「……動け」
暗闇に響く声に答える姿がある それは不恰好だった それは愚鈍だった それでも、彼の瞳には素晴らしく思えた
あのひとのために あのひとのために
その日もエフラムは朝から姿を見せなかった。エイリークに問うとやはり彼は執務室に篭もっているらしい。 ロストンとは気候から違うルネス。朝といえどもキンと張り詰める大気はなく、ただ清々しい空気に包まれるばかりである。 ラーチェルはエイリークと一旦別れると供添えの控えているという間に向かった。滞在中はエイリークと過ごすつもりなので、今のうちにこの十日の予定を彼らにも伝えておかねばならない。 必要なことを済ませてエイリークとの約束の場所へ向かおうとすると、途中視界に庭が目に入った。訪問するたびに目に入る庭だ。 その度に目覚しく緑が芽吹き、花々に咲き乱れる場所。ロストンの庭園には適わないけれども、ラーチェルはルネスの庭園が好きだ。 だが今日ばかりはそれは通じなく、ラーチェルは目を背ける。 エフラムにと作った菓子で、昨日あそこでお茶にするつもりだったのである。その目論見は他ならぬ本人によって砕かれてしまったのだけれど。 思っていた以上に元気なのだあの男は。 (心配などしてさしあげるのではありませんでしたわ) ラーチェルは闊達に足を進めると、実に楽しげに心中でエフラムを罵った。 あの男はいつだって平然とした顔で過ごしているのだから。 そうだ、ラーチェルの記憶の範囲では、彼女がエフラムを動揺させたことなど欠片も無い。動揺している姿を見ていないわけではないけれども。 今は戦時ではない。 エフラムの動揺した姿を見ることは起きない。 ラーチェルはそこまで考えると、表情晴れやかとして待ち合わせ場所へと向かった。 彼女はこれはこれ、それはそれとして物事を楽しめる性質であった。折角ルネスを訪問しているのだから、親友であるエイリークと楽しまなければ勿体無い。
果たして、そこには先客がいた。
想像通りの碧の髪。 想像通りの地味に抑えた服。 想像通りの変装のための帽子。
「ど、ど、どうして……っエフラムがいるんですの!?」
想像外の、人物が居た(性別からしてまず違った)
「まずは、落ち着いてくれないかラーチェル」 顔を見た途端に昨日の憤りが思い出されて騒ぎ出したラーチェルに対し、エフラムはまずそう言った。ラーチェルがやってきて既に暫しの時間が経過していたが、それが始めて口にした言葉である。 述べつく無しに言い連ねていたラーチェルが今度は貝のように黙る。 「エイリークが今朝、突然とても大事な仕事を思い出したというんだ」 「えっ?」 「俺が仕事を引き受けると言ったら、家臣総出で駄目出しを喰らった」 当然だ。 ラーチェルは昨日かなりの時間をエイリークのエフラムに対する心配の言葉で埋め尽くされている。 彼女はどちらかといえば課せられたことはやるべきだ、と思う方だから彼女がエフラムに仕事をするなというのは、相当の状態なのだろう。 「だが君を下手な者に任せるわけにもいかない。と、いうわけで」 「それでエフラムが来たんですの?」 ラーチェルの動悸が増える。 「君には悪いが、今日の出歩きは止めてもらおうと……」 がくっときた。
「い、嫌ですわ!」 ルネスは双子の尽力あって、治安もかなり回復している。護身用にと杖は忍ばせているし(もしもの時にはこれでぽこぽこ殴るのである)ラーチェルが一人で出歩いても問題はない――というのは建前で、期待してしまった分意固地になっていた。 「君に何かあると困る」 エフラムが眉根を寄せた。 むしろラーチェルが困ってしまう。気がついたからだ。エフラムの眉間にしわが寄ることが、日常になっている。 折れるか折れまいか、と彼女が逡巡した直後、あることに気がつく。 「あなた、どうしてお忍びの風情なんですの?」 う、とエフラムが詰まった。反対にラーチェルの顔が見る見る間に明るくなって、鮮やかに笑顔を作る。 「エフラムがわたくしと共に探索してくだされば問題はありませんわね」 「ラーチェル」 「ルネスを見て回ることだって、王には大切ですわ。あなたもそれを承知のためにそんな格好なのでしょう」 したり、と断言したラーチェルに、エフラムが苦笑を洩らす。 「じゃあ、視察のついでに君に付き合うか」 「ついでは余計ですわ」
