「よし。フォルデだけ着いて来い」
廃村となった場所 残された小さな砦
……地下室
そこで待ち受けていたのは――
踏み入った時に、まず感じたのはひやりとした冷気だった。春の暖かな空気にも関わらず冷たく澱んだ空気は、闇の樹海の空気をフォルデに思い出させる。 フォルデがあの神殿に立ち入ったのは全てが終った後であったし、ゼトから聞くものでしかなかったが、それでも魔王の残り香は直前に行われた戦いの激しさを思わせるものだった。 そこの、空気に似ている。 ……ような気がする。 戦いを終えた後の、闇の遺跡の気配。 嫉妬も羨望も希望も憧憬も悲哀も愛情も、全て黒い絵の具で塗りこめてしまった気配だった。
二人の視界に、小さく反応したものが映って細かく反応する二人。エフラムはレギンレイヴを持っていたが、フォルデが持っているのは銀の剣だった。室内で振り回すことを考えた上での選択だ。もう片方の手に握ったランプを突き出す。 闇の中に浮かび上がったのは壮年の男だった。大き目の椅子に座っている。 褪せた碧の髪に澱んだ対の瞳。かさついた肌に血の気はなく、体つきにもどこか違和感を感じさせる。 (ファード様) フォルデは口に出さないで舌打ちを放った。彼はゼトではなく、カイルではなく、また、オルソンでもなく、まさか弟であるわけもなかった。フォルデの父は確かにファードに仕えていたし、フォルデ自身もエフラム付きとなっても、名目上は全て王の家臣であった。 けれども、フォルデが主君と認めたのはかつてエフラムだけであったので、フォルデはその男に敬愛を感じるわけでもなく、ただ、ああこんなものが存在してしまった、と言う悔悟を思う。 やや前にいるエフラムはどんな顔をしているだろうか。 フォルデは予想がついたけれど知らない振りをしている。
「……父上」
エフラムが洩らした声は静かで落ち着いたものであった。人が聞けば、とうにしっかりと覚悟を決めたものだと思えただろう(生憎フォルデは聡い男だったので、そうではないと思っていた) 音に反応するように、ファードの形をしたものが動いた。唇を押し開く。
「エフラム」
なるほどこれは恐ろしい、とフォルデは思った。ファードの形をしたものから聞かされるエフラムの声はどこか幼く、戦争の前を思い出させた。つまり、これは残像なのだ。奔放で我侭に駆けていたエフラムの。 エフラムは槍を構えた。フォルデは止めなかった。 止めたのは、もっと別のものである。
衣擦れの音がしてさらに奥に気配を感じる。フォルデは警戒を走らせてエフラムの前に出るべきかと思案した。だが、止めた。エフラムはその気配に槍を突くことを静止されている。 次いで聞こえたのは寝惚けたような鼻声である。こんな気配の充満する場所で、よくも眠れるものだ、とフォルデは一人で考える。この目の前にいる人であれば別だろうが(主君は広大な空そのもののような人だったので) 「誰だ」 誰何の声に、寝惚けた空気がピンと張った。続いて幾つかの音。 かつて闇魔道士のノールが着ていたような衣を纏い、闇から光へと出てきたのは思いもよらず少年だった。 そこでフォルデはまた、違和感を覚えた。
緊張に紅潮した頬。サラサラと流れる黒い髪。病的に白い肌。
「エフラム様……?」
少年は、憧憬と尊敬と思慕といったような、あらゆる好意の意を込めた声音で主君の名を呼んだ。
(デジャ・ブだ)
フォルデは記憶力がいい。これはあまり知られていないことだった。長文的な暗記には向いてはいなかったので、気がつかれないままであった。 彼は一片的な光景をそのままとっておくことができた。それは後々になってもフォルデの中で色鮮やかに蘇り、時にそれは情報の一つとなり、時に絵となった。 エフラムが槍を構えた時の凛々しさや、エイリークが花冠を被って回る可憐さ。フランツが始めて歩いた時。空を一筋となって駆けるヴァネッサの勇姿。真面目なカイルが恋愛相談に来たときの情けない様子。 それら様々な場面を自分の中にしまってあるように、その時のこともフォルデの中には眠っていた。あれはルネスを解放したばかりの頃だった。
ルネスには、国民が自由に昇れる塔がある。純粋に国民のために築かれたという塔は最上部が大きめに取られており、螺旋階段も余裕がもって作られている。城を眼下に納めることができるのも、またここだけだった。 勿論城以上に高い塔ではなかったけれども、それでも城壁は越える。弓を放つにしてはかなり離れているので大丈夫なはずだが、ヒーニアスなどがやってくれば無用心な、と怒り出したかもしれなかった。
その少年は、塔にいた。
