世界が暗闇に沈む感覚と共にその少年は現れた 幼少の時のそれとは雲泥の差の、闇 ティニーは唇を戦慄かせ、凍りついたように魅入られた
ひたり、と冷たい体温を肩にのせられて、アーサーはぶるりと頭を振った。もうアレスには興味がないように、聖なる剣を収める。 「何しにきたんだ、ユリウス」 「余は遊び相手がいないのに、お前たちは遊んでいてずるいじゃないか」 くすくす、と耳元をくすぐる声にアーサーは溜息をつく。 「俺は真面目にやってるぜ。ほらどけよ、ゲームは終わりだ」 ええ?と不満げにしてユリウスはアーサーから離れ、馬上から軽やかに飛び降りた。くるくると嘲るように踊ると、唐突にアレスを覗き込んだ。呆気にとられていたアレスが、ぎくりと息を飲む。 「ほら、お前の神器だ。落としてはいけないじゃないか」 いつのまに、その手にはミストルティンが無造作に握られている。アレスはぎょっとしてユリウスから魔剣を取り返した。 「あはははは!」
それは、奇妙な光景だった。
グランベル帝国に攻め込み、躍進を続ける解放軍。今、彼らは一人の少年によって壊滅に憂き目にあいながら、その真ん中で帝国皇子が笑って踊っている。 仕草は淑やかで貴く、手を揺らすたびに高貴な香りが見て取れた。華奢な、二十歳にも満たない少年。 だが兵士達は次々と膝をつき、怖れ、敬うようにはいつくばってゆく。 イザークの双子や、アレスにはわからなかっただろうが、その場にいたティニーは胸をざわつかせる闇の気配にがくがくと怯えている。 辺りの精霊は鳴りをひそめ、漂うは闇の気配ばかりだ。 アーサーはユリウスを嗜めることを諦めたように肩を竦める。 と、皇子は足を止めてふわりとティニーに近づいた。いや、近づいたのは、ティニーへではなく……。
「かわいそうに、イシュタル」 ユリウスはまろやかに微笑んだ。それはぞっとする程優しげな笑みであった。 「辛そうだ。アーサーも、もっと手加減をしてやればよかったのに」 「……加減ができる相手かよ」 微かな土を擦る音。ティニーはイシュタルを抱きしめたまま無様に後ずさった。 それにを、気にせずまた一歩。 「連れて、行かないで……」 アーサーが、後方で唇を噛んだ。外套の中に手を入れる。それを視認したラクチェがティニーとユリウスの間に立ち入った。スカサハはじりじりと、アーサーの動向を警戒している。 訝しげに、首を傾げるユリウス。 「ねえさまを、連れて行かないでください……」 顔面を蒼白にして、ティニーはイシュタルを抱きしめる腕を強めた。腕の中で美しい従姉が、小さく名を呼ぶ。 ユリウスは笑うと、構わずイシュタルに指先を伸ばした。毒の込められているような、瘴気を纏った手だ。 「二人から離れて」 ラクチェが剣を滑らせようとするが、それより前に、がくん、と足先から力が抜ける。凍えて感覚の途切れていく身体を、満足に動かせない。 「ラクチェ!」 アレスが舌打ちをして馬上を降りた。駆け寄ろうとするが、突き刺すような殺気を測りかねてじりじりと間合いを取る。
ユリウスはその様子にくすくすと笑うと、ティニーの腕の中のイシュタルに、ぺたりと触れた。 「……っ!」 炎に傷められた肌が、瘴気に悲鳴をあげる。短く息をつくイシュタルの様子を微笑んで見ながら、ユリウスは頬をそっと撫ぜた。炎による傷が失せ、清められていく。 「綺麗な肌だったのに、どうしたの。火傷の痕が残ってる」 「伯父上の炎だろ。イシュタルの防壁を破れるやつなんて、そういないんだし」 「ああ。イシュタルは父上が憎いのだものね。大丈夫、君が殺しに来るまで、残しておいてあげるからね」 ぎゅ、っとユリウスを拒むようにイシュタルが離れた。実際には彼女はそれだけの力は残されておらず、ティニーが後ずさったためである。ユリウスの柳眉が歪むが、子供をみるように困った顔を見せた。 「帰るぞ、イシュタル。お前に自由を許しすぎたようだ」 「嫌です……ねえさまを連れて、いかせません……!」 ユリウスはただ、イシュタルに触れていた手をふと中空にあげた。そのまま無造作にティニーの首元へと手を伸ばす。呆然とそれを見送るティニーを他所に、アーサーが声を荒げようとする。
