生まれたばかりは、神の子だ 一つ年を経るごとに神性は失われ生き物に近づく あの日見えていたものを忘れずにいられたら
なにか、変わっていただろうか
そう思わずにはいられない (実際には、女神は俺を救うことなどできやしない!)
(だって)
(もはや)
白い手は見えない
キルヴァスの城の床は、国民が誰も地面を歩きはしなくとも美しく削られている。これは鴉の民の特性だ。美しく羽根を整えるがごとく、己の巣を磨かずにはいられない。 貧窮に喘ごうと、生まれ持った本質はラグズだからこそ変えるのは難しい。無駄な出費だとは思っても、止めることは憚られるのだ。 その城の奥に、一羽の老鴉が滑り入った。耳も羽根も大分衰えてはいたが、老鴉にはどんな小さな声で呼ばれても、聞き取ることのできる声があったのである。 ぴぃ、ぴぃ。 幼い雛の声は、この国では久しく聞こえないものであった。 これからまた増えていくだろう。その希望の響きでもある。
「じい!」 扉が開いた途端、地面を蹴って小さな温もりが飛び込んでくる。皺の深い細い手でも充分に抱えられる小さな身体だった。 「坊ちゃま、どうなさいました。悪い夢でも見たのですか」 生え揃わぬ黒翼。艶やかな蒼髪がわずか跳ねる。国色である黒い衣装を纏った、それは少年であった。 名はネサラ。鴉の民に生まれた最も新しい命である。 ネサラが生まれた後、国を震撼させていた流行病は鳴りを潜め、キルヴァスは一応の平穏を保っていた。 「白い手がくる」 ネサラは小さな手を守役の背に回し、きゅう、と顔を押し付けた。悪夢に魘されたような発言に関わらず、その言葉には現実めいた不吉さが匂わされている。 「白い手がくるよ」
伯父上は、王はどこ。
老鴉のニアルチには答えられなかった。ネサラが鳴いていると聞くと、王は行き先も告げず、城を飛び去ったためである。 今までの王がそうであったように、現王もたまに何も言わずどこかへ飛び往くことがあった。そしてそれは、何らかの難題と共に帰ることと同じであった。 だが、それと引き換えにキルヴァスは災厄を免れる。 法則めいた天災を、ネサラは敏感に感じているかのようだ。魔力の強かった母の血を引いているのだろうか。 「大丈夫ですぞ、坊ちゃま」
王がきっと、白い手を跳ね除けてくれる。
子守唄のような慰めは、やがてネサラにのしかかる責任でもあった。
幼い頃の記憶は、舞い降る記憶に埋もれて消えていく。 ネサラはそれでも記憶力の良かったほうだった。幼少の予感が埋もれていくことに気がついていた。
キルヴァスは対外的には、敵をもたない国である。 かつてフェニキスより独立し、ベグニオン相手に事を構えた。その時代は過ぎ去った。それほど領地的に恵まれないキルヴァスは土地を目当てに攻めるのは不都合な土地であったし、鳥翼も同士討ちを嫌う。 ベグニオンと協定が成立すれば、キルヴァスはただ、国をじっくりと育てていけばいいだけだ。 いいだけ、のはずであった。 鴉は厳しい環境に適応する。だが時折降りかかる流行り病、天災は容赦なく国民の命を奪い、働き手を失わせた。 原因を、と探っても常であれば何ら危地に陥る病ではない。天災に至っては明らかにその時期は起きぬものもある。
原因不明。
それがキルヴァスの抱え込む最大の敵である。
ネサラはそして、その危険が降ってくるのをなんとはなしに視ていた。 それは白い手だ。 北方より柔らかく迫る、美しくなめらかで。
――死体のような、白い手だ。
「王」 何重にも降ろされた紗の向こうを見つめながら、ネサラは独り言を言う。 「もう、一人で飛べます」 証のように、僅か浮く足元。 「風切りの羽根も、間も無く生えるでしょう」
そして、年を経るごとに。
「……聞かせて」
今も、白い手はやってきているの。
生まれた頃は、どんな子供も女神の祝福をもってくる。 年を経るごとに神性は失われ、生き物に近づいていく。 この細い手が力を持ち。羽根が風を蓄え。頭が賢しく働くようになって。 やがて玉座に座るとき、あの頃見えていたものを覚えていたとしたら。
なにか、もっと。
……叶えられたのではないかと。
(でも、白い手はもう見えなくなった)
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