「弓を習いたい?」





止め処ない蒼






 ファバルにとって、リーフ王子とは複雑な相手だ。
 彼ら親子がレンスター地方へと逃れたとき、既にレンスターはトラキアの手に落ち、また帝国の手に落ちた。始まる困窮と弾圧の時代。
 面識はないと断言して間違いはないが、多くの民がそうであるように、ファバルも『レンスター王子』に無責任な信頼と失望を感じていた。
 それが強く出なかったのは兄であるゆえの責任感と、持ち前の明るさがあったのだろう。
 そしてそれは、やがてファバルが弓を取り、人を殺め。ブルームに雇われるようになってから変革を迎えた。
 ブルームが支配するのは北トラキア。過去は四つの小王国が支配した土地。

 つまりはファバルにとって、『リーフ王子』とは無責任な信頼の対象であり、同時に罪悪感を抱きながら弓を向ける対象であった。










「そう。弓を、私に教えてくれないか」
 リーフは育ちの良さそうな柔らかな笑顔を浮かべて、そう繰り返した。白銀の鎧は纏っていないが、常に傍に寄りそう騎士の親子、そのうち娘を従えている。
 ファバルにとって、第一に思い浮かべる支配者と言うのはブルームで、その次に、と言われて思い浮かぶのが目の前の少年である。確か自分よりも年上なはずだが、そうとは思わせない不思議な幼さ。抱えて生まれてくるとしか思えない、カリスマ。

「……なんで俺に?王子だったら、いくらでも丁寧に教えてくれる相手がいるだろうに」
 相応しくない、と言外に言い捨てる。
 卑屈になっているわけではない、ファバルには、騎士のような戦い方などできないのだ。
 それくらいわかるはずだ、と伝える金色の瞳に、リーフは事も無げに答えた。

「君の撃つ矢が、私は好きだ」

 ……話に聞くシグルド公子の口説きようは、妹の血の流れるこちらにやってきたに違いない。





「本音を言うと、ファバルと話す機会を持ちたかったんだ」
 いざ弓を教えることを承諾すると、リーフはあっさりと言い直してきた。
 ナンナを流れ矢の来ない後方で諸作業に残して、鉄の矢を眺めながら子供のように笑う。
「……なんで?」
「君が継承者だから。それも、無自覚の」
「あ……と、ああ。あの変なあざがあると、継承者と呼ぶんだっけか」
 聞き慣れない言葉にファバルがまごつくように言うと、リーフはますます笑った。
「そう、そういう君だから、話してみたかった。私は君のような継承者は想像したことがない」
「……それは」
 下の人間が見たかったのか、と思って、即座に訂正した。リーフ王子に聖なる証がないことは有名だった。

「……俺は、あんたみたいな奴がいるからこそ、俺に疑問をもつけど」
 弓を引くリーフの手つきは、素人ではなかった。高貴の身として弓は手習いの一貫でもあっただろう。変なクセがついていると教えづらいな、という考えがよぎったが、不思議と良く知る引き方のように思える。
 少年の立ち振る舞いはざっくらばんとしたものさえどこか洗練された空気を感じさせ、支配者というものはかくあるべき、という感想をファバルに抱かせる。
「疑問?」
「あんたは聖痕がなくても、王になる人種だよ。だから、聖痕があるからって……俺がユングヴィに行くのは、違うんじゃないかって」
 ファバルは正面を見据えて、弓を引いた。
 引き絞られた絃をもつ手を離すと、矢が真っ直ぐに飛んでいく。
「やっぱり、ファバルの弓はいいな」
 命中を見る前に、リーフが呟いた。
「君は矢を撃つ時、何も考えてないだろ?」
「……その言い方はないだろう」
「誉めてるよ。……何の雑念もなく撃つ。澱みも、悩みも、全部綺麗にしていって、また真っ直ぐ的を見る」

 その分、常にファバルは、澱むことはない。

「弓を引き、撃つ。そのことに戸惑いがない。そこがいいと思う。……例えばファバルは、パティを守ることに疑いがある?」
「いいや」
 迷いなく首を振ったファバルに、リーフは頷く。
「君はセリスを狙ったそうだけれど、今誰かがセリスを襲おうとしたら、守ることに疑いがある?」
「いや」
 やはり首を振るファバル。
「そういうことだ。私は王になることに疑いを持たず生きてきた。それと同じくらい、ファバルは守るべきものを守ることに、疑いを持たず生きているんだ」

 私が君の王ならば、私は君に城を預けて、傍に頭のいい臣下を就かせておく。
「預けていいのか?」
「ファバルの明るさは人を惹きつける。君は思っているよりもずっと、主向きだよ」
 傀儡にされるかそうならないかは、ファバルの努力次第。
 そう続けられてファバルはびっくりして、それから納得した。そこに聖痕があるかどうかなんて全く関係はない。

「……聖痕は、いわば、権利だ。ファバルがパティを守るように、君がユングヴィを、守ることができるという……」
「あんたにもあるよ」
 ファバルは途中で、リーフの言葉を遮った。不思議そうに見つめ返してくる少年。
「俺は、コノートあたりしか知らないけど。……それでも、トラキア半島の人間だからさ」

「どれだけ俺たちが、あんたを待ち望んでいたか、知ってるよ」

 リーフは呆けたような顔でファバルを見ていた。
 ひょっとしたら恥ずかしいことを言ったかもしれない。けれどファバルは言葉にして伝えることに、全く羞恥は感じなかった。
 もっと声高に、民は意思を伝えるべきだ。
 誰に、どんな人に政治を統べて欲しいのかと、瞳をきらめかせて叫ぶべきなのだ。
 止め処なく溢れる、無責任な理想を。

(俺に、それが叶えられるかはわからないけれど)

 トラキアの民として、リーフはそれを叶えられる生きものなのだと知っている。

「……ありがとう」
 リーフは幼く笑い、的に向かって弓を引いた。
 矢は検討違いの方向にすっ飛び、通りすがりのシャナンが胆を冷やすことになった。



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(07/01/01)