遊びに行こうよ
やわらかな誘いに、アーサーは振り返った 感情の色の見えない、淡白な瞳
一つ首を傾げて
いいよ、と言った
――――ミレトス
リーフは出陣の前、一つ一つの装備を確かめていた。 マスターの称号を得たリーフは、あらゆる武器を操れる。だが、それぞれの利点を理解せずにして、マスターは名乗れない。異なる武器を、最大限力の発揮できるように使い分けてこそ、万の兵と等しい力を持つと呼ばれるマスターナイトである。 「リーフさま、入るよ」 幼げな声がして、返事を返す前に部屋の扉が開いた。リーフが庇護する闇の姫君、サラである。後ろにはセイラムがついていて、小さく礼を取ったのが見えた。 「やあ、サラ。セイラムも」 「今回の出撃はね、精霊の寵者がくるわよ」 いたずらげに瞳を輝かせてサラが言うのに、リーフは困ったような顔をした。 「それは困ったな」 マンフロイに攫われたユリアが、皇女であったということが明かされて、軍の上層部は衝撃を受けていた。
「ユリアが、皇女……ユリウス様の双子の妹」 当惑したようなイシュタルの呟きは、その場に居た全員の代弁だっただろう。 「にいさまは、それをずっと前から知っていらしたようでした」 ティニーがレヴィンを覗き見ると、風色の軍師は何でもないことのように告げる。 「アーサーに風魔法の手ほどきをしたのは、ユリアを匿っていた場所だからな。終にあれは、こちらを選ぶことはなかったが」 混合精霊を完成させるために、聖戦士として生きる、といった顔をしてジルフェを学んだ少年を思い出す。 「彼は、既に選んだと言っていた。……説得は不可能だろう」 リーフがそういうのを、イシュタルが蒼い顔をして空中を仰ぐ。 「アーサーの魔法は強力だ。おそらく魔力耐性を持つ神器をもってしか、彼の魔法壁を破ることはできまい」 「ミストルティン、ティルフィング……もしくは、魔道の神器ですね」 「そして、既に我々の手にはそのいくつかが存在する」 セティの持つフォルセティ、そしてイシュタルのトールハンマー。 「……私が、必ず」 トールハンマーを抱きしめる姿を、冷ややかな視線で見ていたのは。
「イシュタル公女があの様子では、戦線は厳しい」 チャラリ、と落ちてきた十字架を、リーフは懐に放り込んだ。 「これが必要だろう」 セイラムが差し出してきたものを、リーフは謝礼を呟いて受け取った。 「ティニーの話を聞くに、彼の混合技術は凄いんだ。一つ分の魔力消費で、何倍もの力を引き出しているわけだからね」 「真っ向から制することができるのは、ユリアか、ユリウスだけよ」 両方いないよ。困ったなあ。 本当に困っているリーフを見て、サラはくすくすと笑った。
ファバルは、何度出ても戦争というものには慣れない。 人と、人とが。個人的な諍いなくして戦いあうということが理解できない。個人的な諍いであれば取っ組み合いの殴り合いをすればよいこととは思うけれど。大層な武器は幾度となく狩りに使われ、イチイバルはそれに嘆くどころか、嬉しがっているように思えた。 正義のために、なんてファバルには絵空事だ。 家族が笑って、友達がふざけあい、一日一日を楽しく生きていくこと以上に、貴いことなどないはずだと思っている。 そんな単純なこともわからず暴利を喰らう貴族には腹が立ったし、分けあいよりも奪い合いを選んでしまう民が悲しい。 そうではない未来を作るのだ、とパティが信じているから、俺も信じるのだ――。
ヒヒン、と馬の啼く声がした。 ファバルがそちらを向くと、華奢な少年が馬上で森の合間からこちらを見ている。 「よ」 そう言って綺麗に笑うので、ファバルも短い返事を返した。 「なあ、アーサー?俺は戦争が嫌いなんだけど、お前はどう」 イチイバルに矢をつがえ、光の輝きが矢を覆っていく。 「俺も嫌いかな。毎日平和に暮らせるのが一番いいなあ」 周囲にぽうっと青と赤と緑の輝きが浮かび、ファバルの周囲に居た兵が騒然とする。 「お前が同意見みたいで、嬉しいよ」 「哀しいのでなく?」
いや、嬉しいのだ。そう告げるようにファバルは笑って……弓を引いた。
「冗談じゃねえ。矢が当たる前に焼き切ってやがる」 イチイバルの神力が、精霊混合の力に純粋に押し負けている。ファバルが弓撃つ手を弱めれば、即座に襲ってくるだろう。――事実、ファバルの周りの兵達が、視界に映る姿を減らしていくのだ。 「五十六、五十七……っとお!」 アーサーが大きく馬を逸らして、黒い影が疾走するのから身を離した。 「いらっしゃい、歓迎するぜ。アレス王子!」 「剣は抜かんのか」 「前回やりあったので懲りたよ。やっぱり魔剣の継承者に剣で対抗するのは無理がある」 そういうわけで。 アーサーはぐるりと円を描くように指先を動かした。 「数で攻めることにする」
