「来るか――」

アルヴィスは玉座に座って孤独に待っていた
愛した女が、愛した男
それが座るべきだった玉座

やってくるのは、その二人の息子

そして、もう一人の娘――





君に痕を残すのが、此の手だけであればいい






 セティがイシュタルのところへやってきたのは、ミレトス城に入ってのことである。
 城の一室で力が抜けたように椅子に座っているイシュタル。セティはそっと近づくと柔らかく呼びかけた。
「貴女に怪我はないと聞いた。ほっとしたよ」
「……セティ殿」
「温かい紅茶でも飲むといい。落ち着くよ」
 お茶を入れようと離れようとしたセティのマントを、引き止めた。
「私、は」

「私は、決めていたと思っていたのに……決めてなんて、いなかったのね」
「イシュタル」
 綺麗な銀色の瞳に、涙が浮かんだ。ティニーに心配をかけていたのは、他ならぬ自分であったのだ。ティニーに心配をかけて、リーフに闇を操らせるなんてことをさせた。イシュタルに流れる血が拒絶するように、彼にとってもそれは激痛を働かせただろう。
「私は、私が怖い。あの時王子が来なかったら、ファバルとアレスも死なせていたわ」
「でも、二人とも、貴女も死ななかった」
「次はわからない!」

 イシュタルの脳裏に、地図が浮かぶ。ミレトスから入るグランベル。まず始めの領地はシアルフィ。その城を守るのは王都バーハラからその居を移した皇帝アルヴィス。
「私は、陛下を憎んでいる。当然だわ、母と兄の仇なの。……でも同じくらい、優しくされた記憶を、忘れていないのかもしれない」
 独り言に近い彼女の言葉に、セティはそっと言葉を続けた。

「皇帝を、愛しているのかもしれない?」

 イシュタルは涙に濡れた瞳をセティに向けた。
 ながいながい、沈黙が降りる。

「……そうかもしれない……」

 敵なのに。
 呟く彼女の涙を拭って、セティは悲しそうに言った。
「私は彼が羨ましい」
 問いただす視線を受けて、セティは微笑む。
「貴女に永遠に消えない痕を、彼は刻むのだろうから」





 イシュタルがアルヴィスと出逢ったのは、思い出すのも忌まわしきシレジアでの出来事の直後のことである。
 とはいっても、その時のイシュタルの記憶にはシレジアの欠片も遺されてはいなかった。マンフロイによって記憶が閉ざされ、記憶喪失のイシュタルはバーハラへと連れて行かれたのである。
 ユリウスと逢わせようとマンフロイが少女を置き去りにしたところへ、皇帝が訪れたのは偶然の所作であった。
(あなたは、誰……?)
 始めの第一声は、奇しくもディアドラがアルヴィスへとよこした言葉とそっくり同じものだった。

 奇妙な幸福は始まった。
 十歳かそこらの、小さな娘だ。どんなに気丈な心を持ちえようが、あやふやな己が不安でないわけはない。
 娘と妻を失い、弟とその妻を失い、息子の心さえ失った。そんな時に手に入れた娘だ。
 溢れるばかりの魔力も、フリージの銀の色も。聡明な性質もことごとくが失ったものとは違っていたけれど。記憶のない少女はアルヴィスを慕い、彼の息子達と打ち解け、花開いていった。

 聡明さは子供狩りを憂い、優しさが諫言を躊躇わせる、次代の皇妃となるべきことが、約束された娘。

 少女が庭の影で小さく膝を抱え、ユリウス様がこわい、と呟いて涙する。
 あまりに手酷く、あまりに甘い。
 かぐわしきは、禁忌の香りか――。

 イシュタルの記憶の封印が解かれたのは、そんな頃合。彼女が十五を数える頃であった。



「あれは、イシュタルの魔力が打ち破ったのではあるまい」
 玉座で力なく中空を見つめながら、アルヴィス。
「お前が封を弱めたのであろう、マンフロイ?」

 闇の老人はその手にぐったりと気を失ったユリアを抱え、したり、と笑った。
「イシュタル殿はお優しい方。だが、その中には雷の本質である怒りを秘めてらっしゃる」
 母を兄を、奪った者を。あの方が許せるはずがありますまい?
「それに、イシュタル殿が陛下に牙を剥くのは……自業自得でもあるのではありませぬか?」
「何?」

 マンフロイは呵呵と笑うとユリアを連れて何処かへ去ってしまった。それを止める力さえない、無力な皇帝。なんと滑稽なことだろう、とアルヴィスは自嘲する。
 ヒルダ、彼の異母姉。彼女の母親。
 彼女を殺させ、イシュタルにそれがアルヴィスが糸を引いていたと誤信させたのはマンフロイだ。だが知らず彼女の運命を操った哀しさか、彼女の母親を陥れた罪悪がそれを言うのを止めている。
 彼女が雷を振るい、己を殺そうとするのを見送っている。

(本当に、それだけか?)

