「兄上!」
城へと帰還したエフラムに、エイリークは顔色青醒めて駆け寄った ラーチェルはそれを見ていた 天候の悪さに誰も気がつかないけれど、血の気の引いた顔
「大丈夫、ですか」
妹姫の重ねてきた手を兄王はそっと握り返して 二人並んで進む双子
彼らは魔王を下すほどに強く 彼らは人々を導く光であり 彼らは互いに手を取らなければ倒れてしまうほどに弱い
(それでも進んで)
(わたくしは、支えてなどやれない)
夜のしんと静まった空気の中のことである。 ラーチェルは宮殿の奥深く、普段客人としては訪れることがない場所にやってきていた。 従来鍵のかけられているはずの宮は開けられており、月の光が微かに差し込んでいる。 (無用心ですわ) ラーチェルはそう思いながら一つの絵画を見つめている。月明かりのみが頼りだ。 碧の髪。碧の瞳。従兄妹同士であったという王と王妃の姿は、どこか己の知る双子の姿に似ている。似ていなくてはおかしいのだけれども。
ギィ
鈍い音がして、宮の中に差し込む月の光が強さを増した。 ああ、そうだ。と彼女は思う。わたくしはこれを予想していた。 無用心なのではなく、敬愛される唯一人の主のために開けられていたのだ。
「エフラム」
「ラーチェル?」
扉を開け放ったままに、エフラムは歩を進めた。そしてラーチェルと同じように絵画を見上げる。正確には肖像画を。 「よくぞ、お戻りになりました」 「ああ」 「エイリークには何とお伝えしたんですの?」 「そのままだ」 「そのまま?」 「ああ」 エフラムはじっと肖像画を見つめながら続けた。 「とても、顔を見せてはやれない、と」 ラーチェルはその言葉に押し黙り、ただ月明かりに照らされた絵を見上げるのみとした。どれだけ黄泉返り人が腐敗を免れるのかを彼女は知らなかった。
二人が見上げているものは、肖像画である。 大きさは1000号程であるだろうか。天井から一杯に下げられた絵。 常駐の宮廷人に画家のいないルネスでは、国内の有名な画家をその都度呼び寄せ描かせているはずだ。同じように描かれた妹との絵もエフラムは知っている。 けれども戦争時にその画家は死別していて、その技術を継ぐものも絶えてしまったという。 だから、こうした絵はもう二度と描かれる事は無い。こうした、人の絵は。
描かれているのは王と王妃であった。碧の髪に碧の瞳。エフラムとエイリークによく似たその人たち。元々従兄妹同士であったそうで、だからこそ、エフラムとエイリークには他に親族がいない。 二人は、双子の父と母だ。 双子にとっては記憶の無い母である。 ラーチェルは彼らが幼い時に亡くなったという王妃の名は知らなかったが、その傍らに描かれた王の名は知っていた。名をファードという。屈指の猛将であり、隣国と一層の親交を深めた王。 彼女がその顔を見たのは、この肖像画が始めてである。 だが、勿論エフラムは違うはずだ――。 (彼が見た最後の顔は、彼が父王を殺した時なのだから) ラーチェルは、そっとエフラムの横顔を覗き見た。感情は豊かでありながら、エフラムの表情はさして変わることが無い。今もそれは同じで、月明かりの下では僅かな変化も読み取れそうに無い。 けれどもか細い光の下で見ると、頬を伝う光が涙のようでもあり、思わずラーチェルは口を開いていた。
「わたくしは、あなたがそんなに弱い方だとは知りませんでした」