だが、その手はティニーに届く前に止められた。 白く細やかな手が、ユリウスの手首を押し留めている。
「ゆり、うす、さま」
ユリウスはさっと優しく微笑むと、イシュタル、と呼んだ。 銀色の瞳が、うっすらと開かれている。雷神と呼ばれる少女はそっとユリウスのてのひらを押し抱くと、
とん、と遠ざけた。
「もうしわけ、ありません。わたし、は……わがままを、お許しください……」 ユリウスは、感情の抜け落ちたような顔で、じっと遠ざけられたてのひらを見つめた。 そう、と呟くと立ち上がり、アーサーの方に歩いていく。 「ユリウス」 「バーハラに帰るぞ。こんな弱い軍では、ゲームは面白くない」
ねえ兄上?
ユリウスの視界の先で、歩み寄ってきたセリスの表情は硬く強張っていた。
「……気がついた?」 イシュタルの意識が戻ったとき、まず聞こえたのはラナの声だった。 それがイードを思い出させて、時間間隔が軽い混乱を見せる。傍らでは泣きつかれた様子の従妹が眠っていて、ラナが小さく微笑む。 「もう大丈夫よ」 彼女が部屋の外に呼びかけると、まずパティが金色の髪をした少年を連れて入ってきた。 「調子はどう?ラナは問題ないって言ってたけど、意識なかったのよ。あ、こっちはあたしのお兄ちゃん。よりにもよって、ブルームに雇われてセリス様殺しに来たの。やんなっちゃうわよね」 勢い良く喋りだしたパティがゴン、とファバルの頭を叩いた。じゃれあいにしてはいい音がしたが、ファバルは仕方がない、と言ったようにそれに甘んじている。 「パティ……それで、わざわざ来てくれたの?」 「だって友達が倒れたら心配じゃない。もう、あんま無理しないでよね。あとおなかすいてない?パティちゃん特製スープの用意があるわよん」 「……友達?」 「そうよ?」 「……ええ。いただくわ」 イシュタルは瞳を細めると、ほうっと笑った。 よしよし、とパティが笑顔になって食事を取りにと飛び出していく。 「外には、他にも見舞いの人がいるけれど、女の子の寝てるところに男性を続々通すわけにも、ね」 さっさと用事を済ませない、と言いたげにラナがファバルを見る。 ファバルはしばらくイシュタルの顔をじっと見ていたが、それに頷いて話を切り出した。
「ブルーム王が、アルスターに出向いている。フリージの家臣達への正当な待遇と、グランベルからの保護を代償とした北トラキアの全面的明け渡しを申し出にきたんだ」
イシュタルは目を瞠った。言葉が一瞬意味とはならず、再度の明言を求めたい気分である。 「第一条件は、イシュタル王女、お前にトールハンマーを継承させること。もう交渉はセリス公子と取り交わされた。リーフ王子の方にも連絡がいったらしい……ブルーム王は、グランベルよりお前を選んだんだよ。」 父上。 イシュタルの唇がそう動き、それを待つかのように、隣室の扉がきい、と開いた。ファバルとラナが、視線を合わせて部屋を出る。 扉の方へと視線を向けると、あいもかわらず、しかめつらしかできない父、ブルームが立っている。彼女がバーハラにいるばかりで、会うことも稀であった父だ。それは幼いころのシレジアから同じで、どうして父はいつも傍にいてくれないのかと、幼いイシュタルは思ってたというのに。 今では、彼女が父を置き去りにしていたのだ。 「父上……申し訳ありません、私は……!」 「よい」 ブルームは歩み寄り、横たわったままのイシュタルを、そっと撫でた。 「思えば、満足に我侭もきいてやらなかったのだ。……ヒルダの娘なのだから、あれのように、もっとわしを困らせてもよかったのだぞ」 「母上は、父上がいらっしゃると、いつもの母上ではなくて、少女のようでした」 「そうだな。ヒルダは、わしを愛していたからな」 「父上は……?」 「わしも、ヒルダを愛している」 それが過去形で言われなかったことが、ひどくイシュタルは嬉しいと思った。
