トローンの雷柱の力は、ことごとくが霧散し相殺された
精霊が昇華し、あるいは喰い合って消えていく
彼と彼女を中心に、ぽかりと空いた、沈黙の空間



「……さあ、行っておいで。炎精たち……」



沈黙は一瞬で掻き消え
後には呼吸さえ叶わぬ炎の渦





願望充足型の悪夢






「アーサーは、私の兄です」
 気を失ったユリアが送られるのを見送った後、事情を聞いたティニーがそう告げた。
 イシュタルは顔色優れぬまま唇に指を運んでいる。
「私も、その名は聞いたことがある。ユリウスの懐刀と称される魔道騎士だね?」
「……はい」
 ティニーはイシュタルの様子を伺うと、意を決したように話し始めた。
「私達兄妹は、両親を失った後バーハラで育ちました。にいさまは口をつぐんで教えて下さらなかったけれど、ブルームの伯父様は、両親は殺されたのだと言っておりました」
「アゼル公子と、ティルテュ公女も殺されたか……」
 オイフェが唇を噛み締め、首を少し振った。
「私は、バーハラが怖かった。だから、にいさまは私がバーハラを出られるようにしてくださったのです」
「出られる?どういうこと?」
「……それは」
 ティニーが言い澱んだのを継いで、イシュタルがぽつりと告げた。

「私達三人は、フリージへの事実上の人質だったからよ。私は母と兄と殺されてシレジアから連れてこられたのだから、父が余計な復讐をしないように、という心積もりだったのでしょうね」
 そして、それはティニーとイシュタルがバーハラから離れたことで失敗していたのだけれど、六割方は成功している。

 アーサーはユリウスの傍を離れず。フリージは敵だ。

 ふわり、とイシュタルの髪が舞った。彼女は厳しい視線で空中を見つめると、トローンを片手に唐突に駆け出していく。
「イシュタル!?」
「アルスターから離れるわ。兵士達や城を、悪戯に傷つけたくないの」
 半拍遅れてティニーが、ああ、と絶望の吐息をついた。
(どうして、にいさま)
(だってにいさまは、私とねえさまを逃がすことを選んだのに)
「どういうことだ、ティニー!?」

 ティニーの声音は震えて、イシュタルの背中を見つめるばかりである。
「ねえさまを、止めてください」

 セリスが息を飲んだ。
「ねえさま以外に止めることのできる魔道士なんていないのかもしれない。……ああ、でも駄目!ねえさまが殺されてしまう。にいさまに、殺されてしまう!」
 ティニーの青い瞳は涙に揺れ、堪えられないといったように頭を振った。
「あの巫女……」
「ユリアのことだね?」
「彼女の予言は、当たってしまう」

 ティニーには炎の血も流れている。駆けていくイシュタルを、精霊達が手招きしているように思えた。
 イシュタルは継承者だから雷精以外は瞳に映っていないはずだけれども、彼女の魔力が感じさせたのだろうか。

「君も知っての通り、イシュタルは継承者だ。……それでも彼女が、負けると君は思うのか?」
「にいさまは強い」

 セリスの計るような問いに、ティニーの返答はか細い。
「三位一体の攻撃、というのをご存知ですか」
 アルスターにはヴァンパ三姉妹がいる、と聞いたのを思い出しながらセリスは頷いた。息を合わせた彼女らの魔法は普段の何倍もの高魔術へと変容して敵となるものを襲うらしい。
 実際には、魔力を解放したイシュタルによって阻まれたわけだが、魔道士が少ないセリスの軍にとっては彼女達の話は脅威だった。
「だが、三姉妹のそれもイシュタルには無意味だっただろう?」
「ええ。彼女達のそれは、衝撃の瞬間まで違う魔法のままだから……単なる、中位魔道に過ぎないから」
 ティニーは震える声音で続けた。そこには尊敬以上に懼れのようなものが含まれている。

「にいさまは、三つの精霊と最上位の契約を交わしています。そして、魔道を混合する、技術を持っている」

 三精霊の混合魔道は、私達魔道士にとっての、死の宣告。

 セリスはその言葉の意味を掴めた訳ではなかったが、傍らにいたオイフェに鋭く指示を飛ばすことで変えた。
「アレスを」
 短く了承の言葉を置いて、オイフェが駆け去っていく。
 足音を聞きながら、ティニーは迷った。
 戦場へと走るべきか。このまま困惑に佇んでいるか。
(にいさま、ねえさま)

