とても大切にした記憶がある
バーハラの庭園で、父と母はいつも悲しそうだったけれど
ティニーがいて、ユリウスがいて、ディアドラ様が笑っていて
ユリアはまだ幼く、あどけなく微笑んでいた

幸せはこわれ、もう一人の俺が引きずりだされる――





その未来に僕はいない






 ペルルークは、えらく賑やかだった。
 それも当然だろう。長く子供狩りの渦中にあり、子供達の笑い声は消え、嘘くさい繁栄を遂げた商業地方。それが解放軍によって帝国から解放され、喜びに溢れているのだ。
 解放された地域が尽く喜びに溢れていることをアーサーは知っていたし、そうなるだろうと解っていた。
 もはや、民のためにとできることは、帝国の支配を終らせることしかないのだ――そんなことはわかっている。

 わかっているが、アーサーはしない。

 重たく被ったフードを直すと、アーサーは路地を進んだ。





「右、左……そう。私を倒そうとするのではなく、私を制することを考えるんだ」
「はい……っ」
 ペルルーク城の中庭で、既に習慣となったリーフとティニーの修練が行われている。とはいっても、既にティニーはリーフに雷を教えることがないから、主にティニーの修練であった。
 ティニーはマンスターでリーフと話してから、剣を学ぶようになった。レンスターの臣下に囲まれてトラキアへの対策を練っていたリーフの元に訪れて、剣の稽古を請うたのであるから案外大物なのかもしれない。
 では雷を教えてくれ、と交換条件を持ち出されたが、どうやら互いの適性には大きく差があったらしかった。
「足元が軽くなってる。一撃が軽いのだから、急所を狙おうとは考えないことだ」
「くっ……」
 二人の稽古の様子を、イシュタルは複雑な顔で見学していた。ティニーが剣を持つということに、まだ納得ができないのである。
 ティニーはしっかりした娘だと思っているけれど、華奢な身体は剣に向いているとは思えなかった。それに、彼女が剣を振るう様子は、どうしたって彼女の兄を思い出させてしまう。
「ティニーは、勘がいいな」
 椅子に腰掛けているイシュタルの横、立っているセティがそう呟く。
「練習用で少し重いものをつかっているから身体が鈍いけれど、意識はリーフ王子のものに直ぐ反応している」
「貴方が剣を語るとは思わなかったわ」
「これでも天馬騎士の母を持っていたからね」
 イシュタルは剣はわからなかったが、ティニーのそれが着実に成長していることだけはわかった。そして、彼女はそれが憂鬱だったのだ。

「本当に成長したな、ティニー。戦士の称号を戴くのも直ぐかな」
「……本当ですか?」
 剣を休めずリーフがそういうのに、ティニーの表情が明るくなった。
「ああ、杖はとうに使いこなせるし……稽古が終って着替えたら、街にでようか。デートしよう」
「えっ」
 ティニーの白い肌が赤くなり、目に見えて動揺した。途端剣先が疎かになって、容易く剣を飛ばされてしまう。
「油断大敵」
「ず、ずるいですリーフ様!」
 剣を飛ばされてしまうと、途端疲れが出たらしい。へなへなと座り込んでしまう。顔と同じように真っ赤になった手をとって、リーフはにこやかに笑った。
「疲れただろうから、嫌?」
「い、嫌じゃないです!行きたいです!」
 あ、とティニーはまたもや真っ赤になった。リーフはそれをからかうことなく、素直に笑う。
「ああ。では私も着替えてくるから……迎えに行こうか?」
「あの、部屋の外で待たせてしまうといけませんから、庭で待っていていただけますか?」
「いいよ。わかった」
 リーフが笑ってティニーを立たせると、彼女は嬉しそうに笑った。
「では、私着替えてきます!」
 足取り軽やかに練習用の剣を片付けて、ティニーがいなくなる。なんだか疲れてないみたいだな、と首を傾げるくらいには、リーフは女心がわかっていないようである。

 イシュタルとセティに挨拶してリーフが立ち去るのを見送って、イシュタルは立ち上がった。
「リーフ王子を慕っているようなのを見て、少し心配だったけれど……」
「上手くいってるようじゃないか」
「ええ。リーフ王子は、良い方だわ……」

 とても、可愛らしい姿だった。ティニーもリーフも。
 恋というものはこのようにあたたかく、やわらかいものなのだ、と告げるように、二人の間にはふわふわとしたものが通っている。
 あなたがすきです、といった思いを、それはそれは大切にしながら溢れる度に互いに渡しているのだ。
 それは、イシュタルにはとても眩しい。