セティは魔力の飛び交う渦へと向かう足をぴたりと止めた。 ぞっとして振り返ると、一人の少年が楽しげに木に背中を預けている。 その唇が動く様子に、数を数えているのだと気がついたセティは背筋が寒くなる思いに襲われた。 周りの者は、誰も気づいていないのか? 少年はセティの視線に気がつくと、しい、と指先を唇に寄せた。
(百人死んだ後に、お前を一人目にしてやろう)
唇がそう蠢き、セティは動けなくなる。 彼を捉えていなければいけない。他の誰も、彼の隠行に気がついていない。今ここでフォルセティを発動させて撃退できるか?いや、ナーガでなくては駄目なのだ――。 遠くでまた、魔力が跳ねた気配がした。 (イシュタル) 殺されないでくれ。ユリウスと対峙しながら、セティは願う。
友邦レンスター軍の、後方支援のテントの中。サラはふと顔を持ち上げた。 「怪我人がたくさん来るわ。怪我ですまない人も」 「ですが、主だった方は亡くなられないでしょう。あの方が、そうはさせない」 サラとスルーフは、考えが沿うように笑うことがある。先見の能力を持つ、闇の姫と光の司祭。二人は等しく共通の主を戴き、彼を信じている。その身に宿る神がかった力さえ。 「……しかし、本当に可能なのでしょうか」 セイラムは不安な様子を隠せなかったが、スルーフは真摯な顔で頷いた。 「できます。何故ならあの方は、ツヴァイの光を持つものなのだから」
「問題は、雷のお姫様の方よ」 サラが被ったヴェールを揺らしながら呟く。 「聖戦の終わりの片翼を、担うのはあの娘なんだもの」
(行かないで、ねえさま) とうにイシュタルは駆け出してしまった。ティニーはぎゅうと苦しくなる胸を抱えて、よろよろと魔力の渦巻く場へと向かう。森に囲まれていたはずなのに、やけに見晴らしがいい。 ティニーの視界に、きらきらと銀の髪を煌かせる兄が見えた。彼の魔力で、森は消失してしまった。 イチイバル、ミストルティン。膨大な魔力に翻弄される中に、イシュタルが駆けていく。
(戦わないで、ねえさま)
あなたと、あのひとが。殺しあうところなんてみたくないのに。
その魔力の中心には、幼馴染が居た。 「アーサー」 呼びかけにアーサーが視線を向ける。その表情の乾いた色が、イシュタルは何故だか怖ろしかった。 「来たか、イシュタル。トールハンマーは継承したな?」 「ええ」 「伯父上を殺したのは俺だ」 「……!」 「そう、そういう顔をした方がいい。……じゃあ、始めるか」 アーサーは聖なる剣を抜いた。祝福を受け、急激に魔力が高まりを見せていく。
辺りに雷雲がざわめき、アレスは斬りかかるのを放棄した。イシュタルが来てしまったなら、彼の出番はない。いくらミストルティンで魔力を喰っても飛び込んでいくのは無謀の極みだ。 「風のヤツはどうした」 アーサーの隙を狙いながら、ファバルはしらない、と首を振る。 「フォルセティがなければ、決め手がないぞ。魔力はイシュタルが上回るが、相手の集中力は桁違いだ」
ユリウスの笑みが増したのを見て、セティは汗が伝うのを感じていた。 精霊が強大な魔力の激突を教えている。大気は震え、トールハンマーが発動されているのだと嫌でもわかった。 だが長い。 均衡状態だ。魔道は精神の負担が大きく元々長くは続かないが、ここで継承者とそれ以外には格段の差が出る。彼女にとっては、マイナスに。 魔道の継承者というのは、長期戦には向いていない。これはセティにも同じことが言えたが、均衡状態になれていないのだ。天性の魔力が瞬く前に優越し、長期戦にならない。 精霊混合など操るアーサーも、同じだと思うのだが……。
だが、思考はそれほど続かなかった。 ふ、と魔力がぶれた後、精霊があっけないほど霧散したためである。 セティも、ユリウスも、何が起こったのかよくわからない、という顔をする。 だがユリウスに浮かんでいた表情が、憤怒のそれに変わったかと思うと少年は動き出した。 闇に溶けて、消える。
……セティがやっと動き出せたのは、それから五秒ほど数えた後だった。
二人の魔力は拮抗していた。 いや、余裕はアーサーの方にあったかもしれない。トールハンマーを全力で支える傍らで、ファバルのイチイバルを牽制する器用さがアーサーにはあった。 トールハンマー自体には、魔力を高める効力は存在しない。そのため、聖なる剣で増幅された魔力がそれを可能としていたのである。
「長いな」 「ああ。……けど、これは続かないぞ……」 近い場所にいるファバルとアレスからは、二人の表情がよく見えた。膨大な魔力の解放は二人に負担を強いり、今にも限界に達しようにも思える。 「だが、相手の集中力は、長引けば長引くほど……増している」 「……不味いな」 くそ、と何本目かの矢をつがえてファバルが狙おうとするのを、アレスが制した。 「すこし、細工をしてみるか」