エフラムは驚いたようだった。若干不思議そうな顔をして彼女の方に視線を送る。立腹するかとも思ったが、エフラムはそうはしなかった。 「そうだな」 「どうしてそんなにあっさり認めになりますの?」 肯定したエフラムが不思議でラーチェルは不満を洩らす。まったく矛盾したラーチェルの物言いではあるが、いつものことと特にエフラムは気にした様子は無い。 「俺は、槍や戦の指揮なら自信があるが他ではそうもいかない。剣の扱いではヨシュアに適わないし、弓を扱わせたらヒーニアスがやはり、一番だろう。魔法の類はさっぱりだしな。それは、先の戦いでよく解っている」 それに、とエフラムは続けた。視線は絵へと戻しているが見ているわけではなさそうである。 「先の戦いでは、俺は様々な者に支えられているのだと知らされたな」 唇がリオン、という形を作ったが、音にはならない。おそらく気が咎めたのであろう。
「俺も、あんなに弱い心が俺にあるとは知らなかったさ」
ラーチェルはぐ、と唇を引き結んでその横顔を見つめた。 ロストンで憔悴した表情を思い出す。この常に自信に溢れている男がその光を翳ませて。後ろなど振り返りもしなかったのに、初めて叱咤激励する彼女を見つめてきた。
もう逃げられないと思ったのはその時だった。
(でも逃げなきゃいけない)
心の中で鳴らされる警鐘に知らない振りをして、ラーチェルは言葉を続ける。
「でもわたくしは、あなたがこんなに強い方だとも、知りませんでした」
「君は、何を言いたいのかよく解らない」 「もともと、あなたがそれほど繊細とは思っていませんわ」 でも、とラーチェル。 「あなたは弱さを乗り越えなくてはいけませんわ。弱さを知らせてはいけませんの。……だって、エフラムは王なんですもの。そして、英雄なのですわ」 月明かりに照らされて、ロストン王女は気高く大理石の上に立っていた。いつか、この唇から出る言葉が神の代弁と讃えられるようになるのだ。エフラムはさして神を信仰しているわけでは無いが、彼女の言葉にそれを信じるものもいるのだろう、と当たり前のように思えた。 華奢な腕は剣を持つものではなく、エフラムには馴染みが薄い。 「未だ大戦の影響は濃く、人々は絶望しています。その人々が希望の名をもって呼ぶ名。碧空の王。それを、あなたはやりとげなくてはいけませんわ」 既に二人は肖像画を見つめることなく、ただ互いの瞳を睨みあっている。等しく、王となるために育ってきた二人であった。 王女に睨みつけられるエフラムは、細身ではあったが決して華奢とは言えない。幼い頃より野外を好み、馬と戯れ、槍を振るってきた結果だ。冷たさを覚えさせる吊り目がちの瞳は青い焔を宿したように熱く、月光より陽光が似合う。 ルネス王は、ふとその薄い唇を動かした。 「どうして、君が泣くんだ」 ラーチェルの白い肌に――活発に行動する彼女だから、病的な白さではなかったが――涙が次々と伝っていた。月光で青さが宿る。 「あなたが、弱いからですわ」
年頃は妙齢であるはずなのに、どこか幼ささえ感じさせる声音で続けた。我侭だ、と自覚しているような響きだった。
「あなたと共に、あなたの背負う世界を、見つめて生きたいと思うからですわ」
どうして強くあってくれないのか。と彼女は罵った。 そうすれば、わたくしは心の中に天秤をもって惑う必要などなかったというのに。
「――俺は」
呆然と呟く青年に対して、ラーチェルは小さく首を振って笑顔を浮かべてみせた。 「明日は、わたくしがルネスに滞在できる最後の日ですの。明後日に帰還ですから」 「…そうか。相手をしてやれなくて悪かった」 「いいですわ。始めから期待なんてしていませんでしたもの」
娘は、微笑んで続ける。
「…あした、会えますの?」
「ああ。わかった」
「約束ですわよ」
ラーチェルは奥宮を立ち去った。いつの間にか月は雲に隠されて、翳っている。エフラムは黙って両親の肖像を振り仰ぐ。 既に暗闇で見ることの出来ない、自分と同じ色を宿した人たち。 同じように、その肖像を見上げていた友人。
あんなに綺麗な彼女は、始めて見たと思った。
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