美しい園であるからこそ、孤独であるような気がする 荒れた国土にこそ帰りたかった 厳然と存在する不平等に、慣れろ、と理性は言う
切り立った崖に一人飛ぶよりも 暖かで優しい思いの中で
(…秘密を抱えることは)
暗闇の中にたったひとり、飛び続けているようだ
セリノスで行われる鳥翼の会議に連れ出されたのは、ネサラが海を越えられるようになったころだ。キルヴァスから飛び立つ黒翼は現王とその腹心、ネサラ、そしてニアルチ。危なげに飛ぶネサラをニアルチがはらはらと見守っての飛行である。 キルヴァスにあっては日が沈むか昇るか、美しいばかりの海であったが、上空にあっては海はどこまでも途方もなく碧く、果てが見えない。海風を読みながら、ネサラは己が浚われてしまわぬように、と強く思った。
「全く、何のためにつれてきたんだ」 雛には早い、と会議の場から追い出され、盗み聞きをしようとしてもニアルチが横で見ている。ネサラはぶつぶつと呟きながらセリノスの森を飛んでいた。 「坊ちゃまをセリノスに連れていらしたかったのでしょう」 温厚を絵に描いたようにニアルチが言うので、仕方無しにネサラは周囲を見渡す。
セリノスは、正しさに満ち溢れた場だ。
すう、と息を吸ってネサラは思った。 輝く森、差す木漏れ日。鳥翼を僅かも恐れない動物たちが自由に巡る。 一片の嘆きも存在しないのではないだろうか。
早く、キルヴァスに帰りたい。 ネサラは豊かな森の中でため息をついた。 『そこの、見かけない奴だな』 冴え冴えとした、カナリアの声。古代語の響きにネサラは羽根をそばだてるとことさらゆっくりと振り返った。 かくして、そこには『森』がいた。
肩に届くくらいの白金の髪。背には真っ白な羽根。何より瞳の翠が印象的に映る。 今まで森の中、まどろんでいた黒鷺や褐鷺ではない。セリノスの王は最も女神の意向をしろしめす白鷺が継ぐ。これは、セリノス王族だ。 他の鷺には気がついたというのに、白鷺の接近は見逃していた。それほど白鷺は、存在が森と同化しているのだ。 『キルヴァス王の随員だ。此度のベグニオン船の航路侵犯への鳥翼の意向を――』 『ああ、あのくだらない会議!』 白鷺が一言に切り捨てるので、ネサラはむっとした。 『くだらなくはない。下手を打ったら』 『くだらないに決まってる!父上にはもっと、優先するべきことがあるはずなのに!』 羽根を動かし森の中へ飛び去ろうとするので、ネサラは咄嗟に後を追った。 『優先するべきことって?』 『何でついてくる。私は花を探さねばならないのだ』 『それのどこが優先することなんだよ』 まったくわからない。ネサラが悪態をつきながら隣に並ぶと、白鷺は大事なことだ、と重々しい口ぶりで頷いた。 『どんな花ならいいんだ』 『白い花だ。太陽の光を浴びて、大きく咲く。このあたりは私の庭だからな。一番いいのを、私が見つけて』 庭が呆れる。ネサラはぷっと心の中で吹き出した。白鷺の飛び方は鷺に相応しく繊細で、とても森の隅々を知り尽くしたといった飛び方ではない。 ネサラは白鷺の手をとると、大きく翼をはためかせて森の上空へと飛んだ。 『おい!?』 『太陽の光を受けるんだろう』 それだったら。 『太陽の側から、見るのが一番探しやすいに決まってる』 セリノスの上空からは、森が少し違って見えた。 はためきの音が近く、白い翼が視界に映る。
――気がつかなかった。
『森』は、ネサラと同じくらいの少年だった。
『あれだ!』 白鷺が白い指で指した先には、明るい緑の中、日に向かって大きく輝く白い花が見えていた。高度を下げていく鷺を見ながら、ネサラはふと故郷の花を夢想する。 守るもののない、崖に咲く花だ。 早く帰ろう。瞳を眇めたネサラの手が、ぐい、と惹かれた。 『早く母上に見せて差し上げなければ!』 『ちょ、俺は』 『もうすぐ、私の妹が生まれるのだ!』
ネサラは呆然と翼の動きを止めた。抵抗をやめた身体が風にのり、白鷺に引かれて森の奥へと運ばれていく。 「いや、俺を連れて行くのは…違うだろう?」 何故か言葉に力はなく、まして使い慣れない古代語でもない。白鷺は聞いてくれない。
出産は戦だ。 幼い年で、ネサラは真理を悟った。 白鷺の母はまさに臨月だった。父であり、夫である白鷺王ロライゼはいない。会議中だ。これが白鷺が鳥翼の国の興亡を決する会議をくだらないと言わしめた理由である。 全くだ、くだらない。ロライゼが会議をこの時に決めたのは、仕事に懸命であれば目を逸らしていられるからではないか? 血の匂いにくらくらしながら、沸き立つ湯の前でネサラは思った。 血に、くらくらするなんて!物騒な国の次期王を目されるネサラは、己が信じられない思いだ。出産は怖すぎる。女は末恐ろしい。 実際白鷺王妃の出産で役に立っているのは年老いた女の赤鷺のみで、ネサラを連れてきた白鷺も、その兄妹達と共にくらりと目を回し伏せっている。 代わりに白鷺王妃の枕元に花を置いたネサラは湯を沸かせ、布をもっと、とあちらこちらを飛び回った。どうして、と考える暇もない。生まれた雛がしばらく黙っているのに顔を蒼白にし、数度背中を叩いてぴぃ、と大きく鳴いたときは情けないことにへたり込んでしまった。
服のいたるところを血で汚したネサラが出てきて、白鷺は再び卒倒しそうであった。訂正する声をあげる元気もなくネサラが室内の声を示すと、歓声の中、蒼白の男性勢よりよほどしゃんとした美しい白鷺の姫が歩み寄ってくる。 「ありが、とう。烏の、子」 拙く美しい響きは現代語だった。リーリアと名乗る娘に連れられて、白鷺たちとネサラは再び室内へと入る。白鷺王妃の腕の中にはお湯で清められた小さな雛が鳴いていた。ぴぃぴぃと鳴く体毛は黄金色で、背からは白い羽根が見えていた。 『リアーネよ。あなたたち、子守唄を歌ってあげて』 わっと笑顔を顔に浮かべて歌いだす鷺の中で、ネサラは白鷺王妃に手招きをされた。 「ありがとうネサラ。リュシオンと一緒に、花をとってきてくれたのですってね」 ほら、リアーネもありがとう、って。おっかなびっくりと雛を見つめると、鳴くばかりの雛が弾けるように笑った。ネサラの顔も綻ぶ。 すごい。生きている。小さい指が五本、揃って拙く動いた。
白鷺が綺麗な顔を破顔させ、リアーネに向いていた顔をネサラに向ける。 『花を一緒に探してくれて、感謝している。お前、名は?』 『ネサラ』 ふうん、ネサラ?舌に乗せた名前を何度か呟かれる。古代語の響きの名は、なんだかくすぐったさを感じさせた。 『私はリュシオンだ!』 その言葉さえ、歌だ。
ネサラは瞳を細めた。セリノスの森が聖域たるのは、この動き、笑い、詠う、『森』のためなのだ。
暖かく、優しい笑顔。 まるで陽だまりの下であるかのよう錯覚する。
……夢など見るものじゃあない。
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