どうして、にいさま どうして
可愛いティニー 同じ血を継ぐ、唯一人の妹
不器用な愛情を注いでくれた伯父 気丈で凛とした従姉 フリージで、アルスターで、帰りを待つと言ってくれた臣下たち
とっくに、そんな優しいものたちには背を向けてしまったのだ
「イシュタルがいない?」 訝しげなユリウスに、アーサーは黙って頷いた。 ここは、ユリウスの居室だった。常に暗い闇が漂い気分が悪くなる。 己の中に眠る雷と炎の血が、風のひとの守護が。光の血が声高に嫌悪を言い放っている。 「どうして?」 ユリウスは、とても不思議だ、といったように首を傾げた。奔放にあちらこちらへと移動するアーサーとは違い、イシュタルは従順で礼儀正しい。今までユリウスに勝手に行動したことなどなかったはずだ。 「さあ。お前があんまり虐めたから、嫌になったんじゃないのか」 アーサーの物言いに、ユリウスは心外だ、といったように目を丸くした。 「さあ。って言った?」 ユリウスの冷たい手が伸ばされて、アーサーの頤を掴んだ。ぐ、と呼吸が辛くなる。 けれどもアーサーはその赤い瞳を微塵も揺らすことなく、冷めた色合いを崩さない。 「アーサーが、イシュタルを飛ばしたんだよね?」 息が詰まった。だが、アーサーは動じない。
ユリウスは破顔し、指先を緩めて解放した。赤みを帯びていたアーサーの白い肌が一瞬に元に戻る。
「まあいいよ。ああ、早くイシュタルが戻ってきて、三人で遊びたいな」
あどけなく笑う様を見届けて、アーサーは部屋を出た。
「…………っが、は!」 扉を閉めた途端咳き込んで膝をついた主君に、ラインハルトは顔色を変えた。 「アーサー様」 「騒ぐな、問題ない」 アーサーの首筋は青紫色に腫れあがっていて、とても問題ないようには見えない。ですが、と言い募る声を退けてアーサーは歩を進めた。 「イシュタル様について、ブルーム様に報告してよろしかったのですか」 「おかしなことを言うな。伯父上に報告せずして誰に?」 くっ、と笑ってアーサーは笑う。主の賢さでわかっていないはずはない。 「イシュタル様がバーハラを離れたとなれば、ブルーム様は今度こそ本国に叛旗を翻すやもしれません。そうすれば人質も同然の御身に危険が……」 声を潜め囁かれた言葉に、アーサーは笑う。 「伯父上はそうするかもしれない。でも、俺は殺されない」
では、どうしてフリージが離反するやもしれない行動を?
ラインハルトの無言の問いかけに、アーサーは答えるつもりはないようであった。 「お前はマンスターに行け。レンスターは落とせないだろう」 ラインハルトは耳を疑った。バーハラにおいて、アーサーとイシュタルの地位は不安定なものだ。ラインハルトが彼らにつくと決まったとき、ブルーム自ら声をかけ、頼むと言ったほどであった。 それ以来主公ではなく、年若い二人が自らの主だと思って仕えてきたのだった。 「アーサー様?」 主はふと足を止め、ラインハルトを振り返った。その赤い瞳は憐憫と謝罪を秘め、けれども撤回の意思は見られない。 「イシュタルを」 アーサーは少し口ごもったように言葉をとめた。 「イシュタルを見つけたら、よろしく頼む」
それきり、今度こそ振り返ることなくアーサーは歩を進めていった。 数日後、バーハラを離れて北トラキアへと移動したラインハルトは、終にイシュタルに再会することなく命を散らすこととなる。 その報告を聞いた時、アーサーは小さく笑った。 自虐的で、嬉しげな笑みだった。
「ここ、は?」 イシュタルが目覚めたのは見知らぬ部屋だった。 途端香る砂の香り。 飛び起きようとすると、身体がずきりと痛む。炎に焼かれた傷跡は未だ完治しておらず、ひょっとすると痕に残っているかもしれない。 「目覚めたか」 イシュタルが視線をやると、そこにはシレジアグリーンの髪を結い、どこか不可思議な空気を纏っている男がいる。その瞳がきらりと金色に輝いた気がしたが、直ぐに翡翠のそれへと映った。
