イシュタルがマンスターにやってきた際、既にリーフはマンスターに入っていた
サイアス司祭とも、合流は果たしたらしい
今はマンスター城の地下に隠されていたという地下神殿へと乗り込んでいる
マンスターを保持していたのはマギ団で、リーフが地下へと潜っている間、トラキアへの警戒を勤めていた

「イシュタル王女……お戻りになられたのか」
ワープによって現われ出でたイシュタルの姿に、マンスターが沸いた
彼女は忌むべき支配者ではあったが、優秀な執政者でもあったからだ
「解放軍へ参画なさったとか」
「ええ。セティ殿はどこにいらっしゃるの?直トラキアが動くでしょうから、リーフ王子への正式な書類の譲渡は、防衛を果たしてからになります」
「セティ様は、城壁の上にいらっしゃいます。トラキアが来るとすれば空からですから」
「案内して」
「はい」

イシュタルはマンスターの城を振り返った
そこにはゲイボルクを象徴とする、レンスターの旗が舞っている





棺は捨ててしまった






 ふわり、と風に魔力が乗って、セティはふと警戒を張り巡らせていた意識を戻した。
「イシュタル王女」
 呼びかけて振り返ると、そこには一人の麗人が立っていた。
 銀紫の髪が風にのり、薄いヴェールのようにイシュタルを囲む。銀色の瞳は強い風に一瞬見えなくなったかと思うと輝きを取り戻した。
 ほっそりと佇む様子は、何ヶ月か前に目にしたままのように思える。
 だが、彼女の立場は大きく変わってしまっていた。セティが彼女と話をするのに、緊張を覚える必要はないはずである。
「久しぶりね、勇者セティ」
 イシュタルは少し微笑むと、セティの方へ足を踏み出した。
「もう、直に王女ではなくなるわ」
「ではイシュタル公女とお呼びした方がいいだろうか?」
「貴方の好きになさって」
 イシュタルはセティの隣に並ぶと、外壁の上から南を眺めた。風に踊る髪が、目の前で過ぎていく。
「ここは、風が強いわね」
 南トラキアへと視線を逸らさずに、イシュタルは呟いた。
「そこが気に入っているんだ」
 セティは風の申し子だ。やはり風精の豊かな場を好むのだろう。嵐の日に、どこか落ち着かなく、不安を抱くイシュタルとは違って。

「竜騎士を迎え撃つ場で不謹慎かもしれないが」
 同じ南を見つめていたと思ったら、セティがふと呟いた。
「貴女と、同じ景色を見て、戦っていけることが嬉しい」
 そこには明け透けな好意の色が滲んでいた。耳を疑ってイシュタルがセティを見ると、青年は真摯な顔つきで彼女を見つめていた。視線を合わせているのが、何故か怖ろしく。イシュタルは南へと視線を逸らした。
「マンスターの解放が成った後は、どうなさるの?」
「セリス公子と行動を共にさせていただこうと思っている。それを、風も望んでいるのだろう。ミレトスに入り、グランベルへ……」
「そして、皇帝の場へ……ね」
 セティはイシュタルの横顔をじっと見つめていた。彼女自身は、その時の自分の顔がどんなものであったかなんて気がついていなかっただろう。

 だから、これは、試すようで意地が悪い――。



「貴女は、とても愛しそうに皇帝を呼ぶね」



 イシュタルは一瞬当惑したような瞳をした。
 そして「何を馬鹿なことを」と微笑んだ。





 予想は哀しくも的中し、帝国より解放されたマンスターへ多くの竜が飛来した。
 空中より来る兵に対し、城壁は意味をなさない。また、矢も使い果たしたマンスターでは迎撃すら不可能だった。イシュタルとセティはマンスターから市民を避難させると、二人城壁の上に並ぶ。
「前方のトラキアより、懐の中の方が気になるわ」
「ベルドはマンフロイ大司教の懐刀だというから。……それに、私と貴女がいれば、トラキアの騎士など物の数にもならないという自信では?」
「随分と自信家なのね?」
「私一人では骨であっただろうけれど、今は貴女がいるからね」
「どうかしら……」
 飛来する竜騎士。傍らのセティへ風に音を乗せることを頼んでから、イシュタルはその身の魔力を解放する。

「トラキアの竜騎士等よ!既にマンスターは帝国より解放され、市民等の自治下にある!それを害するのであれば、汝らに神の雷が落とされよう!」
 晴れていた空には、いつの間にか雷雲が集まり始めていた。