「私達も街に出ようか。露店見学なんて、貴女はそんなにできなかっただろう?」
「そうね、楽しいのではないかしら」
 セティの表情が華やいで、それでは、と言葉を続ける。
「楽しんでらして。それでは」
 すたすたと立ち去るイシュタル。セティは酷く、落ち込んだ顔になる。





「どうしよう……」
 ラナとはぐれた。
 賑やかな周囲に取り残されているような気分で、ユリアは困ったようにする。
 周りの人々は、とても楽しそうだ。
 楽しくしている様子は、良いことのはず。だが、ユリアはけして心から喜ぶことの出来ない自分を知っていた。
 周りが楽しげであればあるほど、自分ひとりだけが地に足のついていない思いがする。
 彼女には記憶がない。
 確固たる拠り所を持たない彼女は、いつもどこか不安げで、自分の立ち場所はここでよいのだろうか、と不安に苛まれるのだ。
 それを唯一忘れさせてくれた人は、ここにはいないのに。
 ぎゅう、と胸を掴まれるような苦しさに、ユリアは大通りから離れた。中央に立ち尽くすのは、心を痛める。
 目の前がぼうとして見えなく、彷徨うように手を伸ばした。壁を見つければ、少し落ち着くだろう。
「わっ」
「あ、ごめんなさ――」

 だが、視界はクリアに映った。同時に喧騒が遠ざかる。
 ユリアがぶつかった相手は、反動で落ちたフードを押さえていた。長い銀髪が、中から零れ落ちる。
 視線が、あった。
 シレジアで出逢った、彼女の最初の友達。そして、敵将である男。
 アーサーとユリアの何度目かの再会は、戦場とは離れた場所で起こった。



 アーサーはユリアの手をとって、さっと路地裏に入った。手をひかれるままに、ユリアの足が動く。
 彼にこうして手を引かれることが、まるで当然であるような錯覚が起きる。だが、実際にはそんなわけはない。他でもない、アーサーが言ったことだ。レヴィンが連れて行く先が、ユリアの運命なのだというのは。
「どうして、一人でほっつき歩いてるんだ」
 人通りが少なくなったところで、アーサーが足を止めた。片手でフードを直しながら、紅い瞳はユリアを見ている。
 いつも、何かに怒っているひとなのだ。
(いつも、というほど出会っていたかしら)
 ユリアの脳裏を通り過ぎた疑問は瞬く間に消えてしまう。
「友達と、はぐれて……」
「ちゃんと、前を見て歩け!」
 叱られてユリアは小さくなる。そっと見上げて、アーサーの機嫌を伺うような仕草をとった。アーサーは全く、と言葉を続けようとして。
(ぎくりとした)
(思い出しているのか?)
「……アーサー、怒っているの?」
「……別に。心配しただけだ」
「そうなの?」
 ユリアはほうと笑った。
(ああ、くそ)
 妹達に、弱い自分を自覚している。殊更ユリアには――。
「シレジア以来、ね」
「ああ」
「私、レヴィン様に言われて、解放軍にいるわ」
「知ってる」
「……アーサーは、解放軍の敵なのね……」
「そうだ」
(ユリアは思い出していない)
 封印は強固で、彼女の身を守り続けている。
 それに安堵する自分がいて、滑稽に思う。自分は解放軍の敵なのだ。今ここで彼女を屠ってしまえば、ユリウスに手出しのできるものはこの世からいなくなってしまうのに。
 ブルームの声が耳元を掠めた。
(ユリウス殿下も裏切っているのではないか)
 俺は、裏切ってなんかいない、と思った。

「アーサー」
 ユリアの、すこし赤い灰色の目がアーサーを映している。守ると誓った、妹の一人。シレジアで出逢った時が、彼女にとってはアーサーの始めの記憶なはずだ。
「アーサーは、私の敵なの?」
 ごくん、と喉がなる音がした。遠くでなっているもののように、アーサーは思う。
 片手を伸ばして、ユリアの額に触れた。柔らかい髪を、僅かに撫でる。設えられたサークレット。此の下に、輝かしい敵対の証が隠れている――。
「……お前の敵だ」
 ユリアの眦に、涙が浮かんだ。それをアーサーは、どうしてやることもできない。
「それでも、私は」
 だが、ユリアは雫を零すことはしなかった。濡れた瞳が、じっとアーサーを見つめる。

「私は、あなたの敵じゃない」

 どうして、女というものはこんなに強いんだろう。



 ユリアはすこし視線を下にして、ぽうと頬を赤くする。つられて視線を下へとやったら、引っ張ってきた手が、未だユリアの手をとったままだった。なんとも恥ずかしい気分になって、アーサーの顔も赤くなる。
 けれどもけして、そのまま外すことはしなかった。
 一方的に握っていた手のひらだけ開いて、二人手を繋いで、裏通りの露店を歩く。

