イシュタルは、正しくは妹ではない
血の問題ではなくて、イシュタルの方がアーサーより早く生まれている、ということだ。実際には従姉だ
事実イシュタルの方が頭がいいし、知恵もあるし、思慮深いし
どこから見たってイシュタルの方がおねえさん役なんじゃないかと思う
けど、守るべき家族だと思ったときから、彼女は俺の愛しい妹なのだ

ユリウス、ティニー、ユリア、イシュタル――

俺には守りたい妹、弟達がたくさんいて

そして、全員に手を伸ばすことは不可能だと知っていた
何処かで笑っていてくれさえいれば、いいから





世界の何処かで笑っていて






「ヴェルトマーから、伝令!ユリア皇女の洗脳を解いたとのことです!」
「ユリアは!?」
「ナーガを継承に、ヴェルトマーへと……!」
「よし!十二魔将が出てきた今、これが最後の防衛線だ!死力を尽くして戦線を開けっ!」

 死力なんて、とっくに尽くしてる!
 フォルセティを維持しながらの、セティの心中である。



 馬の、嘶く声が聞こえる。
 魔力と魔力がぶつかり合う狭間が、目まぐるしく動く。イシュタルとセティは神器を限定解放しながら広大な戦場を駆けていた。
 アーサーの魔力とは、三元的なものである。正確にかみ合っているわけではなく、色取り取りの輝きが変幻を続けながら構成されている。馬の機動力を利用しながら四方八方から魔力を放ってくるのだ。
 上手く、全力を出させないように。それでいて自分の力が最大限発揮されるように動いている。
 戦い方が上手いのだ。セティはそんなことを感じた。

 十二魔将と呼ばれる黄泉の戦士たちが動き出し、戦線は今や死線と呼んで差し支えない。この場に居ないトラキア友軍と、ユリア。それ以外の聖戦士全てが集結し、火花を散らしている。
 アーサーの援護ができないように、イシュタルとセティの援護ができないように。
 互いは均衡し、消耗が続く。
(持久力では、亡者が勝る)
 戦線を動かさねばならない。

「っ――!」
 唐突に、アーサーが落馬した。転がるように地面を行き、即座に立ち上がるが機動力が激減する。何故、と考える暇などない。
 セティの目に地面に倒れたアーサーの馬が見えた。ミレトスに残した愛馬ではなく、予備の馬なのだろう。同調の一瞬の狂いがミスを呼んだ。馬の足には飛来した矢が突き刺さっている。避けられなかったのだ。
 矢を放った主であるファバルはその隙を突かれ大きく出血していた。イチイバルの癒しの力がなんとか腕が落ちるのを防いでいるといった、酷いものだ。

 この機会を逃すことはできない。

 フォルセティの発動はどの魔の神器にも勝る。
 宣誓一つで発動する神の風はだが、セティの喉から出なかった。
 ヒュ、と空気の漏れる音だけして、セティは倒れこむ。
「セティ様!」
 ティニーが蒼い顔で走り寄ってきた。その手には杖が握られている。

 そんな光景を背景に、トールハンマーが発動した。





 ミレトスの再来だ。セリスはそう思った。フリージとヴェルトマーに連なる二人の銀色の麗人。
 互いに魔力を最大に解放して巨大な場を作り出している。
 だがその優勢は、圧倒的に異なる。

 毅然と大地に立ったイシュタルの魔力が辺りに広がる。大陸中に散らばる雷雲を集めているかのような轟きが木霊した。
 なるほど。この姿こそ雷神と呼ばれるイシュタルの姿だ。
 青白い輝きが肌を伝い、黒い装束は蒼く燃える。銀色の瞳が冷然と輝いていた。
 雷の中に存在する彼女は、人を断罪する女神の様を思わせる。
 呼気さえ電気を帯び、眼差しは感電を呼び、草原を焦げつくすだろうと表現された、歴代における圧倒的な魔力。聖戦士達でさえ彼女に与えられたほどの魔力を授けられはしなかっただろう。
 雷精が惑うのを魔力そのもので支え、存在させているのだ。
 セリスはティルフィングの銀の螺旋を作りながら歯噛みした。
 半歩の移動で避けられ戦線は続く。

 トールハンマーが、押し切れない。



 ミストルティンが一閃する。
 かつてない消耗を感じながらアレスは斬っていた。斬り結ぶことしか知らないのだ。
 なんだ。剣が重い?
 おのずとその正体は知れた。この場だ。ミストルティンは魔を喰らう魔剣。魔を寄せ付けぬティルフィングと異なり、魔を食らって切れ味を増す。
 血しぶきを飛ばして、アレスは口元に笑みを昇らせた。

