「イシュタルが、兄上の軍に?」

頷いたアーサーに、ユリウスは理解不能、と言った顔色を見せた
「そうしたら、もう兄上は死んでしまったか。イシュタルに敵うわけないもの」
「いや。反乱軍の一人としてだ」
ユリウスはまた首を傾げた

「スパイなんて、わざわざイシュタルがする必要などないものを」

本当に、あのこは、はたらきものだ

それ以上告げることは無意味だろう、とアーサーは踵を返した





たぶん哀しかったんだと思う






「あっ、駄目よ。お砂糖を一番最初にいれて」
 ラナの言葉にイシュタルは傾けかけた匙をぴたりと止めた。
「そういう、ものなの?」
「そういうものなのよ。私も何でだろう、って思ったけど、その方がしっかり味が染みて美味しいの」
 なるほど料理の世界も奥が深い。すると、あの教会で子供達に砂糖の味が出ていない料理を食べさせてしまっていたのかしら、とイシュタルは知らず眉根を寄せた。

 解放軍では、勿論賄いを担ってくれている後方支援部隊が数多くいる。
 だが、こうして時間外に食事が必要となった時は、聖戦士の血を継ぐ彼らでも自ら調理するのが常だった。聖戦士の血を継いでいるといっても育ちが育ちだから、料理ができないといった者はいない。
 怪我が癒え、解放軍に参列したイシュタルは孤独だ。
 誰もがわかるフリージの銀の髪。彼女が背負う雷神の名はイザークにも名声高い。
 幼いころに、触れただけで人を死に至らしめたという噂が一層彼女から人を遠ざけ、グランベルの者ということは不信の目を向けさせている。
 気高い美貌がそれに拍車をかけて、自らも特に人と関わろうと思っていなかったイシュタルは大抵一人で書き物をしていた。
 それを、誘いに来たのがラナだ。
 菓子を自ら作ったと聞いて目を丸くしたイシュタルに、それでは、と簡易な料理教室が催されたのである。

「手際はいいんだけどなあ」
 シレジアの味付けだ、とどうしても身体が温まるようにとアルコールを増やしすぎなフィーは、じゃがいもの皮を剥きながら言った。視界の先では几帳面な性格が出ているのだろう、等分に切られた野菜が並んでいる。
「ええ、もっと経験を積んだら自然と味付けとかも工夫されそう」
 味見をしながらラナが言う。横ではパティが手馴れた仕草で卵をといていた。
「料理は何より愛情よお。ああ〜、シャナン様美味しく食べてくれるかなっ。……って、ちょっとラクチェ、桂剥きなんかして何作るの?」
「お刺身の、つけ合わせ」
「お弁当にならないじゃないよう!」
 イシュタルへの料理教室は、いつの間にか気になる彼のハートをゲット、なお弁当つくりに変わっていたらしい。 慎重に包丁を使うイシュタルの横で、パティがてきぱきと彩を添えている。
「パティ、二つ作るの?」
 魚を捌いていたラクチェが隣を見て言うと、パティは急にしどろもどろになった。
「ええと、まあ、うん。レスターがお弁当って憧れるっていうから、ついでよ、ついで!」
「兄様がそんなこと言ったの!?」
 華やかな輪が、どっと笑いに満ちた。くすりと笑ったイシュタルを、パティがこづいてくる。
「イシュタルは、どうする?誰にあげる?」
 その言葉でぱっと視線が集まったので、イシュタルは言葉に困る。
「……人に、渡せるものになるかは」
「大丈夫、大丈夫。美味しくできてるわよ。で、誰に?」
「……私は、この軍の人を余り知らないし」
「あー、あんた美人だからこっそりターゲッティング真っ最中。家庭的なパティちゃんには負けるけど。で?」
 パティの興味津々な視線にはどうにもごまかしはききそうにない。
 しかし、お弁当を渡す対象など考えていない。イシュタルは無理に思考を回して、なんとかパティの質問に足りる名前をあげようとした。
「……参軍させていただいた礼にセリス公子に。あと、お世話になったからシレジア王かしら……」