 こうした場所は、掘り出しものがあるものだ。
 得意げにいうアーサーに、一々ユリアは感心しながら隣を歩いた。かと思えば露店の中の売り物に瞳を輝かせて、これは何かと声を弾ませる。
 華奢な男女は、大概好意的に迎えられた。彼らの間に漂っていたものが、酷く貴重な感情の通いであったのもあっただろう。他愛もない店の冷やかしは、二人にとって代えようもない時間だった。

「この石、綺麗ね」
「細工はちょっと、大袈裟じゃないか?」
「確かに、つけ歩くには大きいかもしれないけど……」
 駄目出しを食らわされ、ユリアが唇を尖らせる。
「まあ、お前には似合う色だよな」
「アーサーにも似合うわ」
 二人構成する色合いが似ている訳だから当然だ。店の主人はそう思ったが、若い二人にとっては重要なことらしい。微笑ましいと思いながら、商売心は忘れない。
「この石がお好きでしたら、こちらに違うこしらえで、同じ石があるんですよ」
「へえ、じゃあ見せてくれないか?」
「あ……」
「ほら、対になってるんですよ」
 見せられたのは細いバングルで、繊細な飾りに一つだけ青い石がついている。
「それはあれか。揃いになってるんですよーって両方売り込もうって腹だな」
「旦那には参るなー」
 たはは、と頭をかく商人に呆れながら、ユリアを振り返ると、案の定期待に輝いてしまっている。
「あのね、アーサー」
「うん?」
「私、ずっと、アーサーがいつもつけてるみたいに、そろいになっているのって憧れだったの……」

 愛らしく微笑むのに絆されてしまう前に、心の中をつめたいものが流れる。
 言ったユリアも己の発言が不思議だったらしく、いぶかしんで首を傾げた。
「性質悪いなあ」
 ユリアの疑念が口に出るより前に、アーサーが冗談ぽく混ぜ込んだ。懐から財布を取り出して、手早く会計を済ましてしまう。
「毎度」
「姦計にのってやるよ」
 ほら、ユリア。
 繋いでいた手を離され、寂しげにしたユリアはぱっと片手を差し出した。華奢な左手首に、細い銀の装飾が嵌められる。
「貸してちょうだい」
 アーサーが持っていたもう一つを取って、ユリアはアーサーの左手を持ち上げた。苦笑するアーサーに構わず、止め具を合わせてしまう。
 そこで顔をあげて、ふわりと嬉しげに微笑んだ。
「おそろい、ね」

 好きな子の笑顔ってのは、本当に性質が悪いと思う。アーサーは泣きそうな気分でそう思った。



 大通りに出る前に、そっとアーサーはユリアの手を離した。
 はっとしてユリアは振り仰ぐが、アーサーは綺麗に微笑んでいる。
 だからユリアも、歪みかけた笑顔を見せた。

「それじゃあ」
「また、ね」

 振り切るように大通りに歩くユリアは、本当に強いと思った。





 路地裏を黙々と歩いていたアーサーは、背筋を攫う感覚に襲われてはっと振り返る。
「こんにちは、アーサー卿」
「大司教?なんで、こんなところに……」
「おやおや、わかっておいででしょうに」
 そういわれても、見当などつかない。眉を顰めるアーサーに、マンフロイは意味ありげに笑う。

「貴方が、ユリア皇女を見つけてくださったのでしょう!?」

 アーサーの体温が、ざあ、と下がった。
 マンフロイ、と呼ぶ前にその姿が闇に溶ける。
 留めようとして伸ばした手は空を切る。

 監視されていた。そんなのは解っていたはずなのに、何をしていても放っておかれていたものだから、油断していた!ユリアのことだけは、けして放っておくなんて、考えられなかったのだ!
 別れた場所まで駆け戻って見渡すが、どこにも彼女らしき姿がない。
 ユリアは光だ。
 精霊の加護を受けるアーサーには、場所が掴めない。
「どこだ、ユリア!」
 視線を集めてしまうのを承知で、アーサーは走り出した。





「どうですか?」
「うん。可愛いよ」
 飽きることなく繰り返されている様子に店主は内心で溜息をついた。大抵彼氏はうんざりくるのが常だが、男のほうは、心から感想を言っているらしい。感心するばかりだ。
 それをまた繰り返して、結局最初に目に止めたブレスレットを購入して、リーフとティニーは街を歩く。
 露店などで出ているものは髄を極めたものではないものの、きらびやかに並んで目を楽しませた。

