天命のように閃く託宣
懐かしい温もりの声
それと繋がる、美しい精霊のしらべ

あのひとがくる

ユリアは頬を涙が伝うのを感じた
記憶ではない、母の声が
彼は敵なのだと教えていたからだ





忘れてください苦しめたくない。






 丘の上で、馬を止めた。小高い丘の上からは、北トラキアの様子はよく見える。フリージによって占領されたために精霊のよく踊る富裕な土地は、今喜びに弾けていた。
 少年の位置からは、その違いがよく見えた。喜びは北から降り、精霊達が宴を開いている。南に行くに従って、その勢いは減って伺うように伏しているのだ。
「俺達の支配は嫌か?」
 詠うように呟くと、精霊が困惑したように踊る。
 少年の物言いは不満そうなものではなかったけれど、この精霊の寵児の機嫌をどうやって宥めようか、と考えているようだった。
「嘘だよ、困らせて悪かった」
 くすくすと笑うと精霊も笑う。
 今、トラキアには精霊の歓びが満ち溢れている。
 アルスターに雷精。
 中腹に炎精。
 マンスターに風精。
 神の継承者達は集ってこの豊かな土地へと集まり、あるいは戦い、あるいは手を取り合おうとしている。
 精霊が喜んでいる様子は心地が良い。バーハラとは、全く違う。
 アーサーは息を大きく吸うと、コノートへ馬を走らせた。










「マンスターには、フリージの手勢は残っていません。ベルクローゼンとそのほとんどが入れ替えられています」
 もたらされた報告に、セリスとイシュタルは揃って溜息をついた。
「ごめんなさい、セリス公子。マンスターはもはや私の手の及ぶ場所ではなくなってしまったわ」
「いや、君のせいではないよ。ところで、手紙は誰に宛てたんだい?」
 イシュタルの書状が送られても、既にマンスターは何の反応を示さない。だというのに彼女は手紙をしたため何とか届けて欲しい、と渡していた。
「マンスターには、マギ団と言うレジスタンスが存在するの。ずっと散発的な行動しかしてはこなかったけれど、リーダーが変わってからは目覚しい行動をするようになった。そのリーダーの方に」
「……マンスター領主の君が?」
「ええ」
 セリスの驚きにイシュタルは少し微笑んだ。
「リーダーのセティ王子とは、個人的に話す機会があったの。人格的に信頼のできる人よ」
「王子?」
「ええ」
 イシュタルは視線を下に零した。服に包まれて見えないその場所には、彼女の聖痕が刻まれている。
「シレジア王子、フォルセティの継承者……」

「リーフ王子のマンスター解放において、大きな力となってくれるでしょう」

 アルスターからブルームが軍を引き、コノートに移った。セリスはコノートへ進軍し、リーフは動乱の渦中にあるマンスターへ進軍するということで話がついている。
 イシュタルはあまり顔を出すことはなかったとはいえ、マンスター領主であった。ブルームの勅命よりも、イシュタルの命令を聞こうという者もマンスターには多くいる。彼らと接触を持ち、マンスターを無血開城できればと考えていたが、時は既に遅く、マンスター兵はことごとく差し替えられていた。
 丁度、その時期はイシュタルがイードへと飛ばされた頃と一致している。
(指示したのは、誰?)
 イシュタルがバーハラから消えたことで父が命令を下したのだろうか。










「ブルーム様!」
 その声は歓喜に等しかった。
 伝えられる伝令は苦悩を呼ぶものばかりでいい加減空に向かって叫びたい気分であったブルームは、不機嫌そうになんだ、と聞いた。
「お久しぶりです、伯父上」
 伝令が報告をする前に、その後ろから顔を覗かせたのが、一瞬妹であったような気がしてブルームは驚愕する。
 娘と似た銀紫の髪を一つに結び、黒を基調とした衣装には、要所に繊細な金細工があしらわれている。
 紅い瞳はきらきらと楽しげに見開かれ、白磁の頬には僅かに朱が散っていた。
 女神と例えられた娘とは異なる、精霊のような美しさ。
 精霊は、ブルームの驚いた表情で満足した、といったように笑うときゅっと表情を引き締めた。

「アーサー!」

 イシュタルが解放軍に組し、ティニーが追従した。再三の説得を促す書状が送られる中、臣下にまでその動揺は伝わっている。そこに現れた最後のフリージの人質は、自らバーハラに在ることを望むかのように帰りはしなかったのに。
「ア」
 ブルームが駆け寄ってくる前に、アーサーはそれを制止した。
「レンスターが落とせず、アルスターまで追われたとか」
「……!」
「まさか伯父上、馬鹿なことは考えていないですよね?」
 紅い瞳は今は感情なくブルームを見つめている。その瞳はアゼルのそれで、ヒルダには欠片も似ていないはずだったが、やけに彼女を思い出させる。
「雷神と呼ばれたイシュタルには不足ですが、俺が前線に赴きます。反乱軍を半壊くらいはできるでしょうから」
 そのあと、イシュタルがやってきたならばそれは伯父上に。

