これだけは、と決めていたことがある
ぴちょん
水の落ちる音で、イシュタルは目が覚めた。 身体に走る激痛に目の前が眩む。起き上がろうとしたがそれは叶わなかった。 「お目覚めですか」 「……サイアス司祭……?」 赤い髪をした青年は、柔らかな笑顔を浮かべてイシュタルの方に歩み寄った。手に持たれた水差しの音だったのだろう。コップに注がれた水をイシュタルは受け取った。 「無理をなさいますな」 柔らかい懸念の声に、イシュタルは俯いた。幾度となく続けられてきた問答である。彼女がアルヴィスの命を狙う度に。心底悔しいと思う。いっそ殺せ、と叫んだこととてあったというのに。 「……私は、また陛下に温情をかけられたということですね」 ファラフレイムを受け継ぐ、偉大なる皇帝。彼にとっては小娘の反抗など物の数にもならないものなのだろう。同時に、彼女が本当に叛逆などしないだろうと高をくくっているのだ。 「ユリウス殿下の、再三の求めもあったようです」 サイアスの言葉に、イシュタルはなんとも複雑そうな顔をする。 「私は、あの方が恐ろしい」 一族諸共、と恨み言を抱く気はない。だが皇帝の血を継ぐあの皇子に、十二の頃に顔合わせをしたときから、イシュタルは薄ら寒い恐怖を彼に抱き続けていた。優しく慕ってはくれるが、時に残虐な紅の皇子。 イシュタルは首を振ると、身体を起こした。
「レンスターの方はどうですか」 「ブルーム王が鎮圧を始めています。私も近日あちらへ向かうかもしれません」 「私も向かえると良いのだけれど」 イシュタルは自嘲げに笑った。幾度となく皇帝の命を狙っても、ここを去る気は起きない。去れば今度こそ叛逆者の印がフリージに捺されるかもしれないと、この身が憂うのはおかしいだろうか。 (私がここにいるために、父上が子供狩りを容認せざるを得ないとしたら) イシュタルとアーサーが帝国を離れれば、父は今度こそ今の帝国に。皇帝アルヴィスに叛旗を翻す機会になる。 父の元にいるティニーが、何度となくそう訴えていたのに。それでもバーハラを離れたくないと思うのはどうしてなのだろう。 (アーサー) 彼女の従弟。炎の血にとっても、雷の血にとっても。 (私は、ずっと前から決めてしまっていた。母上の仇を、陛下を殺すと。でもアーサーにとっては) 長い溜息をつく麗人に、サイアスは優しげに話しかける。 「今は、ゆっくりと傷を癒すことです」
微笑みからは、殺意は一欠けらも伺えない。
「皇帝陛下が、もう貴女は抗わないと油断するまで」
イシュタルはフリージの公女であり、アルスター王国の王女である。 十二の頃までシレジアで隠れ育ったが、母ヒルダは厳格な教師であった。ヒルダは持てる限りの教育を彼女と、彼女の双子の兄に教え込み、賢者の卵へと育て上げた。 時たま忍んで訪れる父ブルームは、何者かの監視に常に晒されているらしい。やってくるたびに母と難しい話をしているのを知っていた。 生活は厳しかったが辛いものではなく、跡形もなく崩されるまで、それが壊れることを予測していなかった。 ある時忽然と現れた黒い聖職者が兄の命を奪い、母を殺した。皇帝の命令でやってきたというその老人にイシュタルは連れ攫われ、一時的に記憶を奪われたのである。
記憶が奪われている間は、平和だった。 母を殺した母の弟……アルヴィスに微笑みさえしていたのだ私は! 成長に従い強まった魔力が封印を解いた後、むしろ己への怒りに鳥肌がたった。
その日のうちにアルヴィスを殺しに出向いたイシュタルは、容易くうち伏された。 そして、言われたのだ。
(遊びは相手を選んでやるがいい)
母上を殺させたくせに!!
