立ち上がれない、と思ったらもう駄目だ 第一に騙すべきは自身 それができなければ
…誰にも隠せやしない
「ネサラ!」 「リュシオン」 新緑に包まれる世界に、白い羽根がぱっと広がる。軽やかに飛んできたリュシオンに、ネサラは黒い翼を広げることで答えた。 『よっ、きたな』 『すごいものを見せてやる、というのは何だ?』 『それは見てのお楽しみ。ほら、着いてこいよ!』 滑空する黒羽に、白羽が慌てて翼をはためかす。 青空に白と黒の影が二つ並んで、賑やかに飛んでいく。
『リュシオンは、ネサラと随分仲良くなったわね』 窓から見える、白と黒の鳥。リーリアは瞳を細めてその様子に表情をほころばせた。 室内には金の髪に白い翼の、白鷺の男女。そして雄雄しささえ感じる羽根を背負った鷹がいる。 『リュシオンは活動的な子ですから、ネサラと気があったのかもしれませんね』 ラフィエルが柔らかく賛同する。 「あのネサラとねえ…」 窓から顔を出して、不思議そうに鷹が呟いた。 ネサラはフェニキスにも来た事があるが、その時の印象にリュシオンと一緒に居る時に感じるようなものはない。 まだ幼い鴉で、政への口出しは許されていないが鋭いところをつく。種族で有数に力が強いというわけではないが、そのすばやさと器用さで、年上のカラス達を圧倒している。 「羽目を外すのは、セリノスで、らしいしな。この森に入り浸りなのも、まあわかるが」 セリノスでのネサラは、とにかく明るい…らしい。いつもリュシオンを連れ回して森中を飛び回っている。つれまわしている、とは言っても、リュシオンも着いていっているんだろう。 勝気な白鷺を思い出して、鷹は思う。リュシオンだって、ネサラと一緒に遊んでいる時が一番いい顔をしている。 『リアーネが着いていってしまうのが、どうにかなればいいのだけど』 リーリアがため息をつくのに、二人は笑った。まだ赤子と言っていいようなリアーネが、ネサラを慕って黒い姿を追っていくのはここ最近のセリノスの可愛らしい悩みだったのだ。
「うあ、苦い…」 顔をしかめて舌を出したネサラに、リュシオンは木を指差した。 『この木は隣のものと似ているが、擬態なんだ。実はとびきり苦くて食べられたものじゃない』 言ってリュシオンは隣の木の果実をもぐと、しゃくり、と口元を汚した。ネサラは苦いと言いながら、手元の果実を齧っている。 その様子を見つめながら、リュシオンはふふんと鼻を鳴らす。 ネサラがセリノスにいない間、リュシオンには森を見て回る時間がたっぷりとあった。ネサラが知らない森を、リュシオンは知っている!でもリュシオンは立派なサギなので、ネサラが間違えそうになったらちゃんと教えてやるのだ。これ以降は。 ネサラがまずい、まずい、といい続けながら果実をかじっているので、リュシオンは流石に眉をあげた。 『だったら無理に食べるな』 『もう食べ始めたんだぜ』 話がうまく通じない。リュシオンは重ねて言った。ネサラが何を気にしているのかリュシオンはわかっている。 『お前が無理に食べるより、地面に落ちた果実を食べる虫や動物たちがいる。地面に落ちれば、種が芽吹く。無駄にならない』 そこでネサラは、呆然としたようだった。 細い瞳をまん丸に開いて果実とリュシオンを交互に見つめ、そして、森を見る。 変に落ち着いた声でそうだな、と呟くと、手のひらから果実を落とした。
リュシオンには、心が解る。森で生まれ、育ったリュシオンにとっては当たり前のことだ。 ネサラはひどく、意地が悪い。言葉にしないと知らぬ振りをする。鷹の大人のようにリュシオンを子供として甘やかしたりしないし、いささか揺れ易い感情を慮ったりしない。だからリュシオンはネサラといると、浮かんだ感情を真っ直ぐに伝えないとならなかった。 知らぬ存ぜぬおちゃらけた調子で外すネサラにリュシオンがぷんすかと騒ぎ出すと、途端下手に出て宥めにはいる。 つまりは、ネサラはとても卑怯なのだった。男の風上にもおけない。 欲しい言葉がわかっているのにいつまでもくれはしない。 (ネサラ) この少年の胸のうちは、常にセリノスとリュシオンと、リアーネに対する柔らかで美しい感情が隠れている。 (心が読めるのに。口にしなければ何かが変わらないのではないかと思う)
『もうすぐだ』 リュシオンの考えていることがネサラに透けて伝わったりしない。なんとも不公平な話だった。
『リュシオン、こっちだ。気配を潜めろよ』 手招きするネサラにリュシオンが続くと、視線の先には。 『マカイ……の』 『出産だ』 森の中で大きな体躯を曲げた、獣が一頭いた。角が二対生えた緑黒の周囲には他の獣の姿は見えない。 尻のあたりから赤い足が出ているのを見て、リュシオンはひゅう、と息を呑んだ。 『騒ぐなよ。マカイは気性が荒いんだ、出産中は雌は誰も傍に寄せ付けない。不用意に近寄って逆に殺される狩人の話がいくつもある』 『それって』 『俺が飛ぶほうが早いから、心配すんな』 そう言ってネサラは動作を止めたリュシオンのおなかを抱え込んだ。そのままネサラも、じいと出産を見守っているが、何か起きたら瞬時にリュシオンごと飛び立つ自信があるのだろう。 雌のマカイがうー、と鳴いて、また少し足が出てくる。リュシオンはまるで己の呼吸も止まってしまいそうに思った。
『リュシオン』 「……なんだ」 『凄いよな』 『……ああ』
マカイの母獣は、結局一頭だけで、唸りながらも出産をやり遂げた。子供は三頭で、母が四肢を舐めながら促すと、それぞれ立ち上がる。 息を詰めて見つめていたリュシオンは、ふとネサラの腕の強さが変わらないことに気がついた。常ならば、そろそろ行こう、と腕を引く頃合ではないだろうか。 肩越しに見上げると、ネサラは母に寄り添う小さな生き物をじっと紅い瞳に映していて、頬一つ動かさない。 リュシオンは羽根を少し動かして、森とネサラをゆるゆると遮断した。 『ネサラ』 『……ん』 『そろそろ行こう』 『……んー』
それから、手を繋いで神殿に帰った。
あの頃のネサラはただ柔らかに、欲しいものの姿を描いていたのだ。 それは或いは緑溢れるセリノスであり、体温を繋ぐリュシオンであり、生まれるいのちであるリアーネだった。 ネサラは一言だって口にはしなかったが、彼の欲しいものをリュシオンも知っていた。 そしてそれは、手に入るものなのだと疑っていなかった。 促され立ち上がり、歩き出し。やがて次に生まれるいのちに繋げていくものなのだと。
だってネサラから伝わるこころはずっと変わらず。
……だからリュシオンはずっと、知らなかったのだ。
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