 心の隅で誰かが否と言うが、見えない振りをしている。










 セリスとイシュタルは、シアルフィへと入城した。城下町は息を潜め様子を伺っている。二人は謁見の間へと繋がる道を真っ直ぐと歩くと、暫し会話を交わす。
「イシュタル、君はアルヴィスをどう思う?」
「どう……とは。私が陛下を憎んでいることは、セリス公子はご存知でしょう」
「そうだね。そして私がアルヴィスを憎む理由があることも、君は知っている」
 イシュタルは息を飲んだ。皇妃ディアドラはセリスの母親でもある。アルヴィスは悲劇の英雄シグルドから彼女を奪い、記憶を失った王女を娶り、グランベルの継承権を得た。……というのが、吟遊詩人レヴィンの広めた『隠された』真実である。アルヴィスは凱旋したシグルドを罠にかけ、死と不名誉に貶めた。セリスがイザークに隠れ住んでいたのはそれが理由である。
 でもけして、そんな噂だけで語られる人ではなかった。
 イシュタルの瞳に浮かんだ非難にセリスは微笑むと囁く。
「そうだ。君は始めから皇帝を罵る時にそういう顔をしていた」
 今度こそ、イシュタルの顔に浮かんだのは困惑だった。
「私に、何が言わせたいの?」
「この聖戦の意義を」
 謁見の間へと続く回廊は見事な調度品が飾られている。客人に城を誇るための通路。生まれてこの方訪れたことのなかった、セリスの故郷だ。

「イザーク侵攻。ヴェルダンの、アグストリアの同盟決裂。シレジアの内乱――私たちは皆親を失い、根底に復讐があることは否定できない」
 セリス、リーフ、アレス。三英雄の息子達と呼ばれる彼ら全てに復讐の対象がいたことはまるで象徴だ。
「けれど一方で、戦争の影にはロプト教団が動いている。かくて明らかになった私の弟に、入り込んでいるという竜!」
「シレジア王……いえ、あのひとの真意は光と闇の決戦」
「そう。それが聖戦だとレヴィンは言う。復讐という感情も全て、私達に流れる血の運命のために注がれたのだとね」
「……運命のため?」
 イシュタルの表情にセリスは笑うと、だが、と続けた。
「それでは何故私たちは聖戦士の中で亀裂を入れ殺し合い、侵略を続けるのか」
 復讐が終わりにならない。闇だけが敵ではない。かつて血を分かち合った絆が糸のように切れる。

「リーフがトラバントを殺したのはどうしてか。私と君がこの城へ向かうのは何故か。アレスが私を、殺さないのは何故か……」
「私があの方を殺せなかったのは何故か。どうしてアーサーは私を逃がし」

「……そして、私を殺そうとするのか」

「それが、意思と言うことだ」
 セリスはティルフィングを鞘ごと手に取った。愛しいものをみるように、ただの冷たい剣を見るように。
「躊躇うのは悪いことじゃない。けれど、躊躇うのは失礼だ。血に濡れ、怨嗟を聞き、それでも解放を誓った。それは私のためだけれど、それだけじゃない」
 君は何のために?
 セリスがにこっと笑ってイシュタルを見た。
「子供達の泣く声が、嫌だったから……」
「そう。それが君の意思だ」
「陛下が憎いからでも、あの方の闇が怖ろしいわけでもない。私は、子供の泣き声が聞きたくない。笑い声が聞きたい。そのために、解放軍にいる……」

 天啓のように、ひらめくものがあった。

「……そうなのね」

 だからアーサーは、私が殺せるのだ。










 謁見の間が開いた。
「来たか」
「はい、陛下」
 アルヴィスは、記憶にあるよりもずっと老けた。
「母の、そして父の仇を取るために……か?」

「いいえ、アルヴィス皇帝。確かに私は父を、そして母を奪った貴方を憎んでいます。けれど民がこの戦いに私怨を望まないように、私も、貴方を殺すがために戦ってきたわけじゃない」
 セリスはティルフィングを鞘から抜き、鞘を放った。銀色の刀身が浮かび上がる。
 シグルドのそれとも、ディアドラのそれとも違う。
「ロプト帝国が滅びて100年と少し。言うなれば、未だあの時の聖戦は終っていないのです。闇と光に別れ、光は闇を厭い、闇は光を厭い。それぞれが禍根を引いて続いている、人の心の闇だ」
 これこそが私の意思。そのためになら、重責も涙も怨嗟も。友の死さえも越えていけよう。

「私はこの大陸を旧きより開放する。それが私の聖戦です」

 ただ、その途上に、旧い者として貴方がいただけだ。
「わしを旧いと断言するのは、若いゆえかな。イシュタル、お前はどうか?」
 イシュタルは静かに瞑目すると口を開く。