 私にとって大切な人たち。
 どちらが傷ついても、痛くて仕方がないのに。










 ヒヒン、と馬が啼いて、その歩みは止まった。
 風に二人の魔道士の銀の髪が躍る。陽光にさらされて、きらきらと光を弾いている。
 イシュタルの銀色の瞳に。アーサーの紅い瞳に。それぞれの姿が映りこんでいた。

 まだ、そんなに城から離れられていない。――それも道理である。未だ二人向き合う様子を、解放軍の戦士達が訝しげに見つめている。
 アーサーの佇まいには殺意どころか、戦意もない。ふわふわと拠り所のない曖昧な笑顔で、こんな陣営深くまで侵入を許してしまったのである。
(いいえ、それだけではない)
 アーサーとイシュタルは、よく似ている。

(私だと思われたのだわ)

 嬉しいようで、悔しいことだ。
 私がなんとかしなければ。

「よ、イシュタル」
 アーサーが笑った。
「久しぶりみたいな気分よ、アーサー」
 イシュタルも、哀しそうに微笑む。
「俺もだ」
 ほんの少し目を伏せる仕草から、可能性があると、読み取ってもいいのだろうか。

「ユリウス様の、ご様子は?倒れたりなさってない?」
「しょっちゅう倒れるな。その度に偏食ぶりを発揮してるぞ」
「偏食といえば貴方でしょう」
「だって不味いもんは不味いし」
「不味いのではないでしょ。嫌いなだけでしょう……」
「お前はそうやって言いくるめて食べさせるのが上手いからな」
「そうさせたのはどの人たちかしら」

 アーサーが相好を崩して、次の言葉を継いだ。
「アルヴィス伯父上については聞かないのか?」
 心中で響く動揺には目を逸らして、イシュタルが眉根を寄せる。
「嫌がらせなの?今も、とっても殺したい」
「伯父上は嫌われてるなあ」
 笑う仕草からは負の念は見て取れず、イシュタルは辛そうに瞳を細めた。

「貴方は、好きなの?」

 アーサーは少し、悲しげにした。

「アー……」
 二の句を継ごうとしたイシュタルを、魔力の解放が阻む。談笑はそれで終わり、と言うようにアーサーの全身から殺意が溢れた。
 イシュタルの耳元を、ぺちゃくちゃといった言葉が嵐のように過ぎる。
 彼女は風の声も、炎の声も聞こえない。
 だが、それでも何か話しているのがわかるように、その変化は劇的だ。
(これは)
 彼女の眷属である雷の精が、陶然とした顔でぐるぐると躍る。
(精霊達が酔っている?)
 イシュタルもまた、魔力を解放し雷精たちをその手に依らせていく。彼女の手に集うのは何時もどおりの雷精のように思えた。輝かしく蒼い雷が、生きもののように彼女の腕に伝う。

「トローンで、いいのか?」
 目の前の少年が聞いた。
 銀色の髪は高熱のために白く燃え、紅い瞳が色彩を変化させていく。
 目の前にいる少年は、既に見知っていた存在ではない。現世の理を自在に操る、魔の精霊と懼れられる姿であった。
「トールハンマーを継承させてくれるの?」
 微笑みは、笑みになっていただろうか。それは無理だな、と笑うアーサーの笑顔ほどには、自然には笑えなかったかもしれない。










 決戦は一瞬で。
 喰い合う力の衝撃さえ為さずに閉じた。
 空間からは雷精が立ち消え、風精の余韻があとけなく散っていく。










 イシュタルを守る雷精は風に喰われ。
 雷と共に空に消え。

 そうして、二つの精霊の掻き消えたまっさらな空間を、炎精は蹂躙する。

 精霊の混合を可能とさせたのはけして神の血ではない。
 故に、それは技術だ。

 アーサーは炎に攫われるイシュタルを見つめていた。
 銀色の瞳に、自分の姿が映っている。おそらく彼女の目からも同じように見えただろう。
 瞳の中の親しげな色も、哀しげな色も、恐らくは怒りも。
 全てが慕わしく、好ましく切ない。

 一緒に居る空間が嬉しい。
 一緒に居る戦場が哀しい。
 向かい合うこの位置に、怒りを感じている。

 よろめく彼女と、視線があった。

 悪夢を見ているような目をしている。










 イシュタル公女が、と周囲の兵が恐怖に慄いた。
 彼女の絶大な魔力を、これまでの戦いで知っている。これが雷神と呼ばれる女か、というほどその魔力は強大で、魔道に関して彼女が負ける瞬間など誰一人考えられなかった。
 周囲の兵士が、炎に撒かれて瞬く間に焼き消える。
 その中心で、精霊に如何なく、彼女に備わった魔法防御だけが最後の防壁となったイシュタルがいた。

