「イード神殿にはシャナンがいっている筈だ 流石のシャナンでもダークマージ相手には骨が折れるはず 救援を差し向ける必要があるね」
ガネーシャで合流したレヴィンは、焼け落ちて用を成さなくなった教会跡で周囲を見渡した 小さなキャンプが張ってあり、そこから神父が出てきたようである
「レヴィン様……も、もしやこの一団はイザーク軍の方々で?」
無口な男の代わりにセリスが頷くと、ああ、と神父が嘆きだか喜びだかの声をあげた 「お預かりしていた方が、単身イード神殿に向かったのです」 これ以上子供達を狙わせないために、と神父は顔を覆う キャンプの中からは、不安そうな顔で子供達がこちらを覗いている
あの娘を、助けてあげてください
銀色の髪をした娘だ、と神父は言った
外で騒ぎが起こっている、とシャナンは思った。 盗賊だと言うパティと共に、単身イードへと潜入してバルムンクを手にして、脱出はどうするかと悩んでいる時だ。 「随分混乱してるみたい。脱出するなら好機ですよシャナン様」 「そうだな……パティ、私から離れるなよ」 「はあ〜い!」 先ほどからやけに血が騒ぐ。聖武器を取り戻したためかと思っていたが、それとはどこか違っている。 同胞を見つけた気配だ、とふと思った。
イシュタルは、はあ、はあ、と幾度となく肩を揺らしていた。 闇に対しては、不得手。 そんなことは魔力で押し切れるとは思っていた。そしてそれは事実であったが、怒りにかられて雷を蒔いたのが悪い結果を生んでいる。 さして魔力を消費もしない、彼女にとっては呼吸と等しいサンダーで、こんなにも消費しているなんて。 イシュタルの意識の欠片で、ふと”毒”という言葉が浮かんだ。 そうだ、ヨツムンガントは毒を孕んだ魔法ではなかっただろうか。 毒された身体は集中力を奪い、魔力を無為に消費させていく。気がつかずに連打していたのも悪かった。
「イシュタル様、このような所業……貴女様であろうと許されませんよ?」 暗闇から忍び寄るような声が届いて、イシュタルは振り返る。 そこには誰もいなかった。声だけ送ってきているのだろう。 「私はただ、子供狩りを止めなさいと言いに来ただけだ」 「そのようなことを!殿下の下にいらっしゃった貴女が?」 それは嘲笑だったが、イシュタルは構わなかった。 「子供狩りは民の心を苛み、彼らの心を帝国より離すばかり。国のためを思えばこそ、私は子供狩りを止めねばならない」 「国の?」 闇魔道士の声は笑う。 「我々の忠誠は、国に対してのものではありませんとも」 どういうこと、とイシュタルは声を荒げたが、返答はなく。周囲には高濃度の魔力が充満し始めていた。
「……闇の気配がします」 ユリアはそっと囁いた。それに遅れるように空に浮かんだ禍々しい紋章。オイフェがそれに顔色を変える。 「フェンリル……!遠距離より人の生気を奪う高レベルの暗黒魔法だ。いかん、皆は下がれ!」 「待ってオイフェ、あれは私たちに向けられているものではない」 セリスは瞳を細めると、透かすような視線をイードに向ける。
「”誰か”いる」
フェンリルの魔力を、どれほど相殺できただろうか。 イシュタルは、多くの黒いローブを纏った者たちが倒れる中、中空を見つめていた。 見つめて、といった表現は正しくない。視界がぼやけ、朦朧とした意識ではそこに何があるのかもわかっていなかった。 完治していない火傷がずきずきと痛み、集中の邪魔をしている。
フェンリル使いを探さなくては。
フェンリルの魔道書を、壊さなくては。 操る魔道士の魔力が高ければ、助かった神父や子供達もその魔力の餌食にされる。 守れなかった子供。 神父様の涙。
聖戦士の血筋とやらが、何が偉いの。
私はそんなものよりも、両親の笑顔が欲しかったのに。死んでしまった双子の兄がいて欲しかったのに。 こんな、私の心を暖めてくれたひと一人守れない力の、何が偉いというの。
ごほりと咳き込んで、どきりとした。
吐いた血が黒かった。
「シャナン様かっこいい〜」 どさり、と倒れ付したダークプリーストからバルムンクを引寄せると、シャナンは軽く剣を振る。 それで血は払われ美しい刀身が蘇った。それを鞘に収めるとシャナンは周囲を見渡した。 「魔道士は懐に飛び込まれると弱いからな」 魔道士の手に握られていた魔道書はフェンリルだ。幼い日の記憶に残る、痛ましいものの一つだった。 「セリス達が追いついたのか、戦いの相手がいたはずだ」 足早に駆け出すシャナンに、パティは歓声をあげながらついていく。
黒いローブ達の中で、唯一人立っていたのは一人の少女であった。 外套のフードが落ち、銀紫の長い髪が顕わになっている。 長い睫毛の下に煌く瞳も銀色で、赤い唇は今は紫色に変色していた。 青ざめた白い肌は透明に美しく、完璧なまでに整った容貌は女神のそれを思わせる。 片手に握られていた魔道書はぼろぼろに煤けていて、今にも壊れて落ちそうだ。