この男は、聖戦士だ。
彼女の抱く絶大な魔力がそれを教えたが、不思議と構える気の起きない男である。 「……私は、どうしてここにいるの」 男も既に、彼女が彼の素性に感づいていることは承知だったろう。それは彼女の素性についても同じ。ならば、互いを問いあう必要などなかった。 「アーサーがお前を送ったのを覚えているか」 イシュタルの瞳の色がさっと変わる。 「そうだわ……アーサーが、私にワープを発動させた……ここは、どこなの?」 「イードに程近い教会だ」 イード。通りで砂の香りがするわけだ。かつて戦闘禁止区域だった砂漠は、今ではイードマージ達によって恐怖の象徴とされている。ロプトゥスに子供達を捧げるという彼らの目的がために。 ロプトゥス。 イシュタルの脳裏がすっとクリアになった。まざまざと優しくて哀しくて、恐ろしい皇子を思い出す。 「ユリウス様」 戻らなくては、と感情が叫び、身体を起こそうとする。だが痛んだ身体は正直で、あの皇子の中に秘められた闇に怯えていた。 「お前が戻りたいというのであれば、私は止めることはできぬ」 イシュタルははっとしたように顔をあげた。男の顔は冷たく、感情が見られない。 「だが、傷を治す間くらいはここにいるといい。……闇から離れた場所で、考える時間も必要だろう」
男はそういい置いて出て行った。その時ようやく、イシュタルは自分が泣いていた事に気がついたのだった。
教会の人々は、あからさまに異質なイシュタルの銀の髪にも厭うことなく温かであった。 起き上がれるようになると、イシュタルは持ちえた知識で薬草を混ぜるのを手伝ったり、子供狩りから逃れている子供達に読み書きを教えたりした。 あどけない子供の仕草はイシュタルの心を慰め、体の傷を癒してくれる。それと同じくらい、彼女の心を苛んでいくのだ。 子供狩りは、どこまで進んでしまっただろう。バーハラに戻って、私にできることがあるのではないかしら。 けれども、あの地は惨劇を思い出させすぎ、否応なくアルヴィスへの憎しみを掻き立て、ユリウスへの恐怖を思い出させる。 アルヴィスは子供狩りには積極的ではなかったが、それはイシュタルには酷い欺瞞のように思えた。 欺瞞なのだと、声高に思っていた。
「イシュタルお姉ちゃん、大変」 子供達が悲鳴をあげるのを聞いて、イシュタルは布で拭いていた食器を置いた。砂漠では水は貴重だから洗い物に中々水は使えない。なのに絶えず舞っている砂がうっすらと降り積もってしまうものだから厄介なのだ。 「どうしたの?」 問いかけはしたが、イシュタルの中の魔力が返事よりも早く叫ぶ。 闇の波動だ。 イシュタルがそうなように、聖戦士の血族は誰しも闇の力を根源的に恐れている。身体に流れる血が叫ぶのだ。 「貴方達は奥に!神父様、お願いします」 「イシュタル、貴女も危険です」 「いいえ。……どうか、巻き込んでしまわぬように、遠くに」 イシュタルはサンダーの魔道書を持って外に駆け出した。粉塵の向こうに黒い影が見えた。それに、まとわりつくような闇の力がいやに不快だった。不快さを感じる自分を、また叱咤した。 イシュタルは、自分がいることを知らせるように大きな外套を羽織ると、ゆっくりと彼らの方に歩み寄る。 魔力は、限りなく抑えていた。この髪の色さえフードで隠れていれば、誰も彼女に気がつくことはないだろう。