髪の色を隠すのに帽子を目深にかぶり、服装は質素に押さえ、護身にはちゃちな組み立て槍のみ。 ルネスに帰還して以来、ずっとしていないことだった。 「エフラム、こちらへいらっしゃいな。この装飾素敵じゃありませんこと?」 お忍びですわよ、と強調したのは彼女であるのに、王国の城下町でその名を平然と呼びつけるラーチェルに苦笑を浮かべながらもエフラムはそれに従った。 露店を覗き込む見目麗しい男女の姿に人の良さそうな商人はにこやかと品を広げてくる。
並んでいる商品は、最近活発になったルネスの工芸品である。あの戦争時、グラドは相当な数の兵を失っている。広大な領地を守れるほどに治安が回復していない。 評議会が奮闘しているが、優秀な文官の半数はあの際に謀殺され……半数は戦地を避け隠遁しており、戦争責任を怖れてか顔を出して来ない。畑違いであるデュッセルは、それに憤りを感じつつも上手い立ち回りが出来ずにいる。 敗戦国の先を見越したのか、大量の人工激減のために労働者への門戸を寛大に開けていたルネスとジャハナ……とくにルネスに技術者が漏出したのである。 フレリアの支援の元、本来の主産業である農業の他にも、領内の鉱山を開発したルネスでは、次々に宝飾業が発展をしていた。
並べられた商品はその一つのようで、美しいブレスレットに僅かにエフラムは複雑げに瞳を顰める。 だがラーチェルの指差したものは、彼女によく似合っていた。翠の輝石が幾重にも散りばめられており、彼女の繊細な造作を引き立てている。 「君に似合うと思うが」 機嫌がよさそうに笑っていたラーチェルは、その言葉にぱっと頬を赤くする。熱でもあるんだろうか、とエフラムが思った直ぐに口にする前に、店主が勧めてくる。 「可愛い恋人さんに買ってあげるなら、三割引きしてやるよ」 「では値引きは無理か。買うのかラーチェ……」
違う意味で顔を真っ赤にしたラーチェルが杖を振り上げていて、流石にエフラムは慌てた。 「待て。どうして君は杖を振りかぶっているんだ?」 「ご自分の胸に聞いてごらんなさいませ!」
しゃらり、とラーチェルの見ていたブレスレットを台に戻して、店主は溜息をついた。 「兄さん、今のは兄さんが悪いと思うよ」
人賑わいの中でラーチェルが杖を振り回すので、通りは一時騒然となったがほとんどが痴話喧嘩と苦笑を浮かべたようだった。 走り去ったラーチェルに、エフラムは溜息をつく。結局彼女を一人にしてしまった。エイリークは上手くやるのに、どうして自分はできないのか。 はぐれた場合の待ち合わせ場所は決めているから、ラーチェルも落ち着いたらそこに向かうか、城に向かうはずだ。ルネス王城は城下町のどこから見ても間違えることはないし門番は彼女の姿を知っている。 それより、とエフラムは広く辺りを見回した。 ラーチェルと散策するにも、エフラムはそれを視察の場所と同じにしていた。ここは城下南の商店通りの一つだったが、大通りとは外れている。やけに周囲の者達が自分を注視しているぐらいで、それ以外にはやや人通りの少ない普通の通りだった。
ここは、『ファード』の姿が確認された地区だ。
父の名を脳裏に浮かべて、エフラムは眉を寄せた。 ルネスを奪還した際、父の遺体は心ある者達によって密かに回収され、棺に納められていた。晒しものとなって腐敗し醜悪な姿となっていたころを見なくて済んで正直ほっとしていた。なにより、エイリークや忠臣達がそれを見ずに済んで。 だが、父の遺体には頭が無かった。 晒しものとされた頭部は行方知らずのままで、それは国民には伏せている。 もはや二年がたったのだ。どこかにあるとしてももはや骨となっているほどの時間が過ぎた。今発見されたとしても実証はできないし、生を感じさせない白骨ならば自分も平静でいられるのではないだろうか。 だが二年を越えて、報告された目撃証言は頭が見つからなかったことと関係していた。
