魔力が充足し、ぱかり、と瞳が開いた
傍らで静かに腰掛けていた娘が瞳を細める

「おはよう、アーサー」

「……おはよう、ユリア」



彼女は全てを思い出した





許されるなら、まだ傍に






「全部思い出したんだな」
「ええ。お母様が死んだ日も、昨日のように覚えてる」
「ユリウスのことも?」
「……ええ。今のお兄様が、お兄様ではないことが、はっきりとわかる」
 ユリアは視線を強めると、静かに断罪を下した。

「貴方はあれを裏切っているのね、アーサー」

「……俺は、あいつを裏切ってなんか居ない」
「いいえ。そうでなかったら、どうして私を放っていたの。どうしてティニーを逃がしたの。……私は、解放軍にいたの。イシュタルが貴方に逃がされた経緯も、聞いているのよ」
「あいつの傍にいて、混乱を吹き込まれちゃ困るからだ」
「どうして困るの?混乱するということは、あれとお兄様が戦っていたということでしょう。お兄様が閉じ込められることを望んだというの?」
「違う!」
「何が違うの」
 記憶を取り戻したユリアは、己の立場を理解した確かな輝きを孕んでいた。
 幼いユリアも、記憶を閉じ込めていた間のユリアも、持ち合わせていなかった輝きだ。己の立場と、これまで培った意思と誠意をもって彼女の背中を伸びさせている。
 ついに光の娘と呼ぶに相応しい輝きを得たユリアは、アーサーが隠し切っている、いや忘れきっている隠し事を鮮やかに暴き立てた。

「私も、貴方も。お兄様が、もうお兄様に戻れないことを知っているのよ」
「ユリウスは」
「もうお兄様ではない」
 私は、記憶を取り戻して、そしてあれを見た。母を、私を、ティニーを、イシュタルを。父を突き放されたあれは、もう器しか兄とはいえない。
 アーサーとユリアは、ユリウスを知っている。
 ユリウスと、あれとが決定的なところで隔たっていることを知っている。知りすぎていた。

 だから、兄のままでは、あれが殺すのがあんまりにも苦しい。

「私のためだけじゃ、ないのでしょう。アーサー」
 私がナーガで兄を殺すときに、少しでも兄でなくそうとした。それだけでは、ないのでしょう。
「貴方の我侭でしょう?」
 アーサーは紅い瞳を凍りつかせ、覗きこむように見つめてくるユリアに怯えていた。
「お兄様は、お兄様に戻れない。ゆるゆるとあれに摩り替わられる。……それなのに、アーサーはあれを選んだのね」
 ユリアの呟きは苦しげだった。だが、アーサーは泣きそうな思いでそれを受けると、吐き捨てるように叫んだ。
「――そうだ。だって、あいつが一人になる」
「お兄様を覚えているのは私と貴方だけ。……私はあれを殺すために生まれたから?だから……だから、アーサーがあれの傍にいると?お兄様じゃないのよ!」

「でも、ユリウスと同じくらい、あいつとも一緒にいたんだよ!!」

 ユリアの覇気が、ぱたりと失せた。
「どれくらい、あれの中にユリウスが残っているのか俺は知らない。わからない。光も闇も、俺には関係ない」
 ただ、ずっとあれと一緒にいたのだ。
 ユリウスとも、あれとも、一緒にいたのだ。
 言葉で分けられない親友として、苦しみ、笑い、恋をして、狂う――その様の、傍に。

「……あれと。……いいえ、お兄様と、一緒にいるために。家族も友達も。……私も置いていくのね……」
「男の友情はダイヤモンドより硬いものなんだよユリア」

 おどけたように笑うアーサーに、ユリアは涙を浮かべた。
「それじゃあ、私も一緒にいる」
「そうすればお前は殺される」
「なら、どうしたらいいの?」

 どうしたらナーガを片手に貴方の前まで。ユリウスを殺しにゆけるの。

 ユリアの血が、声高に運命を叫ぶ。彼女は殺したくないと願う自分を知るのと同じくらい、殺さねばならない『ユリア』を理解している。それが酷く悲しいが、自分も同じようなものなのかもしれなかった。
 どれくらいユリウスの傍にいてやれることができるのか。アーサーはそれを測りながら生きているのだ。

「眠るんだユリア」
 吐息のように囁きかけ、アーサーはユリアにまどろみを呼んだ。
「マンフロイがお前を操りにくるだろう。そうしたらお前はその意思を任せてしまえばいい。マンフロイが誰かに殺されればお前は解放され、ナーガを得るだろう」

 そしてマンフロイが死ななければ、お前はまどろみの中に眠って、ユリウスを殺さなくてもいいんだ。





「君の思うとおりだユリア。俺こそユリウスから逃げ出したかったんだ。そうしないために、全部捨てた」
 眠りについたユリアにそう囁きかけると、アーサーは彼女の額に口付けを落とした。
 いい証拠だ。
 恋も忠誠も家族もかなぐり捨てて、親友の天上への旅路に付き合うために、俺はいるのだ。

