低く、高く、皇かに
聖歌は響く 別れを予感して
「いかがですの?」 彼女は笑って続ける 「褒め称えてもよろしいのですのよ」
「意外な特技だったな」 「まあ、その言い草はなんですの!」
ラーチェルがフォルデに通告した、ファードの討伐が済んだ後の約束だった。ラーチェルなりに心の慰めになることを考えたのだろう。それにしては選択肢が少なかったような気もするが。 確かに自慢するだけの事はある。幼い頃より練習を続けたのであろう彼女の聖歌は、さっぱり縁のないエフラムでも落ち着くものがある。 元々マギヴァルは魔王の伝説の残る地だ。それに代わる神信仰が根深い大地であるし、エフラムも幼い頃から触れてきているはずである。覚えてはいないが。 「わたくしの帰国の前に、このような美声を聞くことが出来て感謝するべきですわ」 「ああ、明日だったか」 淡白な言葉にラーチェルの眉が少し下がった。「ええ」 大抵鈍感だのなんだのと言われるエフラムだが、温度がふわりと下がったのを気づいたのだろうか、それとも単に常の言葉少ななが発揮されたのか、聖堂に佇む二人の間には、それから沈黙が舞い降りていた。
ルネスの聖堂は、戦争の災厄を免れたものの一つだった。裏に控えるのが魔王だとしても、率いるのは信心深いグラド兵であったからだろうか。山賊も天罰を恐れたのか。ルネス城下のものもそうだが、城内の外れに用意された王族の個人的な聖堂も、また無事な姿をとどめていた。 古い建物には独特の深みがある。魔王を封じた伝説の時より歴史を紡いできたルネスの神殿も、また静かに歴史を讃えている。この静謐で気高い空間が、エフラムは誰より似合わないような男だ。聖堂でさえ戦場の香りを纏っている男は、だが、戦場でも聖堂に佇んでいるのかもしれない、と微かに思った。
結局、エフラムはその隣に、誰も置かないのだ。 当たり前のように人を受け入れるのに、誰にも頼ろうとはしないのだ。
(それが悔しくもあり、寂しくもある)
エフラムの気高い横顔を見つめながらラーチェルは寂しさに浸った。次はいつ、この横顔を見つめる日がくるだろうか。 「すまなかったな」 「……何がですの?」 碧の瞳が向けられた。切れ長の青い炎だ。 「君の休暇をいくつか潰しただろう。ルネスも随分復興して、見所はあっただろうに」 「全くですわ」 「それに、俺は仕事が積まれていて、ろくに相手をしてやれなかった」 ラーチェルは言葉に詰まった。彼女からすれば、ここはつんとそっぽを向いてやり、「貴方に会いにきたわけではありませんから、気にしてませんわ」と済ますところであった。
「……全く、ですわ」
エイリークに会いに来たのだ。エフラムが忙しかろうと、風邪を引こうと、怪我をしようと。……辛かろうと関係ない。
「あなたは仕事仕事と、わたくしに構ってくれなくて」
自分もこの男も、王になるのだ。独りなんて平気だ。国がある。民が居る。友達だっていてくれる。それだけで重たい錫杖を手にして世界の頂点にだって立つことができる。
「一人で勝手に傷ついて」
でもその玉座には
「勝手に悩んで……」
独りで座るには大きく
「わたくしのこんな失言を、止めてもくださらない……っ」
あなたは横に居ないだろう
(こんなに感傷的になってしまうのは、きっとこれが最後だからだ)
エフラムは目を見開いて、しばらくずっと黙っていた。ラーチェルはこの男がどれだけ鈍感でデリカシーがなく、配慮が無いかを知っている。彼女の言葉の真意が、読み取れなかったに違いない。 「ラーチェル?」 だというのにこんなことを口走ってしまう己が悔しく、どこか惨めに思った。 こんなものは、未練に過ぎない。
「……長居をしましたわ」 ラーチェルは立ち上がり衣服を払うと、聖堂の出口へと歩き出した。エフラムもそれに続く。 重い扉は僅かに開き、外気と陽光を聖堂へと滑り込ませている。その光に瞬きをしながら、ラーチェルは振り返ることなく進んだ。 「わたくしは、わたくしの民を幸せにする責務があります。あなたが、ルネスの民を幸せにする責務があるように」 少し唇だけ笑みの形に歪めて、ラーチェルは続ける。 「そして、わたくし達も、愛してくださったお父様やお母様のために、幸せにならなければならないのですわ」 だからラーチェルは泣かないし、これで幸せになってみせるのだ。 エフラムは数度瞬きをし、似合わなく瞳を伏せた。 「幸せに」 「そうですわ」 「誰かを」
エフラムは瞳を震わせて、囁き声で呟いた。
「不幸にしてもか」
ラーチェルの平手が飛んだ。避けられる。ラーチェルは当たらないことに悔しげにしたが、エフラムは充分驚いていたようだった。 「あなたは、エイリークの幸せを望んでいませんの?」 「望んでいるに、決まっている」 「でしたら!」
「あなたが幸せになることが、望まれているのも。わかっているはずですわ」
ラーチェルは唇を震わせた。振り返ってしまった。 エフラムの碧の瞳は不躾にラーチェルを映し、静かに視線が合う。 決して惑わすような視線ではない。全てを貫く真っ直ぐな瞳だ。この瞳に映ることが誇らしく、嬉しく、また、落ち着かない気持ちにさせる。自らをもっと磨かねばならないと感ずる。 この男に、負けられない。
「エフラムが幸せになることを、わたくしも、望んでいるのですわ」
だが今は耐え切れなくて、ラーチェルは視線を外すと駆け出した。聖堂の出口は直ぐそこだ。そこからは陽光が溢れている。静謐で、気高い。エフラムのいる空間から飛び出すことができる。 そして自分はロストンに帰るのだ。 王となって、ロストンの民を、マギ・ヴァルの民を幸せにする。 対等の地位でいつかまたエフラムと再会し、今度は友人として笑えるだろう。 両親が望んでくれていたように、叔父が願っていてくれるように。エイリークが笑ってくれるように、ドズラが心待ちにしているように。 幸せなラーチェルに、なることができる。
けれどもデリカシーのない男は何にも気づかず、何でもなさそうに言った。 淡白な言葉がラーチェルを追いかけ、涙を零させて堪らない。
「幸せになるなら、君とがいい」
ああ、自分も魔王になってしまおうか。エフラムは一度殺されてしまったほうがいいに違いない。 こんなにも人を惑わせて、何でもなさそうにしている男。
わたくしは、この男が好きだ。 わたくしは、この男が嫌いだ。
太陽のような人で、憧れを振りまきっぱなし。 自覚は足りない。勤勉さも足りない。礼儀だって足りない。 エフラムはエフラムでいるだけで、そんなものを全て吹き飛ばしてしまう。
ラーチェルはけして振り向かず、聖堂を飛び出した。そして、それを後悔した。 聖堂の外は煌く陽光と緑の木々。涙で歪むその視界。
逃げさせてもくれない、ひどい男め。
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