 ティニーがマンスターに着いた時には、既に物事は進んでしまっていた。
 トラキアはやはり動いてしまっていたし、イシュタルは勇者セティと共にそれを迎え撃ったという。その銀色の髪のために好奇の視線を向けられながら、ティニーはマンスター城へ足を急がせていた。
「ティニー」
 その途中、公女としてではなくただ名を呼ばれてティニーは足を止めた。声の主は金髪をした騎士で、ティニーには見覚えがない。だが、不思議と気が向く空気の持ち主である。
「名乗ることは初めてだったかな。俺は直ぐにレンスターへの救援に回されたから……はじめまして、ティルナノグのデルムッドだ」
 ああ、とティニーは悟る。ティルナノグ、と名乗るものはそのままセリスの幼馴染だ、という自己紹介であった。王子も公子もなく育った彼らは、誰かを呼ぶのに尊称をつけずはばからない。
「イシュタルを探しているのかい?」
「ええ。ねえさまは先にマンスターにいらしたはずなのですが」
 ティニーの青い瞳が憂いにけぶる様子を見て、デルムッドは少し微笑んだ。
「彼女は既に、リーフ王子と面会を願い出ていたと思うよ」
「……そうですか。ならば、私も行かなければなりません」
 硬質な顔で決意を固めるティニーに、デルムッドは励ますように言った。
「リーフ王子は、軍の中身を見てもわかるけれど、敵であったものを受け入れるのには寛容な人だよ。誠意で向かえば、問題はないさ」
 はい、とティニーは少しだけ笑ってまた足を動かし始めた。





「謝罪?」

 マンスターの、アルスターの、コノートの。ブルームやセリスから預かっていた数々の書類とに、イシュタルはフリージのイシュタルとしてサインを残した。
 北トラキアの王族は、既にリーフとアルスターのミランダを残して他にいない。重臣達のわざとらしい囁きによれば、彼と彼女が婚姻を結び、北トラキアがリーフの元に統合するというらしい。
 書類を何度も読み下し、時折傍らの偏屈そうな司祭に意見を求める少年。
 大地の色をした髪に、きらきら燃える柘榴色の瞳。やや小柄な身体を白金の鎧に包んだ王子はイシュタルの言葉に問い直した。
「イシュタル公女は優秀な統治者であったと聞いてる。子供狩りも促進させなかったし、そしてブルームをその身をかけて説得なさった方だと」
 ね、と傍らのアウグストに向かって笑うので、アウグストは不本意そうに咳をした。その風評は故人であるドリアスが吹き込んだものであり、アウグストは彼女をロプトの手先だと酷評したのであった。
「リーフ王子のご配慮痛み入りますが、北トラキアを圧政の下に置いてしまったのは揺るがしがたい事実。私はフリージの当主として、王子に謝罪せねばなりません」
「盟主としての責任は、わからないではない。……わかった、貴女の謝罪を受け取ろう。そして、争いあった過去ではなく、これからのために手を取り合うことを願う。共にセリスを助け、この大陸から暗雲を払おう」
「ええ。ロプト帝国の、再来を許してはならないのだから……」

 イシュタルはそこで、視線を伏せた。リーフのいぶかしむ視線を受けて、一つ、問いを、と続ける。
「セティ殿から、リーフ王子は数々の魔道を修められているとお聞きした」
「セティ王子や、貴女に言われてしまうと、恥ずかしいばかりだが?」
「……私は継承者ゆえ、雷以外を知らない。三種の精霊を操り、また剣まで修めるというのは、どのような気分でしょう?」
 リーフは腰掛けた椅子に深く背を預けると、イシュタルの真意を覗き見る。沈痛に表情を翳らせた娘は、何か悪い思い出を探り出しているようにも見える。
「私はまだ未熟だが、……」

「そこには、強い意志があるのではないだろうか。何と引き換えにしてもやり遂げたいという、強い意志が」

 イシュタルの顔色は、暗く翳った。辞去を申し出る彼女に、リーフは付け加える。
「我が軍に加わっていたフリージの騎士たちを一室に呼んでいる。貴女にお返ししたいと思うのだが。……ナンナ、公女を案内してくれないか」
 リーフの背後に控えていた少女が、短く承諾の意を返す。ナンナは未だ室内に残るティニーに視線をちらりと送ったが、特に何かいうわけではなくイシュタルを連れて出て行った。
「ではリーフ様、わたくしも少々失礼致します」
「アウグストも少し休んでくれればいいのに」
「我々は、行軍の合間こそが仕事の場ですので」
 礼をとって彼が立ち去ったので、部屋の中はリーフとティニーだけになった。手元に書類を持ちながらも、リーフの視線は書類には向けられていない。
 直ぐにティニーが立ち去ると思っていて、それまでは書類に視線を送ることはなしに、と思っているのだろう。