神器を手放すことは、己の半身を失くすかのような思いになる。 馬上でブルームは、感傷にかられた。だがこれからは己の半身が娘を守り、娘と共に生きていくのだ。今までずっと、フリージによって継がれてきたように。 「ブルーム様、我々はこれから一体どうなるのでしょう」 ヴァンパが聞く。最低条件として城の明渡しはしなければならない。また、政権が代わるまではグランベルに帰還することもままならないのであるから、フリージとしてはいっそ、解放軍に参列するべきだ。それを友軍であるレンスター軍が認めるかは別にして。 ひん、と馬が啼く声がして、ブルームは顔をあげた。 「こんにちは、伯父上」 ヴァンパ達三姉妹が喉の奥で悲鳴をあげる。 「イシュタルに、トールハンマーを継承させたんですね」 ブルームの妹によく似た、さらさらと綺麗な銀紫の髪がすべる。 さも残念だ、と言いたげに首を振って、辺りは精霊の気配に満ちていく。 「裏切り者は、殺さないといけません」
ぱちり、と雷が浮いた。 アーサーは感情のない瞳で静かに詠唱を唱える。慌てて三姉妹は詠唱を始めるが、ブルームはただ、甥を見つめるだけであった。 「わしは、確かにグランベルに対する裏切り者であろう。そして、ヒルダに対しても、十数年ずっと裏切り続けてきたのだろう。だが、子供にまで、裏切ることはなかった」 お前はどうだ? アーサーの動きがぴたり、と止まる。 「お前は、グランベルも、フリージも。唯一人の妹も。ユリウス殿下も、裏切っているのではないのか」 アーサーは何も答えず、殺意の精霊を差し向けた。ブルームは目を閉じて――――
ブルームと、その配下十数名が殺されていた、という報告を受けたのは、イシュタルがマンスターへ向かう準備をしている頃だった。
「本当に、式に立ち会わなくとも?」 「ええ、別れは既に済ませました。コノートにいたフリージの者に任せて、私はマンスターに向かうわ。セティ殿からの返信に、知人の司祭のことも書かれていたの。マンスターの子供たちを子供狩りから逃れさせるために脱出なさったのですって」 「私も、コノートとアルスターの委託を終えたら直ぐにマンスターへ降りるよ。ロプトマージ相手はリーフの方が経験があるから、援軍は必要ないかもしれないけれどね」 「そうかも、しれないわね……」 「イシュタル?」 「何でもないの。それでは、行くわ」 「本当に一人で?」 「ワープでいくのだもの。仕方がないわ」 魔力の行使に長けたものであれば、自らワープを行うことができる。だが自分が良く知った場所に限られるけれど、マンスターならば問題はない。 マンスターに向かう。 そこには既にリーフが着いているかもしれない。レンスターの王子。 セリスの手紙を所持したイシュタルは、それでは、とセリスから間合いをとった。 「気をつけて」 微笑む様子が、最近はよく見られるようになった、とセリスは思った。