復興に忙しいルネス。塔からでは満足にバルコニーに出てくる双子の姿も捉えられないので、ほとんどはもっと城に近い位置へと走ったし、そうでなければ木材や石材を運んで忙しい。 戦争孤児だと思わなかったのは、決して幼くなかったからではない。むしろ、年齢とは不相応に幼く感じらる少年だった。 彼を憐れなこどもだと思わなかったのは、纏っているのが黒いローブであったからだった。喪服ではない。闇魔道士が好んで纏うものであるとフォルデは気がついた。ひょっとしたらグラドの残党かもしれない、という考えがまず浮かんだ。 だが少年は、フォルデの軍靴が音を立てても振り返りはしなかった。塔から乗り出して、じっと城の方角を見つめている。 カツ、と音を立てて傍に立ったとき、ようやっと少年は訝しげにフォルデの方を見た。黒々とした光のない瞳だった。 「知ってます、騎士様」 「俺を?」 「うん。いつもエフラム様を守ってる騎士様ですよね」 フォルデは懸念は杞憂であった、と思った。少年は凡庸な民衆だった。届かない場所にいる貴人を純然に慕い、憧れ、敬慕している声音である。
「ねえ、エフラム様はお元気ですか?怪我とかしてませんか?……大丈夫ですよね、エフラム様は強いもの」 エフラムと繋がりのある騎士だと認めたためか、少年は名前も知らないフォルデに対して饒舌になった。けれどもそれも民衆に過ぎなく、フォルデは幾分か心を落ち着かせそれに答えた。 「あの人は負けないぜ。なんたってエフラム様だからな」 「そうだよね」 少年は溜まらなく嬉しそうに笑った。フォルデも嬉しくなって笑う。 「でも、可哀相エフラム様」 少年から出てきた言葉にフォルデは直ぐに言葉を返しはしなかった。 「お父さんが亡くなられて」 ファード様が、とか国王陛下が、とは言わない。これは年がエフラムに近いためだろうか?少なくとも、少年の中心はエフラムのように感じられた。
「ねえ騎士様」
「エフラム様は、きっとお父さんに会いたいよね」
少年の声音は、民衆のそれとは違った。フォルデはだから、この瞬間の光景を覚えている。 自分にできることと、己のやりたいことをしっかりと捉えている瞳だったせいだ。
フォルデは少し考えた。エフラムはファードに会いたいだろうか。
「そうだな」
頷いた。
少年は安堵したように微笑み、そうだ、と何度か繰り返す。その瞳は確固とした信念に輝いていた。 (狂気とも呼ぶ)
エフラムは、呆然と立っていた。目の前には血の赤が広がっている。フォルデが銀の剣をふると、銀色の剣から血が振るい落とされる。 「死体盗難、幼児誘拐、及び殺傷。……闇魔道に関する十の禁忌における、一、黄泉返りの禁止に触れています」 少年の寝床は、臓物の海だった。腐敗処理を施すために、薬品の香りで嗅覚が鈍る。 少年の手は中途に伸ばされたまま崩れ落ちており、エフラムの頬に触れることは無かった。
「俺は、こいつに会ったことがある。一度だけだ」 「俺もあります。エフラム様を慕っているようでした」 「こいつに何もしてやれてなんていない」 「それでもです」
エフラムの言葉が詰まった。フォルデが声一つかけず切り捨てた少年は、至福の時にあるかのように微笑んでいる。
「それでも、この少年はエフラム様のために、ファード様の黄泉返りをしてみせたんでしょう」
エフラム、と繰言のようにファードの形をしたものが呼んでくる。エフラム、エフラム。フォルデはこのかつての王の姿をしていながら、エフラムの声で話すものを主君の前から消すことが出来れば、と願った。やらないけども。
「俺のためにか」 「そうです」
カイルや、いやゼトであってももう少し配慮ある言葉をかけていただろう。けれどもフォルデはそれをしない。エフラムがそう望んでいるからだ。 エフラムの声で、また一つエフラムの名が呼ばれる。少年は、心から。エフラムが喜ぶに違いないと思っていたはずだ。 エフラム。また一つ呼ばれる。それに動かされるように、エフラムは少年の遺体から視線をずらした。 「俺がやりましょうか」 「いや、俺がやる」 かつて女の姿をしたものへも、同じ問答が繰り広げられていた。異なっていたのは、フォルデは言葉を発しただけで、自分がやることになるだろう、とは思っていなかったことだ。
(父上)
エフラムはレギンレイヴを突き刺しながらここにはいないファードの魂に向かって話しかけていた。
(俺のため、ですか)
澱んだ碧の瞳が閉じていく。
ここ暫くの間に命を落とした幾人か。 いつからか心を壊していた少年。 見つからなかった父の頭部。
全部俺のためにされたらしい。エフラムはそう繰り返すと覚えた吐き気を飲み込んだ。
「戻りましょう、エフラム様。この場は他に任せていいですよ」 時間にすれば半刻にも満たないが、長い時間であったかのようにフォルデは言った。ああ、とエフラムが気のない返事を返す。 「ラーチェル王女に、頼まれてるんですよ」 「ラーチェルに?」
「はい。戻ったら杖で殴るのと光の書で殴るのと」 「どちらも殴るのか」 「それとも、麗しくも清らかな可憐な聖王女ラーチェルの妙なる美声、聖歌を聞いて見るのとどれがいいか聞いてこいと」
エフラムは目を見開いてフォルデを見やると、一つ嘆息した。
「珠に可愛すぎるんだよ、あいつは」
けれどもその声音は、どこか無理したものだった。
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