「それでは」
 にこりと綺麗に笑ってその場を辞そうとする甥を、ブルームは咄嗟に呼び止めていた。
「ティニーが、いるぞ」
 するとアーサーは少し困ったように笑って、首を傾げた。
「俺も、ティニーを殺すことになるかと思うと、胸が苦しいです」
 ブルームは息を飲んだ。目の前にいるのが自分の知った甥であるとはとても思えなかった。バーハラの闇に取り込まれ、アーサーも、心が変容してしまったのだろうか。
「……傭兵を雇い入れている。連れて行け」
「伯父上もお気をつけて」

 軽やかにアーサーは姿を消した。
 ブルームは深く息をつくと、ぐったりとしたように玉座へと腰掛けた。
 アーサーと、イシュタルと、ティニー。
 銀色の血を継ぐ三人の子供達が雷をぶつけあい、その先に何が待つのだろう。ブルームはアーサーの背中を思い出した。イシュタルにもティニーにも、その矛先を向けると断言した、血族の少年。
 ずるり、と抱えた魔道書を見下ろし、ブルームは唇をわななかせる。

 イシュタルは、アーサーに勝てない。

 それは、彼女が魔道士である故の絶対の法則だ。
                                               ・ ・ ・
 神器を継承していればいざ知らず、そうでなければ絶対に、アーサーには勝つことが出来ない。アーサーに殺意があれば、殺されるのだ。
 ブルームは神の魔道書を凝視し続けた。
 自分と娘。その絶対の繋がりたる、トールハンマーを。





「お前が、伯父上の雇い入れた傭兵?」
 気配無く、風のように現れた綺麗な少年にファバルはぎょっとした。イチイバルを手入れする手が止まる。
「ああ。俺はファバル、あんたは?」
「俺はアーサー。フリージ公子だ」
「へえ、あんたが魔精霊」
 妙な呼び名に、アーサーは苦いものを食べたような顔をして顔をしかめる。
「ナニソレ」
「俺が呼び始めたわけじゃねえよ」
 それも道理だ、とけらけら笑う少年に、ファバルは毒気を抜かれたように向き直る。
「ユリウス殿下の懐刀、って聞いたけど」
「懐刀ぁ?」
「違うのか?」
「懐で刃を研いで出番を待つようなことはした覚えはないなあ」
 まあいいや、と笑ってアーサーは無造作に手を差し出した。

「じゃあ、反乱軍を殺しに行こうか」
 ファバルの笑い顔が、ぎくりと凍った。
 どうしたの、とアーサーが綺麗に笑う。
「……お前に聞くのも、どうかと思うけど。イシュタル公女が解放軍に入ったというのは本当か?」
「ああ」
 信じられないものを、見るかのように、ファバル。
「お前も、ブルーム公も。……彼女に刃を向けられるのか?」
 アーサーはふむ、とファバルを見ると反対に聞き返す。
「ファバルはそんなに解放軍と戦いたくないのに、どうして伯父上に雇われんの?」

 決まっている。金のためだ。
 孤児院で腹をすかせている弟、妹達。それに盗賊家業に手を染めさせてしまっているパティのため。
(盗みに手を汚す妹と、殺しに手を汚す俺)
 酷く泣きたい気分になった。
 アーサーは背伸びをしてファバルの頭を撫でると、優しく告げる。

「それより守りたいものがあれば、他は捨てるしかないからだよ」











「精霊が歓んでいる」
 掠れた声でイシュタルが喘いだ。
 彼はティニーを逃がし、イシュタルを逃がし、逃げたくなったら、いつだって逃がしてあげると言った。
 イードへ送り、レヴィンの元へと。解放軍に触れるために。
 だから、過信していたのだ。
 とりつかれたように混濁した瞳で、ユリアがセリスに告げる。

「アーサーは、哀しくて恐ろしい敵。戦ってはなりません」

 自分の口を使って、自分でないものが喋った。
 それだけを告げると、ユリアの足から力が抜けて崩れ落ちる。驚愕するセリス以上に、自分が衝撃を受けていることにユリアは気がついていた。
 アーサーと言う名は、ユリアにとって二つの意味がある。
 一つはぽっかりと喪失した記憶をゆさぶる懐かしい名。
 もう一つは、シレジアに保護されていた間に一度だけあった少年の名前だった。
 別に、珍しい名前ではない。
 だというのにその二つはいじらしいほど周到に、ユリアの中で結びつく。
 ユリアはだから、知らない母の言葉を介さずに、既に『アーサー』が敵となることを知っていた。



(アーサーも、レヴィン様に、時が来るのを待てと言われているの?)

 少年は困ったように笑うと、どうかな、と首を捻る。

(俺は断ったんだ)

 何を断ったのか、その頃のユリアにはわかるはずもなかったけれど。










(ユリア、君は俺とこの風の国で出逢ったことも、忘れてしまう方がいいかもしれないな)

 どうして?とユリアは幼子のように聞いたのだった。

(君の苦しみが、増えるばかりだろうから)





 いっそ途切れた記憶よりも、その時見た笑顔を忘れてしまえればよかった。



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(06/02/07)