 どがらーん。

「らっ、ラナ!どうしたの危ないわよっ」
 ラナの手から包丁が落ちて転がった。幸い人の足の上には落ちなかったが。
 横ではフィーが木の器にヒビをいれてしまったのを見て、ラクチェが目を丸くしている。二人正気に戻ったのはフィーの方が早く、イシュタルの手を握り締めて力説した。
「あんな、あーんな人のことなんて考えなくていいのよ!その辺で小麦とか噛んでればいいんだから!」
「せ、セリス様は、そういえばさっき食事をとられたばかりだったんじゃないかしらっ!」
 イシュタルは呆然と二人の剣幕に押されると、とりあえずこくこくと首を縦に振る羽目になった。
「さくらんぼ酒も、使っていいって……」
 場を外していたユリアは、厨房の様子をみてきょとんとした。










「メルゲンの守護を……ティニーが?」
 軍議の場で、セリスがイシュタルにそう告げた。
「ティニー公女は領民の評判も悪くない。君とも仲は良かったと聞く」
 イシュタルはそれで、セリスの言いたいことがわかった。小さく頷く。
「ティニーは優しい子です。今の帝国に憂いて、かねてから変えねばならないと言っていました。きっと、解放軍の理念に賛同するでしょう」
「それについて、この場でイシュタル公女にお聞きしたい」
 ついにきたか、とイシュタルは顔をあげる。聖戦士一同で集まった場でと考えたのだろう。オイフェは今まで口にはしてこなかったのだ。
「貴女は先の戦いでシグルド様と共に戦ったヒルダ殿の娘だ。子供狩りにも前々から否定的で、その統治も評判は良い。何故、今になって解放軍に参列する気になったのか。……イードにいた理由は何か?」
 イシュタルに視線が集まった。セリスの傍らに立つレヴィンへ視線を向けたが、何か話すつもりはないらしい。
「君が、帝国に組することを止めてくれと言えば、どれほどのフリージの血族がこちらに賛同するんだ?」
 セリスに程近い席から、スカサハが問う。

「……それには、現在のフリージの立場からお話しないとなりません。これから北トラキアへ進軍するならば尚更」
 北トラキアは、フリージが圧政をもって支配しているのだから。
 イシュタルと、ティニーと、アーサー。
 この三人の子供を人質にされながら。
「父上御自身には帝国への叛意はありません。ですが、父は母と息子を帝国に殺されました。それでも帝国にあるのは、フリージ家のためと……私たちの咎……」



 ブルームは、シアルフィの二の舞を踏むことを恐れていた。血族の常として、聖戦士の血を次がせなければならないという脅迫意識が存在する。その意識が家を断絶されるという道を阻害した。
 加えてブルームの三人の子供達はバーハラにあった。時折ブルームの元へ帰ることが許されても、一人は必ず留め置かれている。
 イシュタルはマンスターの領主ではあったが、そのほとんどが指示を向けるだけのものだ。
 そして、それはワープさえ自在に操れるようになっても続いていた。

「私とティニーをバーハラから逃がしたのは、アーサーです。彼は先ずティニーがアルスターにいる正当性をつくり、そして先日、私をイードに逃がしました」

 イシュタルには、逃げるつもりはなかった。事実彼女はバーハラに戻るつもりでいたし、フリージ公女であり、北トラキアの王女であるイシュタルは、その地位でしかできない改革がそれこそいくらでもある。
 だが、戻らなかった。
 戻ることを、本能が拒否した。

「……私の目の前で、母上と兄上は殺されました。その命令を下した、皇帝アルヴィスが憎い。そして、それ以上に……」

 ユリウス様が、恐ろしい。

 最後の言葉は声にならず、イシュタルは誤魔化すように首を振る。



「ブルーム公は、君の説得に応じるのか?」
「……父上も聖戦士の血を継いでらっしゃる。この戦いに理がどちらにあるのかは判断できるはず。説得すれば、きっと、と思っています」
「フリージがイシュタル公女の説得に応じれば、レンスターで奮戦するリーフ王子への勢いもなくなるな……」

「イシュタル」
 セリスが真摯な瞳で重ねて問うた。
「その時、北トラキア王国はどうするつもりでいる?」
 欠片も迷わず、イシュタルは答える。
「フリージはトラキアから撤退し、フリージ本国への帰還と、北トラキア諸国への謝罪を……」
 ただし、グランベルの政局をひっくり返さねば成り立たないが。
「よし」
 頷く、セリス。