 リーフがふと顔をあげ、ティニーの顔色がさっと変わったのは、丁度城への帰り道へと入ったばかりのころだ。
「この声は――」
 辺りを見渡すティニーに、同じく視線を巡らせたリーフがあれだ、と示唆する。
「……にいさま」
 凍りついたティニーに一歩遅れて、アーサーがティニーを見た。
 兄妹の間の空間は凍りつき、どちらともなく、汗が流れる。

「……ユリアを、見なかったか」
「ユリア、ですか?」
「そうだ。早くしないと取り返しが――」
「ユリア皇女のことか?」
 リーフの指摘にアーサーの顔色が一層悪くなる。ティニーが驚きの声をあげる口を咄嗟に塞いだ。
「……そうだ。マンフロイ大司教が、ペルルークに来ている」
 リーフとティニーの脳裏には、幾つもの情報と、状況とが駆け巡った。二人とも帝王学の教育を受けている。ユリアとユリア皇女がイコールで結ばれたことから瞬く間にロプト大司教につなぎ、最悪の事情まではじき出した。
「封印されてなければ別だけど、そうじゃなければ俺では場所が掴めない」
 リーフは目立たぬよう街灯の影に入ると、腰にさした光の剣を抜き払った。集中するように刀身へと視線を捧げ、意識をこらす。
「――こっちだ。光の力を感じる」
 先導するリーフについて、アーサーは走った。ラナという友達とは合流しただろうか。もう城に戻ってはいないか?レヴィン様のところにいけば平気だろう。マンフロイが、手を届かせる前に。





 だがいつだって、運命の女神は悲劇を好むものなのだ。





「感謝しますよ、アーサー殿」
 マンフロイが笑って、ユリアの頤にしわくちゃの指を絡める。ユリアは頭痛に苛まれながら、アーサーを瞳に映した。それは先ほどまでの柔らかくも哀しいものではなく、懐かしさを乗せている――。
「お前がマンフロイ……!?」
 光の剣を構えたリーフが、躊躇いなく走りよる。
「リーフ様!」
「駄目だ危険だ、マンフロイは――」
 アーサーは言葉を切った。制止の言葉よりも、精霊を呼ぶ声を。

(ユリア!)

 彼女の唇が、かすかに動いたのを見た。





「にいさまは、戻るのですか?」
 黙って去ろうとしたアーサーを、ティニーが止めた。ぼろぼろと涙を零す妹に、最後まで抗うことはできなかった。
 杖を出して癒しを施す妹の前で、アーサーは頷く。
「にいさまは、ユリアが、ナーガの使い手が攫われるのを、止めようとしたのに?」
 頷く、アーサー。
「戻って、ユリアを救出するおつもりで?」
 アーサーはぴたりと動作を止めたが、やがてゆっくりと首を振る。
「……にいさま!」

 理解できない、と言いたげにティニーは泣いた。
 アーサーはティニーの涙に弱い。けれど、これだけはどうしても譲つもりはなかった。
「……マンフロイ大司教の目的は、ユリウス皇子をよりしろに、ロプトゥスを降ろすつもりだと知っているのか」
「……」
 アーサーは、頷いた。リーフが知っていることこそ不思議だったが、レヴィンは既に公表していたんだろうか?
「ユリウスが変わってしまった後、シレジア王から聞いてる。もうあれは俺の親友じゃないから、聖戦士としての業を、全うせよ、と」
 リーフは罵ることはせず、もう一つ聞いた。
「それでも、決めてしまっているのか。君は?」
「ああ」
 ティニーが杖を取り落とし、ぽろぽろと泣いた。リーフは彼女をそっと引寄せると、慰めるように頭を撫でる。

「イシュタルは、もう、決めていたか?」
 アーサーは立ち上がり、右手に嵌められたリターンの指輪を軽くかんだ。ティニーが涙に濡れた瞳をあげる一方で、リーフが首を振る。
「迷っていることに、彼女は気づいていないだろう」
「そうか」

 アーサーは綺麗に笑った。
「それじゃあ、次に出会う戦場が、解放軍の最期だ」





「リーフ様、にいさまが、……にいさまが」
「ティニー、彼はもう、決めてしまったんだ。家族も、好きな人も、運命も。全ての代わりに、ユリウスを選んでしまっている」
 ティニーが泣き顔を覆う。あやす様に彼女の髪を撫でながら、リーフは言葉を続けた。
「そして、決めてしまった人間は、とても強い」





 彼の未来に彼女がいないように、彼女が生きる未来には、俺は居ないだろう。
 何が起きているかも知らずにいるだろう、彼の妹の一人。自分とよく似て、似ていない運命の片割れ。
 イシュタルを思って、アーサーはバーハラに帰る。



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(06/02/21)