「お前は、あの教会のものか」 「ええ。イード神殿の者たちが、あんな小さな教会に何のようなの?」 マージ達は、何の用かと問われてしたり、と笑った。その笑みは何故か懐かしく、イシュタルに怖れを抱かせた。 「復讐だと言ったら?」 「ロプト教が弾圧された時代のことを言っているの?けれど、あの教会の神父様は虫を仕留めるにもお祈りしながらするような方よ」 どうして、こんなにも理性的になっているのだか。イシュタルは自分が滑稽に感じた。 けして、彼らが自分と同勢力だとか、そういったことを思っているわけでもないのに。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ だが、けしてそういう存在だからとか、信じるものが違うとか、そんなことで人を敵にしてはいけないのだ。
イードマージが教会を見逃してくれたら、やはりバーハラに戻ろう。ユリウスが怖いなんて不確かな理由で手酷く跳ね付けるなんて、きっと傷つけてしまった。
イードマージは、イシュタルの様子にふ、と笑いを見せた。それが、解ってくれたのか、小さな教会をエッダのものだからと襲うことはよしてくれたのか。そう思ってイシュタルはほっと息をつく。 「でも、あの教会は子供を匿っているのだろう」 イシュタルの背筋が、ひやりと冷えた。 子供隠しは、グランベルでは重罪だ。 「そんなことはしていないわ。もう、この辺りに子供はいない」 知らぬ顔をして、追い払えばいい。外套の下でイシュタルは魔道書を握り締める。この教会に差し向けられた者達が行方を途絶えたとすれば、イード神殿の本隊が動いてしまう。 だが否定するイシュタルの様子に、イードマージはクスクスと笑うのみである。
後方で、幼い悲鳴があがった。
イシュタルははっと振り返った。どうして気がつかなかった?背後で現出した闇の気配……自分と同じように、魔力を抑えていたのだ! 「帝国に、逆らいなどするからだ」 イードマージは嘲笑してヨツムンガントを解放する。
帝国?
皇帝アルヴィスの治める、この法治国家。
私が、ずっといた。この国。
記憶の彼方で優しい声が言う。
(弱い者が侵されることがなく。強い者はその責を全うし。誰が、何を信じていたとしても許される、平和な国だ)
――――うそつき!
「貴様等……っ!」 発動の言葉など必要ない。思うだけで雷精は彼女に従う。 それが、血脈を継ぐ彼女の力であり、雷神と称される所以である。
子供が泣くのも。 許された信仰が、人の心を蝕むのも。 ユリウスが、悲しくて、切ないのも。
……アーサーが、自分を逃がしたのも。
「これが……その、理想の国の末路か……アルヴィスっ!!」
「どうした、ティニー?」 「いえ……伯父様。北に、雷柱がたったように思えて……気のせいだったのでしょうか」 ティニーは進められる戦準備に憂いを隠せず、ブルームを振り返った。 「それより伯父様、リーフ王子や……解放軍と戦うのですか?」 「反乱軍だ」 「……」 バーハラに、もはやイシュタルはいない。けれどもアーサーは未だバーハラに留まり、子供狩りの制止や重税の緩和に奔走してる。何度呼んでも、戻っては来ない。 「我々はフリージだ。そして、積み重なった圧政を、レンスター王子が許すことはないだろう」 「……どうして、にいさま」 ブルームにとって、イシュタルの行方が知れない今、ティニーとアーサーは子供同然だっただろう。アーサーがバーハラにいる限り、裏切れなどしない。そして、許されもしない。 「……私は、メルゲンの守りにつきます。伯父様」 「お前も、とうに見限っても良いのだぞ」 「いいえ……私は、にいさまが」 そこで、ティニーは力なく首を振った。 兄は彼女を逃がしたというのに、どうして兄はバーハラに留まり続けるのか。私の言葉は、兄の呪縛を解くには足りないのだろうか?
「既に、このフリージに守るべき誇りなどは存在しない」
ブルームは重く息を吐いた。既に彼は、誇りよりも家族を選んでしまったのだ。
朽ちた呪縛と気がつかずに、もしくはとうに自覚していて? 絡まれながら、駆けていく。
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