「陛下、私は長く陛下の庇護下にいました。陛下から愛も温もりも頂きました。泣いていた子供の私の頭を撫でてくださったことを、私は一生忘れることはないでしょう」
 トールハンマーの青い光がイシュタルを伝い、彼女の銀髪を僅かに浮かせる。
「それでも貴方と戦おうと思うのは、陛下が憎いからではない。貴方に残したいものがあるだけではなく、貴方から継ぎたいものがあるからです。感情の好悪ではなく、私の中で貴方がとても大きいからです」
「わしに、何を残すと?」
 イシュタルは微笑むと、言葉を続けた。
「陛下が憎いと思ったのは、私が女だったからかもしれません。ねえ陛下、サイアス卿の父上をご存知ですか?」
「いいや?」
 イシュタルは悲しそうに笑った。
 この人は、無思慮で無知で甘いから。どうしようもなく憎くて、何に怒っているかもよくわからなくて。
 胸元に手を寄せると、そこに刻まれた痕が火傷であると気づいたのだろう。アルヴィスは娘が肌に傷を残すなんて、と見当違いの不満を述べた。

「陛下は本当に、見落としているところばかりで」

「……かなしいかたです」





 伏したアルヴィスの横で、イシュタルはぼうと立っていた。
「イシュタル?」
「……ああ」
 私は、泣いているの。それが極自然なことであるかのように、イシュタルは涙を認めた。
「アルヴィス皇帝を、愛しているの?」
「愛していたわ」

 そして、その愛をこの人へ残す。

「……君の火傷は、ファラフレイムのものでしょう」
「わかるの?……当の本人が、気がついていないのにね」
 本当に鈍い人。イシュタルが微笑むとセリスは瞳を細めた。

「彼も、君を愛していたのだろうね」
「……そう思う?」

 セリスがにこりと笑うので、イシュタルもまた、にこりと笑った。
「母を愛した人が、また別の恋をしたというのも変な気分だけれど。……でも、そういうものだろう、この気持ちは」
(ああ)
 誰も知らない、ファラフレイムの継承者。魔道書を拾い上げると、イシュタルはそっと抱きしめた。

(サイアス、貴方が憎かったのは私か)










「貴方が、素性まで彼女に打ち明けているとは思わなかった」
 シアルフィに後方支援部隊が追いついた。治療が済んだ後の彼を、リーフは見つけて話しかける。
 彼の片手には布包みが握られていた。彼はヴェルトマーの司祭だから、管理を頼まれたらしい。
「何のことですか?」
 にこり、と微笑んで問い返す様は長年黙っていただけはある。だから、彼がその口から告げるなんて、ないだろうと思っていたのだけれど。
「司祭が黙っているなら、私も何も聞かない。……でも、一つだけ言わせてくれ」
 リーフは彼の視線の先を追いかけた。シアルフィは主を長年失い、皇帝の別居となっていたのである。そこにかかっていた肖像画も皇帝のものだ。近いうちに外されてしまうだろうけど。

「彼はきっと、傷つきながら逝きはしなかった」

 リーフは踵を返すとその場をさった。カツカツと響く音が消え去り、彼はまた一人になった。硝子のはめ込まれた窓から月明かりが差し込み、彼の足元を照らす。司祭服が白々しく映える。
 サイアスは跪くと、壁に爪をたてる。
 布包みが落ちて、ばさりと鳴った。
「……貴方は、ずるい。卑怯で、残酷で、けがらわしい……!!」
 サイアスの真紅の瞳から涙が零れた。あの男が、己の罪を悔やんで、罵り、悲嘆のままに死ぬことを望んでいた。サイアスの囁きはずっとそのためにあり、そのために彼女の憎しみを加速させたのだ。
(お前の復讐に、彼女を使うことはもう無理だ)
 そんなことはない。アーサーの言葉を思い出してサイアスは慟哭した。事実、彼女が帝国を離れたことによってイシュタルは世界から復讐のための後押しをされた。
 どんなに彼女が本心では躊躇っていても、勢いがアルヴィスを殺させたはずだった。そうして、アルヴィスが罪に死に、愛する娘に殺され、イシュタルはそのことに殺めてから気がつくだろう。

 それなのに、彼女の澄み切った泣き顔はどうだ。
 イシュタルは全てを悟り、その上でアルヴィスを殺した。アルヴィスは彼女に赦しを受け、その上で死んだ。
 サイアスの横で布包みが黙って転がっている。その中の真紅の魔道書を、サイアスは見たくはなかった。

(母上)

 皇帝の肖像画が呪わしかった。母を顧みず、サイアスの存在すら知らず、気づいていても見ぬ振りをし、実妹を愛して妃にして。
 その上で、新しい恋をした。
 父親が憎かった。アルヴィスが、人生全てを悔いるような死に方をさせたかったのだ。

「どうして、なんだ」

 何に対しての慟哭だったのかは、彼しか知らない。



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(06/02/28)