 それじゃあその分、斬ってやろうではないか。

 遥か遠いトラキアで、あの男と切り結んだ事を思い出す。炎、雷、風?そんなものがどうだというのだ。
 喧嘩の終わりなんて、いつだって体当たりの所作と決まっている。



 腕が、痛い。
 骨までは届いていない。神経はいくらかイってるだろう。追撃を喰らうことは援護に入ったスカサハのおかげでなかった。そうでなければ反撃の方法がないファバルは死んでいた。
 イチイバルに指をひっかける。
 うごけ。
 うごけ。
 イチイバルの癒しの力が痛みを忘れさせて麻痺した右手が動いた。軸の左手は無事なのだ。アーサーを狙え――。
「やめてください、ファバルさん!」
 コープルがイチイバルを奪い取る。呆然と視線を向けるとイチイバルを足元に放ったコープルがリカバーをかざした。
「イチイバルがないと、痛い」
「痛覚は身体の示す重要なサインですよ」
 神器に踊らされるな。戦うための人形になるな。コープルは吐き捨てるようにそう告げた。なんとも優しい癒し手殿だ。

 でも、と。

 その通りなんだ。
 神器の意思より自分の決めた信念で戦っているから、あの二人はあんなにも美しい。



「駄目だな。魔法防御がなく介入すれば消し炭になる」
 ひらりと跳ぶ妹の視界で、スカサハ。
「アレスかセリス様。どちらか自由にして石を投じるわ。悔しいけど私がはいるのは難しい」
「選ぶならどちらに」
 ラクチェは躊躇いなく選んだ。
「アレス」
 さもありなん。セリスの守護者たる双子にとっては選択の余地はない。より危険なのはアレスに託すに決まっている。本人、喜ぶのだし。
「それじゃあ目の前の奴を片付けなければな」
「そうね」

 対の紫の瞳が、みどり色に瞬いた。



 セティの意識が戻った。
 肩より喉に近い場所に、矢が突き刺さっている。肩口はまずい、動脈がある。心臓に血を送るための太いパイプが通ってる。
 ただ意識があればいいのだ。
 セティはヒュ、と喉を鳴らしてフォルセティに指を走らせた。古びた書物は温かくセティに高揚を伝えてくる。
「無茶よ、お兄ちゃん!」
 フィーの涙声が届いた。駆け寄ってきたのはティニーだと思ったが、フィーがその場を変わっているのか。風の神の血を継ぐ妹に、まるで諭すように囁く。

 父上は、このために世界に留まったのだ。
 我々に流れる血は、そのためにあるのだ。

 継承者の中に流れる脅迫に近い信念に、セティはだが首を振った。
 そうじゃない。
 私が戦わねばならないのは、そのためなどではない――。
 瞬間広がった世界の認識にセティの瞳に光が戻る。トールハンマーと、混合精霊がぶつかりあって激しい風を生み出している。荒ぶる魔力の奔流が、セティに戦いの場を教えてくる。
 視界に、イシュタルが映る。銀色の髪を蒼く染めて、凍えるような美しさ。
 戦うべき時を知り、燦然と輝いている。
(あと一押しなんだ)
 ミストルティン、ティルフィング、そのどちらも接近用だ。例え継承者をある程度保護しても、元々の魔力耐性が低い。だから、セティでなければいけない。フォルセティなら状況を変えられる。
 この魔力に荒れる戦場で、あと一押しができるのは、セティ。

 ……それと、あと、もう一人くらいだ。

(……は、どういうものだろうか)
 なんだったか。確か聞かれた気がする。セティの知識を見込んでと、扱い方の教授をしたのだ。
(あれは、誰が)
 誰が秘めた決意をもって、手にしていたのか。

(走って)

(魔力の祝福をもって柄を取れ)

(血を、肉を、命を)

(剣を学ぶというのは、そういうことだ)

 誰が、そう教えていたのだろうか。





 どん、と腕の中に飛び込んでくるものがあって、アーサーは咄嗟に受け止めた。
 この魔力の奔流の中、飛び込んでこれるものなんてありえない。
 けれど何か神聖な祝福に包まれた彼女……そう、少女は。
 流れる傍から蒸発して、消えてしまう涙をたたえて飛び込んできたので。

 ……見送ってしまったんだろう。

「ティニー!!」





 トールハンマーの雷の中で少女の銀色の髪が青く燃えている。青い瞳は涙に濡れていて、判別がつかない。
 心臓を貫く、熱い感覚。
 どうして、彼女がそんなに剣が上達したんだろう、と不思議に思う。
 ああ、それぐらい、離れた場所で過ごしてきたのだ。
 アーサーの詠唱が消える。銀色の兄妹を飲み込みながら、トールハンマーが雷柱を作った。


「……聖なる、剣か。俺がミレトスで、落とした……」
「……はい。にいさま」
「十二の聖戦士達に聖別を受け、バーハラに置かれた聖剣だ。……聖戦士、達の。永遠の友情と、協力とを、誓い合ったという……」
 アーサーは柔らかに笑うと、ティニーの頭を撫でた。聖なる祝福に守られ、かすかにちりついただけで良かった。なんたって、女の子なのだから。
「その剣は、お前にやるよ」


 ことり、と。
 撫でていた手のひらが落ちた。
 ティニーはアーサーの身体を横たえて、胸の前で手を合わせる。
「ねえさま」
 ティニーは立ち上がり、イシュタルを振り返る。白い服は赤い血に濡れ、魔道士らしからぬ姿をつくっていた。
「バーハラに、行きましょう。……にいさまが天上で、淋しがりますから……」