魅入られたように足を止めていたセリスは、彼女が咳き込んだので我にかえった。 ばさり、と魔道書が落ちる。 口元をおおった細い指の隙間から零れたのは、真っ黒な血であった。 ぐらりと傾いで、崩れ落ちる前にセリスが駆け寄る。 後方で、呆然と呟くオイフェの声。
「イシュタル、公女」
レヴィンは冷たい瞳でその様子を見ている。
「伯父上」 シアルフィの宮殿で、アーサーは皇帝を訪ねていた。 イシュタルがいなくなってしばらく、アルヴィスはシアルフィに居所を移されたのである。 その統治は整ったものであったが、シグルドの血を引くセリスがイザークに生きていると解った今、領民の心はアルヴィスにない。吟遊詩人の詠う悲劇の公子シグルドの歌が、それに一層拍車をかけていた。 「……アーサーか」 今は亡き、最愛の弟の息子。 髪の色こそあのあどけない少女のものだったけれど、瞳はアゼルのそれだ。 アゼルや、ディアドラに責められることだけが、アルヴィスにとって長く苦しみの対象だった。それ以外の者にどんなに罵られようと痛くはなかった。 けれどもそれは遺伝するものなのだろうか。 今はアーサーや、行方不明になったユリアに罵られることが怖いのだ。 だが、ユリアはいなく、アーサーはアルヴィスを責めることをしなかった。興味がなかった、というのが正しい。 アルヴィスを苛烈に責めたのは、アーサーによく似て、全く違う。異母姉の血を継ぐ娘だった。 (いつだって、わしを責めるのはあの瞳なのだ) ヒルダは逝ってもわしを責める。彼女と向き合うたびに、そんな気分になった。
「イシュタルを飛ばしたのは、イードの方です」 アルヴィスの肩が揺れた。アーサーは、変わらず冷めた視線で見つめてくる。 「最終的に決断を下すのはイシュタルですが。……あいつはきっと、反乱軍に参加しますよ」
何故なら、それこそ彼女に相応しい姿だからだ。 雷神の血を継ぐ優しい娘。 子供達が泣く姿を、誰より厭った人であったから。
「……それを、わしに告げてどうする?」 「さあ?」 アーサーは軽く首を傾げた。ただ、笑いはしなかった。 「お覚悟を、なさった方がいいんじゃないかと。そう思っただけです」 失礼します、とアーサーは間を出て行く。
それが、殺す覚悟なのか。殺される覚悟なのか。どちらの意味で言ったのか、アルヴィスは意図を掴みかねていた。 背後の肖像を振り返る。 そこには、最愛の妻ディアドラ。娘のユリア、そして、ユリウスが描かれた肖像。 その絵を見ながら思い出すのは、だが穏やかな日々ではなく。シグルドの最後の姿だとか、手を繋いで逝ったアゼルとティルテュだとか、最期の姿を知らない、ヒルダの怒った顔だ。
「どこから、間違えたのだろうな」
理想の国を作りましょう、と笑っていた銀色の少女は、もはやけしてアルヴィスに笑いかけはしないだろう。 アルヴィスの独白に答えはなく、肖像との間には沈黙が立ちふさがっていた。
「……大丈夫ですか?」 癒しの光に包まれながら、イシュタルは瞳を開いた。 今はまだ茫洋とした銀色の瞳に移されて、ラナは聞く。暗黒魔法に害された人を見るのは始めてなので、容態がよく掴めないのだ。 「……ええ。ありがとう。毒も、抜けているみたい……」 ラナはほうっと微笑むと、イシュタルの額にはりついた髪を払った。 「大丈夫ですよ」 後方の、テントの入り口の方に声をかけると、数人の男性が入ってくる。 そのうち一人は、ユリウスに似ていた。はっとして起き上がろうとするイシュタルをラナが制止する。
「……セリス公子…?」 ここに、ユリウスがいるはずはない。加えて目も覚めるような青い髪がそれを否定していた。 「イシュタル公女、貴女がレヴィンに保護されていたというのは既に聞いています。具合の程はいかがですか?」 「……随分平気です。そちらのシスターのおかげで」 セリスの後ろにいたのは茶色の髪をした騎士で、その後ろにいたのは緑の髪をした男だった。 シレジア王、だ。 その後方から心配そうに見つめる神父の顔を見つけて、イシュタルの胸の奥はぎゅう、と詰まった。
「神父様」
イシュタルの囁くような声に、神父の顔がさっと変わる。
「子供が、三人、死にました」
はらはらと零れ落ちる涙に、イシュタルは顔を覆った。 神父はかける言葉を持たず、そっと歩み寄ってイシュタルの頭を撫でる。 漂う沈黙が虚しく、失われた命が遠い。 憎しみに溺れられたらいいのに、恐怖に哀しみに思慕にと踊る己が悔しい。
バーハラに行かなければ。けれどもどうやって? こんなにも意志薄弱な私が、どうして理想の国を目指せよう。
こんな私では、誰も守れはしないのだ。
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