「解っていただろう、イシュタル?」
 アーサーは馬を小さく撫でると、紅の炎の中に閉じ込められたイシュタルに向かって呟いた。
「雷精の守りなんて、俺には関係ないよ」
 イシュタルを守る壁が、ちりちりと燃えていった。

 あつい。

 痛みにこらえる涙さえ、瞬時に蒸発していく。
 胸元に残った火傷の痕がしくしくと傷む。

「お前は、それでも俺を撤退させるつもりだったんだろうけど」
 声は淡々と響き、感情の色がない。

「…………終わりだな。解放軍も今日が命日だ」





「にいさまぁっ!!」


 喉を枯らすような呼び声にびくりとアーサーの頬が動いた。だが、動揺したのは一瞬で、その声を追い越すように駆けて来た黒い影に目を向けて、キン、と腰で金属を鳴らす。
 滑るように抜いた剣と、黒い魔剣とが噛みあったのは直後だ。

「お前が来ると思ったよ!ミストルティンの黒騎士アレス!」

 地面を走るティニーが、アレスの切り払った炎の中からイシュタルを引寄せる。呆気ないほど炎は霧散し、ティニーの腕の中に細い身体が残る。
 白い肌が炎に焼け、髪の燃えたきな臭い匂いがつんと走った。
(ねえさま)
 ティニーは涙をこらえきれず、従姉をぎゅっと抱きしめた。

 アーサーの抜いた剣は、すらりと美しい刀身を見せる剣で、どこか魔力の香りがした。短い間合いと見えるのに、振りかぶれば間合いを問わず、小回りで防御に長ける。
 何度目かに刃をぶつけあった後、アレスは間合いを取りながら剣を測った。
「魔力が喰えん……それは魔法剣ではないのか?」
 ミストルティンは魔を喰う剣だ。大抵の魔法なら無力化できる。
「魔法剣だよ。ただ、魔力は外に出すものではなく、剣の力を向上し、俺を守るように働いてるんだ」
「面白い……」
 再び剣を走らせるアレスに、アーサーは眦を険しくさせて一言。
「俺は楽しくないけどなっ!」

(聖なる剣、だわ)
 バーハラからフリージに与えられた宝剣だ。
 力と技術で勝っているアレスを、手数で翻弄できるのはそのためだ。
 耳の近くで何か風を走る音がして、はっとティニーは立ち上がろうとする。それが叶わぬのを、背後から伸びた剣が守った。
 飛来した矢を打ち払った大剣が、油断なく周囲に警戒をめぐらす。
「彼女を後方に」
 スカサハはそれだけ言い置くと、次々と飛来する矢を打ち払っていく。
 ティニーは礼は後にしようとイシュタルを後方へと引くが、微かな呟きにその動きを止めた。

「……神器の、香りが……イチ・・ルの……危険……」

「イチイバル……!?継承者がここに!?」
 後方から駆けつけたラクチェが、矢を払った後に瞬きを繰り返した。
「それなら、パティのお兄さんだわ」





 幾度目かの剣戟が、アレスの隙をついた。
 手甲をついた一撃がミストルティンを握る力を一瞬失くし、即座に与えられた追撃がミストルティンを叩き落す。
「っ……」
 アレスは即座に予備の剣を抜く。
 手入れだけはしているが、長く実践には使っていない鋼の剣。相手は小回りの利く剣の間合いで戦っているのだから、間合いを違えた槍の方が有難かったが、生憎飛び出てきたために持ち合わせがなかった。

「油断したな、黒騎士」
「魔道士にしておくには勿体無い腕だ」
「魔道騎士ってのは、剣が使えて魔道騎士なんだよ」
 それでも、魔剣の継承者であるアレスを制するなんて、普通は考えられない。
 アーサーは淡く瞳を細めると、小さく呟く。
「継承者じゃないからと諦めたら。……何も選べないだろう?」
 訝しむ言葉をアレスがかける前に、アーサーははっと顔色を変えた。

(ユリウスさま)

 イシュタルの唇が微かに動いた。え?と聞きなおすようにティニーが問う。
 朦朧とした彼女の意識にも、ぴりぴりした恐怖が蘇ろうとしている。





 闇が、顕現しようとしていた。



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(06/02/10)