魔力を支え続ける彼女とは違い、アーサーは絶えず精霊達のバランスを取る必要がある。小さな声で詠唱を唱え続けるのはそのためだ。 極限まで集中されていた意識の隅を、すっと通るものがある。 咄嗟に横によけたアーサーの頬を、痛みが走った。 「……矢?」 何故だ。魔法壁は完璧だった。イチイバルはこの壁を通り抜けられないはず。ファバルには魔力はないし、また、魔力を喰らう能力も――。 (集中の、邪魔に)
イシュタルの銀の瞳が見えた。ほぼトランス状態に入っている彼女が、彼の隙に忠実に手のひらを向ける。 アーサーは構成を立て直そうとするが間に合わないのは必死だ。 真っ直ぐ差し向ければいい。それで全ては終わり。アーサーを殺すことができる。
イシュタルはそれに、目に見えるほど動揺した。
「あ」 雷精が霧散する。 どうして、何故。私はだって、あのこを殺さないと――。 完璧に体勢を直したアーサーが、綺麗に微笑むのが見える。 「ああ、解放軍も最期だな」
暗い明りが、広がった。
アーサーは、何があったかわからなかった。 全身の力が抜き取られたような感覚がする。リザイアのそれに似ているようで、違う。解放軍にこれほどまでの光の操り手がいただろうか?ユリアはもういないのに? 考える時間はさほどなく、酷く眠い。 精霊が皆密やかに黙ってしまった。アーサーを守るものが何もない。イシュタルが驚いた顔。何だ今の明りは。
(そうだ。ユリウスの闇に似ている)
でも欠片も怖さはない。
ずるり、とアーサーは落馬した。その手に握られていた聖なる剣が力なく零れ落ちる。 呆然と雷精の霧散した手を支えているイシュタルが、震えながら振り向く。彼女の直ぐ後ろに、白金の鎧を纏った少年がいた。 常は白馬を駆っているはずだが、今は地上に足をつけている――彼は。リーフの胸元から十字架が零れ落ちる。鎖に絡んで留まったクロスは輝きを保っていた。 「……二度は、使えないな。不意打ちに過ぎる」 リーフはひどく疲労した声で呟いた。
イシュタルは発作的に片手を振り上げて、リーフの頬を打った。少年は避けず、いい音がする。 「おい!」 アレスが止める声がするが、イシュタルにはよくわからない。どうしてリーフを叩いたかも、よくわかっていない――。 「止めてください、ねえさま!」 再度振り仰いだ腕にティニーが縋りついた。従妹の声は涙に滲み、イシュタルに正気を呼び戻している。
リーフは構わず、倒れたアーサーの方へ足を踏み出した。だがその足が止まる。 紅い髪をした少年が、銀色の少年を見下ろしている。 「アーサー、どうしたの」 これがユリウスか。リーフはサラから聞いた闇の系譜を思った。この世界に生きる全ての生きものは、等しく光の祝福を受けた身だ。誰もが闇へと本能的な忌避を抱き、皇子は孤独だった。 「アーサー、寝てるの?」 ユリウスは見た目によらぬ怪力でアーサーを引き上げると、閉じた瞳を覗きこんだ。アーサーからの返答はない。光と闇に、根こそぎ動こうとする気を削がれて、眠りの中からおきることができないのだ。 弱った生命力を確かめるように心臓に耳を寄せたユリウスは、リーフに胡乱げな視線を向けた。
「つまらない。帰る」
ユリウスが闇に溶けて消える。アーサーもまた、闇に溶け込んでいってしまった。
その場には、荒れ果てた森と、数多くの遺体。そして、ティニーの泣き声だけがあった。 「ぶつなら、私をぶってください……」 「……ティニー?」 「リーフ様に、お願いしたのは私なんです」 イシュタルの動きが凍る。 「にいさまを、倒してと。リーフ様に願ったのは、私なんです……」 ティニーの嗚咽にイシュタルは何も言うことができず、呆然とその場に崩れ落ちる。
(リーフ王子の頬を叩いた)
(何かが、ひどく許せなかった)
(アーサーの見せた隙に、私、トールハンマーを向けなかった……)
「ティニーが心配していたのは、兄上ではなく、君だ。イシュタル公女」 リーフの頬は、赤く腫れていた。避けることは容易いことだったのだろうか?彼は、避けるほどの体力も残されていなかったのではないか。イシュタルの目に映るのは、極限まで魔力を使い果たしたリーフの姿であった。 ティニーが泣いている。リーフは従妹の肩をそっと抱くと、恐る恐る狭まってきた兵の群れに対して、伝令を命じた。
カラカラ音を立てている。歯車がかみ合わない。
サイアスはレンスターのテントの中、魔力が起こり、また収束していくのを感じていた。 「背中を押すの?」 ヴェールをなびかせながら横切るサラが、興味なくサイアスに聞く。 サイアスは目を丸くしてサラを見て、それから柔らかく微笑んだ。
(可能な限り、後悔を呼べ)
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