 イシュタルはティニーに駆け寄った。不思議そうに見上げる妹を、胸の中に抱きしめる。ティニーの表情が一息に崩れて、見る間に涙が溜まり、流れ出した。



 銀色の姉妹は座り込み、声をあげて泣いた。十二魔将を制した仲間達が輪を狭めて、激戦を終えた少女達の哀しみに押し黙る。二人はユリアが訪れるまで泣き続けた。

「ユリア、様」
「アーサーは逝ったの」
 ユリアの瞳は悲哀を秘め、悲しみが伺えた。
「はい」
 鞘に収めた聖なる剣を抱きしめて、ティニーが答える。それでユリアはアーサーを討ったのが誰であるかをおぼろげながら感じ取ったらしい。
 ユリアの瞳は決意を宿し、白い炎が沸き立った。今までにない輝きを、光の皇女たる強さを見せて。



「私も行きます。……私の運命に応えるために。あの人との約束を守るために」










 バーハラは、ひっそりと静まっていた。謁見の間までゆくと、静かな泣き声が聞こえる。
「あーさー、あーさー」
 どこにいったの。一人にはしないといったのに。
(お兄様じゃない)
 その声を聞きながら、ユリアはどこか淋しく、そう感じた。セリスの表情にはどこか躊躇いと哀しみが。。イシュタルの瞳の上には、動揺が見られない。この不安定であどけなく、寒気が立つ存在こそが彼女の知っているユリウスなのだ。
(そういう意味では、イシュタルとアーサーの、見ていた姿は同じなんだわ)

「ロプトゥス」
 ユリアが真っ直ぐ、その名を呼んだ。ユリウスはぴくりと肩を震わせると、甘やかで蟲惑的な容貌で顔をあげる。
「やあ、ユリア。それにイシュタル、兄上……」
 くすくす、と忍び笑うように笑う。それはイシュタルにとって痛ましいほど怖ろしく、また懐かしさを覚えさせた。
 ユリアと言葉を交わす度に、だが恐れは強くなる。充満する闇の気配に眩暈がしそうだ。
(でも、私は見届ける)
 義務ではない、意思なのだ。

 黒い聖書と白い聖書。開いたのは同時だった。
 光と闇。二匹の龍が立ち昇る。
 ユリアはけして、目を逸らすことをしなかった。じっと兄であった器と、兄ではない中身を見つめていた。
 ユリウスを見つめることが辛く、ふと視線を落としたイシュタルは、視界にはいったその姿に、心臓を鳴らす―。

 けして、動揺しないと思う。
 あれが兄ではないとユリアには克明にわかった。血が、戻ることはないさだめだと教える。
 アーサーが加速させた闇への回帰は大陸中の悲嘆と、憎悪と、喪失を集める。
 だからあれは、ロプトゥスなのだ。

 ユリウスの瞳が、ふと光を帯びた。

「僕を殺して。ユリア」





 アーサーは正しくは兄ではない。
 血縁とかそういうことではなく、アーサーのほうが年下なのだ。だがアーサーは殊更おにいさんぶってはきょうだいたちの守り役であることを宣言した。
 イシュタルとしてはそういって胸を張る行為は子供みたいだと思っていたのだけれど。
 彼女が泣いている時に頭を撫でてくれる様子は、確かに彼がお兄さん役なのだ、と感ずるものがあった。
(ユリウスには、双子の妹がいたんだ)
 いつのことだったか教えてくれた、もう一人の妹の話。行方不明になった皇女様。
(必ず見つけて)





 お兄様の、瞳の色だ。ユリアの詠唱が凍りついた。
 瞬時に光は鳴りを潜め、ロプトゥスが笑う。騙されたの?いいえ、でも。
 私は、兄かどうかが、わかるのだ――。

 闇の龍があぎとをもってユリアに迫る。
(食べられる!)
 だが、ユリアに闇の龍は牙を届かせることはなかった。





(必ず見つけて、俺達で守ってやろうな)

 そう言っていたでしょうアーサー。





 銀色の娘は、その身体に闇の龍の牙を食い込ませていた。
 トールハンマーの守護は、ロプトゥスの前では通用しない。
 一度の発動をもって龍は消え去り、イシュタルは体重を感じさせない足取りでユリウスに歩み寄った。
(実際、彼女の何かを抜き去られたのではないかと、その時セリスは思っていた)
 ユリウスの、金色をした瞳がイシュタルを映す。
 慈しみと、愛情と、温もりの込められた笑顔で、嗜めるようにイシュタルは黒い聖書がめくれるのを押し留めた。

「駄目ですよ。ユリウス様……兄は、妹を、守るものなんですから……」

 さあ、ユリア様。

 イシュタルは振り返った。その表情は綺麗だ。儚い訳でも、覚悟を決めたわけでもない。ただ。微笑みたいのだ、といいたげな顔は、ユリアが最後にみたアーサーのものと、良く似ている。





 ナーガは発動した。

 軽い音がして、少女が倒れる。
 留めるように、あるいは守るように抱きしめていたものは掻き消えるように失われて、後にはイシュタルが一人倒れているだけであった。



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(06/03/03)