イシュタルは物憂げな表情で窓の外を見つめていた。 ふと、肌を粟立たせる気配を感じて扉の方に視線を向ける。侍女が来訪を告げたのはその直後であった。 「ユリウス殿下がお見舞いにおいでです」 「お通しして」 扉の向こうには、バスケットを抱えたユリウスが心配そうな視線を向けていた。 まだ微笑みを浮かべることができる。 イシュタルは笑顔で皇子を出迎えた。
「ありがとうございます、ユリウス様」 「礼など気にしなくてもいい。それよりイシュタル、見舞いを持ってきたんだ」 なんですか?と穏やかに微笑む娘に、ユリウスはやはり笑顔でバスケットの中身を見せた。 「赤い花だよ」 むんず、とそのうち一つを掴んで、ユリウスはイシュタルの目の前に突き出した。
「……嫌!」 ぱしん、とイシュタルはユリウスの手を払いのけた。その手に掴まれた小鳥の首がぽんと飛ぶ。 ユリウスの目にさっと浮かんだ哀しみに、イシュタルは悔恨を感じたが、それ以上に血が叫ぶ恐怖に後ずさった。 「あ、ユリ、ウス、様」 途切れ途切れの声を少年にかけるが、イシュタルは直後にぎょっとした。ユリウスの瞳はどす黒い赤に変じており、ぎょろぎょろとした爬虫類の目をしている。 「酷いよイシュタル」 ユリウスがするり、と手を伸ばす。イシュタルは大きく間を取ろうとしたがそれもできず、手首をとられた。 「あつっ!」 ユリウスの手が、痛い。熱は感じないのに、炎で焼かれたような痛さがあった。 少年は思わず目を閉じたイシュタルに顔を寄せると、甘い声音で囁く。 「私はイシュタルの、見舞いにきたのだぞ」 背筋を攫っていく恐怖。目を閉じたままでいるのが怖くて彼女は瞳を開けたが、直ぐに後悔した。 爛々とした紅の瞳は、赤いのに黒い。闇の暗さがそこにある。
こわい、こわい、こわい!!
バン、と扉が開けられた。
「ユリウス、伯父上がお呼びだ」 イシュタルの瞳を縛っていた、瞳がつい、とずれた。興がそがれたような面持ちでユリウスが振り返る。 そこには、印象こそ異なるものの、イシュタルとよく似た少年が居た。 銀に紫を散らしたような紫銀の髪を一つに結わえ、紅の瞳が向けられる。 イシュタルの美しさが女神のそれだとすれば、少年の美しさは精霊のようなものだった。 「父上が、なんと?」 「子供狩りについてじゃねえか」 ユリウスは、ここにはいない父親に呆れたように肩を竦めると、一転して優しげな顔でイシュタルを振り返る。 「早く良くなれ。見舞いはここに置いていく」 イシュタルはがくがくと震えながら、やっとのことで頷いた。ユリウスはそれに満足そうにして立ち去る。
扉が閉まった。
「……イシュタル、大丈夫か?」 「……アーサー……!」 イシュタルは、零れる涙を抑えきれず落涙する。傍らに置かれた赤いブーケにはけして視線をやらない。 「私は」 復讐をする、とアルヴィスを見つめる時あれほど強い眼差しをする娘が、今は憐れに身を震わせていた。
「私は、ユリウス様が恐ろしい……!」
その瞳に映るものは、だがけして嫌悪ではない。優しさも知っている者の変調への、純然とした悲哀である。 彼女はユリウスが、本当にユリウスであった時を知らないが、それでもユリウスを想うのは彼女の優しさだろう。けして、復讐が似合う娘ではないのだ。 アーサーはただ瞳を伏せた。限界だ。
「イシュタル」
微妙に音の波が変わった。イシュタルは涙に濡れた顔をあげ、訝しげにアーサーを見る。 「これは、ずっと前から決めていたことだったよ」 左手を持ち上げると、そこには指輪が握られていた。アーサーは無理やりイシュタルの手に握らせると、一言だけ魔法の言葉を呟いた。 「アーサー!?」 けれども既に魔法は発動し、唯一度の指輪の魔力が発動を始める。イシュタルの部屋一杯に広がる魔法陣に巻き込まれまいと、アーサーは距離をとった。 「何を、したの!?」 「直ぐにわかる」 その道が、光に輝くものになるように、と少年は思った。 どうか、復讐にかられたものではないように。
「お前は、お前の生きる道を選べ」 「ア」 ワープが発動し、イシュタルの姿は忽然と消えた。 「……イシュタルは頼みます。レヴィン様」 アーサーは長い溜息をつくと、その部屋を後にした。
「アーサー、イシュタルはどうだった?」 「さあ。少し思い悩んでいたようだったけど」 アーサーは何でもないような声音でユリウスの前を通り過ぎ、サイアスの部屋をノックした。 「司祭、いる?」 「これは、アーサー公子。どうなさいましたか」 「イシュタルは逃がした」 サイアスはぴたりと作業の手を休めると、赤い目を上げた。 「お前の復讐に、彼女を使うのはもう無理だ」
アーサーはそれだけを告げると、背を向けて部屋を後にする。 残されたサイアスは俯いて。けして声には出せぬ独白を思った。
(だが、終わりはしない)
稀代の天才軍師と呼ばれる、ファラフレイムの隠された継承者。 サイアスは既に、悲痛な眼差しを浮かべるほどに幼くはない。
アーサーは、遠いイザークの方角を見つめながら考えた。 解放の狼煙は、イザークであがるだろう。 レンスターの奪還も、困難を極めるだろう。
彼は既に、決めていた。イシュタル、ティニー、彼の愛する家族達。
(ユリウスから逃げたくなったら、俺が絶対に逃がしてやる)
だがけして、俺は逃げないのだ。 パチリと静電気がとび、アーサーは視線を逸らした。
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