「君は、まずはメルゲンのティニー公女へ書状を書いて欲しい」










「解放軍から、書状……ですか?」
 ダーナの傭兵と話を合わせ、挟み撃ちにする計画を練っていたティニーは、その書状を開いた。
 ティニーは解放軍と戦うことは本意ではない。だが、バーハラに兄がいるのだ。何度呼び戻そうとしても頑なにバーハラから離れず、優しい言葉を手紙で紡ぐだけ。
 けれどもバーハラに潜む闇を恐れて、ティニーは自分もバーハラに、とは終ぞ返事をすることはできなかった。
(私たちがグランベルを裏切れば、にいさまは)
 アーサーは、物心ついてからずっとティニーの傍にいてくれた。
 ティニーには両親の思い出はない。アーサーの語る両親の話と、兄の優しい赤い瞳だけだ。
 だから私は。
 書状の署名に目を走らせて、ティニーは驚愕に目を見開いた。

「イシュタルねえさま……!?」



「迎撃の準備を休めて頂戴。解放軍から使者がきます。それには手を出さないで!」
 メルゲンの部屋を飛び出し、指令を送るティニーに対し、魔道騎士が困惑した表情で膝を着く。
「それがティニー様、ヴァンパ様方が既に……」
「何ですって!?私はまだ、合図は出していないはず。いいえ、そうでなくともダーナとのタイミングを計るのに出立には慎重を、と伝えていたはずです」
「それが、出撃は決定しているのだからと……」
「っ三姉妹……」
 彼女達はフリージに名高い魔道を操る三姉妹だ。彼女達一人ひとりの魔力もさるものながら、三位一体の攻撃は他に類を見ない。あのひとを除けばだが。
 だが、ヴァンパ達はその強い魔力のため傲慢に過ぎるきらいがあった。交戦を決めていたから注意を疎かにしていたけれど、こんなことになろうとは。まさか、功名心が先立って彼女達が勝手に出撃してしまうなんて!
(この書状が、虚偽ならばいい)
 イシュタル不在を察した解放軍の策略ならばそれで構わない。
 だが、本当にイシュタルが解放軍にいるならば?使者としてやってきた彼女をこちらが撃つ事になるのかもしれないし、最悪、イシュタルがティニーと通じて解放軍を嵌めようとしたのだと思われるかもしれない。

「誰か、私の馬を!メルゲンに残った兵達は、待機を命じます。私の命なくば動くのはまかりなりません!」





「あれが解放軍かしら?姉さま」
「莫迦ね。緑の旗を立てているのは、使者の証よ。解放軍が交渉にきたってところかしら」
「どうするの?」
「それは、ねえ」
「ねえ、姉さま」
 彼女達の視界の向こうには、馬に乗って進んでくる一行があった。
 先頭を進むのは女だろうか、外套を被っているためよく判断はできない。
 いやに雷精が騒ぐのが気になるが、気にすることはないだろう。
「じゃあ・・・・いってちょうだいな!」
 躍り出たヴァンパ、フェリウ、エトラ。そして背負う魔道士たちの姿に使者の馬の足が止まった。
 遅いわ、と思いながら炎の呪を紡ぐ。
 外套の奥に銀色が光ったように思ったけれども、気のせいだろう。

「トライアングル・アタック!」





 赤か、青か、緑か。
 そのどれでもない輝きが飛んで、スカサハは一瞬目を閉じた。
 だが襲ってくると思った衝撃はなく、そおっと腰の剣に触れると、ぱちりとする。
 目を丸くしたスカサハに、デルムッドが「静電気でてるぞ」と声をかけた。
「……イシュタル?」
「近づいては駄目」
 先頭で馬を止め、イシュタルは付け加えた。
「魔力を解放しているから、私に近づくと黒焦げになってしまうかも」
「……お前が言うと冗談に聞こえない」
「冗談じゃないもの」

 イシュタルは蒼い防壁をゆったりと晴らすと、呆然とイシュタルを見ている魔道士たちを見る。
 外套は衝撃で落ち、豊かな銀紫の髪が顕わになっていた。
「イ・・・イシュタル様……!?」
 ざわざわと騒ぐ魔道士たちを背負い、三姉妹は混乱の極地に至った。
「私は、解放軍のイシュタルです。メルゲンへ送った書状の通り、交渉に赴く途中です」
「解放軍……!?」
「あなたがたの行動は、メルゲン軍の司令官の意思ですか?」
「そ、そうなんです。てぃ、ティニーが。いえティニー様が出撃するようにと!」
 イシュタルはふ、と瞳を細めた。ヴァンパの背筋がしゃんとなる。
(怖いぐらい美人だ)
 魔法コンプレックスの感のあるスカサハは少し馬を下げた。壮絶なまでの美貌は、横にいてさえ怖い。
「ヴァンパ。私は、ティニーと話があります。貴方達は父上に、私が解放軍に参画したとお伝えして頂戴」
「は、はい!畏まりました!」
 フェリウが後方の魔道士たちに指令を送る。
 どのみち、ブルームの指示を仰ぎに行くだろう。