もしや、ファードは生きているのか。
根拠の無い期待など要らない。そう思っても考えずにはいられない。 エフラムもエイリークも、あの偉大な父の死ぬ姿を見ていないのである。
考え事をしながら歩くうちに、随分と街を外れていたことにエフラムは気がついた。 既に舗装もない辺りに入っており、街並みもまばらである。街路樹ももはや自然に植わっているものになってきている。 ルネスの南側には、外壁が存在しない。先の戦争の際グラドによって破壊されていた。 そろそろ構築しても良い頃合だと言う臣下もいるが、グラドの方角に向かった外壁を直す気はエフラムにはなかった。まだ誰にも言っていないことだが。 少し澱んだ水の香りがして、エフラムはそちらに視線を向けた。ため池でもできていただろうか、この辺りに。 視線の向かった先に、やはりため池はなかった。風車小屋が一つあり、川の清廉とした水を次々と送っている。エフラムの足元を通り、とくとくとルネスへと向かっていっている。 風車を見上げる一つの人影。大柄な身体は戦人のものである。 じっと佇むその姿は、風に揺れる衣服と違い動かない。 ざわざわと木々が風に揺れ、初夏のはずなのに肌を泡立ったものが襲った。
目が、合った。
「父、上」 エフラムは喉を鳴らした。確かに見間違いではない。他人の空似にしては似すぎているし。
濃い碧の髪。 同じ色の瞳。 髪は丁寧に梳られ、その身は似つかわしくない質素な衣装を纏っていた。 従姉妹であった母はより淡い色合いをしているが、己の色は父に近い。
心臓がひときわ大きく音をたてた。 落ち着け、と冷静に言い放つ自分とみっともなく泣き叫べ、と囁く何かがある。
(だが) 頭の中で鳴り響く警鐘に、エフラムの足は凍りついた。何か、何か知りたくは無いことがそこに待っている気がする。 だが死に目にも立ち会えず、遺体の首さえ発見できなかった父の姿はあまりに心を引き裂いた。 ゆっくりと、時間の進みが遅くなっているかのようにこちらを振り向くその姿に対し、近づくことも立ち去ることも今は出来なかった。 『ファード』の口が開く。
「 エ フ ラ ム 」
エフラムは咄嗟に後方に大きく足を逸らした。傍に川があったことすら脳裏からは消えていた。 ばしゃん、と水音が立って身体が大きく傾ぐ。 視界はずれ込み反転するはずだったが、水しぶきに邪魔をされるまでずっと、エフラムはその男の姿を見つめていた。
ぱたり、と髪から水が滴り落ち、既に視界から男の姿は消えていた。 エフラムは濡れる身も厭わずぼうっとと空を見つめる。
父上の姿で。 父上の色合いで。 澱んだ瞳をした……
自分の声で、呼ばれた名前。
「父上」 あの戦争の時にも、出したことの無いような絶望的な声音。 その声は恐ろしいほどに先ほどの男のものと酷似していて、エフラムに悲壮な決意をさせていた。
「――エフラム?」 軽やかな声が聞こえたが、ぼんやりとしてよくわからない。 「エフラ……ちょ、ちょっと何をしてるんですの!」 視界に翻る色に、やっとエフラムは視線を上げた。ラーチェルはエフラムに手を伸ばすべきか否かと顔をきょろきょろさせながら困惑している。 髪から滴り落ちる水滴に、エフラムはらしくない失敗に自分に呆れた。これが戦争中であったなら、こんな様では自分の命など少しももたなかっただろうに。
動揺しているのか?……そうとも。 大丈夫だ。自分を見失ってなどいない。動揺したことを自覚している。
エフラムはたっぷりと水気を吸った服を厭わずさっさと池から出ようとした。そっぽを向いてエフラムを見ないようにしながらラーチェルが手を貸そうとしてくる。 体重をかけないようにと彼女の好意を受けると、ラーチェルはぎょっとしたように視線を向けた。
ああ、服が重い。
「……体温が高いな、君は」 風邪か?と続けたエフラムに、ラーチェルは顔を真っ赤にして……それから蒼白とさせた。
「貴方が冷えすぎているのですわ、エフラム」
気づけば、既に空は暗い。
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