 だが、ティニーはその場を辞さなかった。
 リーフが彼女に視線をやっても、何か問いたいのだが上手く言葉にならない、と言ったように黙っている。ティニーの青色の瞳を視界に収めて、ふとリーフは呟いた。
「彼女は、随分と感傷的だね」
 ティニーはえ?と聞き返しそうになった。
「……ねえさまは、それほど感情的というわけではありませんが……」
「いや、感情的なのではなく、感傷だ。私こそ感情的と責められたならば言い訳ができない」
 そういってリーフが表情を綻ばせると、ティニーはつられたように笑った。
「雷神という名を聞いていたけれど、とてもそんな風には見えないな」
「はい……ねえさまは本当はとても優しい方なんです。世間で恐れられているような方じゃない」
 ティニーが憂いを込めて目を伏せる。
「それもあるが、このままグランベルに入るなら、イシュタル公女は前線に出さない方がいいな」
 イシュタルはトールハンマーの継承者だ。グランベルに入れば戦いは一層激化し、辛いものとなるのが予想されている。その中で神器の継承者は特に力を発揮することを求められていたし、イシュタルもまた、その義務を自覚している。
 それが解らないわけではあるまいに、リーフがそんなことをいう理由をティニーは計りかねた。
「何故ですか?」
「イシュタル公女はバーハラ育ちだ。知り合いも増えてくるんだろう」
 ティニーはその言葉にかっとくるものを感じた。
 イシュタルは、ユリウスを目の前にして彼を拒絶したのに。そんなイシュタルが、まさか裏切るかもしれないと懸念されているなんて!

「ねえさまの覚悟はそんなものでは」
「彼女に、彼らを手にかける覚悟ができていると、本当に君は思っているのか?」
 だが、反論しようとしたティニーはぴたり、とその言葉を留めることになった。
 言葉を吐き出せないまま喉だけが動き、反論が見当たらない。

 そうだ。

 ティニーだって、イシュタルが本当に彼らを殺せるなんて思わない。

「イシュタル公女は、とても感傷的な女性に見えた。そういう人は、戦争の中でも生死に恣意を持ち込むものだ」
 例えば迫害を受ける敵兵を助けてしまったり、無体を続ける味方兵を殺してしまったり。
「解放軍にどうしても守りたいものがあるうちは、彼女は躊躇わないだろうが。どちらにもそれがなかったなら、どっちつかずになりかねない」
 そしてそれは、戦場では致命的な環境を生み出す。

「……リーフ様は、フリージの兵の多くを、殺めなかったと聞いています。その貴方が、それではいけない、と言うのですか?」
 リーフは少し、驚いたようだった。
 だがきょとん、と丸くした目を苦笑に変えると遠くを見るような目つきになる。

「戦争は、個人を飲み込んでしまう。平和な世界では互いに分かり合えたかもしれない人々を、容易に殺し合いに引き込んでいく。……だから、相手を理解しようと思い、敵を敵のままにしないのに、私は賛同する」
 だが、と続けるリーフ。
「殺さないのと、殺せないのでは格段に違う」

「彼女は、殺さないでいるために、必要な力を持っている。だが心が殺せないままならば、その力も、意味をなさないよ」





 ティニーは、泣きそうな顔でリーフを見つめた。
 それは、彼女がずっと、知っていながら見ぬ振りをしていたことだったのだ。










「イシュタル殿」
 聞きなれた声にイシュタルが視線を向けると、そこには赤い髪の司祭がいた。セティからの手紙でわかってはいたが、こうして遭遇すると、不思議な気分がする。
 バーハラでも、こうして穏やかに名を呼んだ人だ。
「サイアス卿、子供達を助けてくださって、ありがとうございます」
「私の力で出来ることをしただけですよ。イシュタル殿が教会に子供達を匿っていたおかげでもあるのですから」
 教会、という響きにさっとイシュタルの瞳に翳が差した。
「私は、それしかできなかったのです。もっと、あの子達にしてあげられることがあったはずなのに」
 救われた子供達もいたが、ベルクローゼンに攫われた者も、また多かった。
 リーフから聞いた保護した子供の数に、目の前が暗くなる思いがした。
 もっと早く決断していたら。そうでなくとも、子供狩りを声高に止めていたら。マンスターを離れなければ……。
 後悔は数多く、また取り返しはつかない。
「貴女のせいではありません。皇帝からの命令では、抗うことは叶わなかったでしょう」
「……皇帝、からの?」
「命令は、ヴェルトマーの印章が捺されていたそうです」
 ユリウスだったらバーハラのものを。アーサーだったら、ユリウスの代印を使う。ヴェルトマーの印章は、皇帝の印章と同義語であった。
「……陛下が、マンスターにベルクローゼンを」
 イシュタルの呟きに、サイアスは何も相槌を打たない。だが、彼女にとってそれは必要なものではなかった。

 こどもがりは、すきではない。

 そう、いったくせに。

「許せない……!」
 サイアスは黙ってイシュタルの背中を小さく撫でた。
 その表情は穏やかで、心中はようとして知れない。

 神へ永久の祈りを捧げるための、棺は既に捨ててしまっている。










 解放軍は否応なくトラキアへ踏み入ることとなり、その中でイシュタルは数多くの竜と、人とを落とした。
 だが、彼女にとっての辛い戦いとは、その先に待っているのである。

 解放軍、ミレトス地方へと進軍。
 グラン暦777年の戦争は、冬へと入ろうとしていた。



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(06/02/20)