 ヴァンパ達が馬を返した向こうから、声高らかに戦の始まりを制しながら、駆けて来る馬の音がする。

「ねえさま!」

「ティニー」
 イシュタルは美貌を綻ばせると、柔らかく手を振った。





 結局、ダーナは動いてしまった。ヴァンパ達の行動に連動したのだ。やってきた傭兵達に言葉は通じず、その中にアレスの姿を見つけてデルムッドが慌てて手綱を返す。
 タイミングを失して動いたダーナを制するは容易く、セリスは悠々とイシュタルとティニーがいる場所までやってきた。
「ですが、ねえさま。にいさまがまだバーハラに……」
 やはり、彼女は解放軍と共にゆくのには異存はない。またフリージを守らねばならぬという強迫観念も彼女には薄いだろう。ティニーを躊躇わせるものは、ひとえにバーハラにいる兄の存在だった。
「私を逃がしたのはアーサーよ。……それに、アーサーを、ユリウス様が殺されるはずはないわ」
「ねえさま?」
「私が、アーサーが。……何をしているとも、全てご承知で。それでもあの方は、私達を傍に置いていたのだから」
 セリスがもの問いたげな視線でイシュタルを見たが、イシュタルには返事を返すつもりはなかった。
 間も無くダーナは落とされ、解放軍はメルゲンへと身を落ち着かせた。
 だが、そこに待っていたのは待機を命じたはずの軍が、全てアルスターに戻されたという報告だった。

「父上が、呼び戻されたのね」
「ねえさま、伯父様は……戦われるおつもりでしょうか?」
「……そうかもしれない」
 イシュタルは銀色の瞳を憂いに伏せて、小さく告げる。
「私が感ずるよりもずっと、父上のフリージへの想いは強いのでしょうね」
 ひどく哀しい。










「アーサー、遊ばないか?」
 従卒の臓物を手遊びしながら、ユリウスが笑った。
「子供達を逃げさせて、逃げる方向を操ってね。最後に罠で」

 どっかーん!

「ああ、でも悪戯に殺したりは駄目だよ。食べられなくなっちゃう」
 ころころと笑うユリウスに、アーサーはぽんぽんと頭を叩く。
「あー、ダメ。俺忙しいの。伯父上に呼ばれてんの」
「何故だ?今までブルームの呼び出しには応じなかっただろう?」
「反乱軍が来てんの。リーフ王子を満足に落とせない伯父上が、イシュタル相手じゃ大変だろ?」
 その言葉に、ユリウスは目を顰めた。
「イシュタル、そんなにブルームが嫌いだっったか?確かに余はブルームの貧相な顔は好きではないけれど」
 子供のように不思議がるユリウスに、アーサーは根気良く告げた。

「イシュタルが反乱軍の一人だからだよ」

 ユリウスは、不快げに眉を顰めた。
「そんなことあるわけない」
「あるんだよ」
 ユリウスはアーサーの髪を腹立たしげに引っ張ると、ひそりと告げた。

「では、アーサーも兄上の元に跪きにゆくか?」
 蛇がちろちろと瞬くような瞳で囁かれたが、アーサーは冷めた視線で見つめ返しただけだった。
「何で、俺が反乱軍に参加しないといけないんだよ」

 破顔するユリウス。

「そうだよね、アーサーはどこにも行かないよね。僕と一緒に、遊んでくれるよね」
「ああ、そうだ。俺はお前とずっといるよ」
「約束だよ」
「約束だ」

 紅い髪の少年と銀色の髪の少年は、互いに握りこぶしをつくると、こつんとぶつけた。
 ユリウスは笑顔なのに、アーサーはちっとも心が高揚しなかった。
 たぶん、哀しいんだと思った。










 解放軍はアルスターを制した。同時にレンスター城は防衛を成し遂げる。
 ブルームはコノートへと移り、交戦の構えを見せていた。



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 (06/02/05)