 そして、最後の最後までユリウスのために戦うために、イシュタルを自由にしたのだ。
 自分のためなんだよ、愛しい俺の妹よ。
 後悔するな。
 生き抜くために神器を振るえ。
 お前が全力を出さなければ、死のための俺の魔にお前が喰われるのだ。





 バーハラの玉座。そこにはユリウスが腰掛けて、ゆらゆらと午睡に耽っていた。
「もうすぐ、俺も出ることになるかな」
「また遊ぶか?ミレトスみたいに、一緒に出るか?」
 くすくす笑う少年を、アーサーは試すみたいに聞いた。
「まだ、お前の傍にいることが……俺に許されるかな?」
「怖くなったの?余から逃げる?」
 薄ら寒く笑う様子は、ユリウスであって、ユリウスではない。
 だが例えそれが同じものであっても、違うものなのだとしても、アーサーの守るたった一つであることは変わりないのだ。
「ああ。ずっと怖かったよ」
 トローン、トルネード、ボルガノン。血脈と風の神との教えとで契約を交わし、血の滲むような努力で成し遂げた、そのどれにもあたらない魔法。ユリウスを守るためだけにあみだした魔法。
 ――ユリウスを、死に追いやるための魔法。

「いつ、俺はお前から逃げ出そうとするのか。それがとても怖かった」
 だから、今は怖くない。そう笑うアーサーにユリウスは押し黙る。



「お前が何であったとしても、お前は孤独じゃない。俺がいる」




















「それでは、軍議を始めよう」

 目指すはバーハラ。途上帝国の抵抗は一層増すと思われる。
 エッダ、ドズル、フリージ、ヴェルトマー。それぞれの城から最強の軍団が投入されることだろう。
「エッダは俺が出向こう」
「魔道士隊はその援護を」
 デルムッドを傍らに控えさせたアレスが宣言し、セティが加えて告げた。
「ドズルには、私達が」
「我々も加えていただきたいね。子供狩りに穢れたスワンチカをに、輝きを取り戻すための一歩は是非私に」
 シャナンとヨハンは視線を交わしあい、先にシャナンが、ふい、と逸らした。
「フリージは私が抑えます」
「合流時には、決戦の人員を倍に増やして参ります」
 イシュタルとティニーが、重ねて断ずる。トールハンマーの継承者はイシュタルだ。彼女が姿を現せば帝国に残存するフリージ勢力はアーサーから離反するだろう。

「フリージまで押さえることができたら、それぞれの城に人員を残してバーハラ前の平原に集合だ。残るはバーハラの勢力との戦いになる」
「ヴェルトマーがどう動きますかね」
「マンフロイ大司教を抑えるのは我々トラキア友軍が。……セリスはバーハラに集中してください」
「リーフ?だが、君は」
「イシュタル殿なら、大丈夫。……今度はいけるだろう?」
「――ええ」
「セティ殿と離されなければアーサーの魔力に打ち負けることはまずない。それは実際彼の魔力とぶつかったよりの推定だ。それに私がミレトスで彼を倒せたのは不意撃ち要素が高いから、次は無理だ」
「……そう。わかった、ヴェルトマーは友軍に任せよう」

「バーハラ、だが」

 彼らの元に、ユリアはいない。
「……例え、ナーガがなくとも」

 乾いたセリスの呟きに、戦士達は唱和して続ける。





(この聖戦に、終幕を)










「二度目にお目にかかる。マンフロイ大司教」
「サラを誑かしたレンスター王子か。そこにサラを連れて、何のつもりだ?わしが躊躇うとでも思うたか」
「いいや?……そんな風には思わないけどね」

 炎の牙城で闇の伝道者と闇の姫は向かい合い、奇妙なほど静まり返っていた。

「あたし、おじいさまが嫌い。ママもパパも、あたしから奪ったんだもの」
「わしが憎くて、わしを撃つのかい?サラ」
「ううん。あたしがおじいさまと戦うのは、そんなんじゃないわ。あたしの中にも、闇があるからよ」
「お前も闇を否定するのか?」
「あたしが否定するのは、昏い感情。復讐、怒り、哀しみ。本来はもっと輝かしい発露となるべきそれを、汚泥に埋める闇のことよ」
 サラは静かな瞳で衣を動かした。丁寧に、挨拶をする。一人前の淑女のような動作をする幼い少女に、リーフは少し微笑んだ。
 少女の瞳には、闇がある。だがそれはマンフロイの瞳にあるそれとは違い、人の癒したる、闇夜の闇である。

「リーフさまが教えてくれたよ。闇はそれだけなら、光と同じものなんだって――」



 だからあたしの乗り越える闇は。
 ユリアが殺さねばならない闇は。

 おじいさま、あなたが持つ闇は。



 本当は闇なんかじゃなくて、誰もが持ってる壁なのだ。










 リーフは静まったヴェルトマーから、バーハラの空を見た。リーフの瞳にはそこには光と闇と、七色に輝く精霊達の乱舞が映っている。
「決意と呼ぶほどの信念が、歴史を動かすんだ」

 だからこの聖戦は絶対、我等の勝利となるだろう。



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(06/03/02)