「それではサイアス司祭、子供達を頼みます」 「ええ、承知しました。リーフ王子もやってきていますから、それに合流できれば子供達も安全でしょう」 サイアスはそう言うと、イシュタル殿も手紙が届き次第いらっしゃるでしょう、と付け加えた。 「我々マギ団、リーフ王子が来るまでは持ちこたえるつもりでいます」 「ご武運を。マンスターの兵が入れ替えられなければ、このようなことにはならなかったのでしょうが……」 「ブルーム王は明け渡しを認めたそうですね。イシュタル王女の説得が実をこうじたのでしょう。マンスターの支配体系が変わってしまう前であればもっと良かったが」 「ええ。上から命令がきたそうですからね……」 それでも、随分と楽にはなった。 北トラキア全体が勢いづいて市民の高揚は高いし、フリージに属するも子供狩りに納得の言っていなかった騎士は協力を申し出てきた。 徴兵された兵士たちはことごとくが武器をもってベルクローゼンに対抗し、ガルザスといった強力な傭兵も、味方にはついてはくれなかったが敵対を止めている。 もう直ぐ、イシュタルがマンスターにやってくる。 理想は重なれど立場を違えていた彼女と、共に戦うことのできる時がやってくるのだ。 「それでは、私はこれで……」 「お気をつけて」
サイアスは子供達を連れてマンスターを脱出した。 街の出口にはベルクローゼンの監視があり、子供が逃げ出すことを防いでいるが、マギ団や騎士らの協力によって無事に脱出することが出来た。 子供達は噂に名高い『リーフ王子』のところにいけるのだ、と元気よく歩いている。 閉鎖的な危険から逃れられた開放感もあるのだろう、疲れを意識していないだろうからサイアスが気にしてやらねばならない。 教会に隠れていた子供達の半数はいない。 それを知ったとき、イシュタルは悲しむだろう。嘆きもするだろうし、怒るだろう。 ベルクローゼンを差し向けたのが帝国の上部の命令だと聞いて、驚くだろう。 そして、憎む。 彼女の憎しみは常に、アルヴィスに注がれている。 解放軍に身を置く彼女は、やがてアルヴィスを殺しに行く。
皇帝は、どんな顔をするのだろうか。 少なくともサイアスが知ることはないだろうが。
「ブルームが、イシュタルに継承を?」 「そう。だから、殺してきた」 「ふーん」
ユリウスは興味がなさそうにしている。 「もうイシュタルは戻らない。今度見えたら、今度こそ殺す」 すると、不思議そうにアーサーを見てくるユリウス。 「お前が、できるの?」 アーサーは目を閉じた。
ユリウスが、ユリウスでなくなってしまった頃、消えたディアドラとユリア。 それと入れ違いに連れてこられたのが彼女だ。 トールハンマーの継承者で、歴代の誰よりも魔力が強い。 優しく聡明で、ユリウスの狂気に怯えながらも振りほどけなくて、何度となく泣いている姿を見た。 アルヴィスを殺す、と言いながら、彼女は解っていない。 ・ ・ ・ ・ ・・ ・・ 殺す気ならば、とっくに殺せてしまったはずだ。
彼女は優しい娘だ。 母を殺させた仇とアルヴィスを憎みながら、決定的なところで優しさを覚えてしまっている。 今の彼女なら、例えトールハンマーを持っていても負ける気はしない。
彼女は自分とは違い、優しい娘であるから。
「できるよ」
アーサーは頷いた。次に逢った時は、間違いなくイシュタルを殺せる。 「そっかあ」 ユリウスは笑ってアーサーの首根っこに捕まる。 「おい、重いよ」 「余も、アーサーならイシュタルを殺してもいいかな。他の者には、させる気はわかないけど」 「はいはい、ありがとさん」
気のない返事を向けながら、アーサーは解放軍の進路を考えた。 レンスターのリーフ王子が先にマンスターに向かっており、程なく合流するはずだ。
(マンスターに、ベルクローゼンを差し向けたのは誰だ?)
子供がどれくらい死んだんだろう、とアーサーは憂鬱になる。
ベルクローゼンの派遣を、促したのはサイアスである。 その彼は、子供達の体調を気遣いながらレンスター軍の方向へと足を早めていた。
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