ、っ」
 だめだ。かわるな。
 身体中が引き裂かれてしまう――。
「――いい。」
 だから、だめだって――。
「化身しろ!」
 ネサラの瞳が、か、と開いた。
 流れる血が駆け巡り、肌を攫う。構成要素が摩り替わり走り抜ける。
 化身――。
「っ!!」





 ネサラは風を認識した。セリノスを流れる風は今は穏やかに行きかい、ネサラの風と調和を保っている。
 風の傷痕の痕跡すら残さず、聖地は穏やかに時を移していた。
 ぐるり、と顔を巡らせるとくちばしにあたるものがある。ふかふかしていない、人の――。
「……ティバーン?」
「よお」
 人の形をしたままの鷹の王は、慎重に腕を解いた。左手に嵌められた物の形を保ったままの王の腕輪が、目の前に居るのがティバーンであることを示している。
 艶めいた黒い羽根を困惑に揺らして、ネサラは数歩距離をとった。鉤爪でたんとん、と軽快に跳ぶ。
「なに、してんだ」
「鴉の子供が風切りを生やすのを見物に」
「だから……っ!」
「俺も昔、風切りを秘術で得ようとした頃があってな。魔力足らずで荷が重くてすぐに解いたが、いやあれは厄介――」
「ティバーン!」
「おう」
「風切りは、鳥翼の」
「ああ。――命取りだ」
 ティバーンの顔には横一筋に風痕が走っている。左目に走る痕と交差して、十字をつくるように。
 傷からはたらたらと血が流れ、未だ止まる様子を見せていなかった。
「俺は翼の守護で護られてる。お前みたいなガキの風で、どうにかなんてならんさ」
 言葉を実証するかのごとく、ティバーンの羽根を風が揺らす。
 緑めく翼を雄雄しく背負う、鷹の王――。

「……見得張るなよな」
「ネサラに心配されるとはな。明日は槍が降るか」
「ああ心配だとも。偉大なる鷹王殿に血を流させたとあっては、鷹の民の囀りが喧しくなりそうだからな!」
「俺は民に慕われてるなあ」
「ぬかせ」

 ネサラはばさり、と羽根を広げた。蒼黒の翼は風を宿し、黒よりなお深い黒。
「リュシオンのところまで行けば、すぐ塞がる」
「他の鷺でも同じだろう?」
「馬鹿言うな。ラフィエルやリーリアじゃ気を失うぞ」
 無茶な遊びで白鷺たるリュシオンを血に体性づけているらしい。ネサラの悪事に溜息が出る。

「ティバーン、一つ言っておく」
 背伸びをしたってネサラの手はティバーンの頬には届かない。ふわり、と浮かんだ足元は既に化身を解いていた。紅は理知的な色を帯び。
 同時に、ひどく醒めていた。
「血は、民のために流すものだ」
 白い指先で拭われた傷跡からは、新しい血がこぷり、と浮かんでいた。
「兄弟のためにも、流すものと心得ている」
 笑って告げるティバーンに、ネサラは嫌そうな顔になる。そんな顔を浮かべたまま、行くぞ、と飛び上がった。
 ぴいっと啼く、風切りの羽根。

 この少年が、やがて鴉の王となる。
 確信めいた人としての予感と、そっけなく存在する王としての目算に、ティバーンは自嘲めいた溜息を洩らした。





 リュシオンの傍までいくと、リュシオンは気分が悪そうに怒った。血のついた手に触れられることを、ネサラが厭ったせいだ。
 馬鹿だなあ、と思う。
 のこのこやってきたティバーンも、己のものではない血を心配するリュシオンも。
 馬鹿だな、馬鹿だな、と思って。そんな馬鹿なところが大好きな俺も大概だなと思い。


 ――なんだ、一番愚かだったのは、俺だったのだなと。





 俺の手はとっくに汚れていた。忘れてしまうんだろうティバーン。
 ばかなやつ。



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(07/09/25)