後で後悔したっていい 最善を選べるほど賢いとは思えない
俺はただ今を走るのに必死で 先が見えていないのだ、と大人は言うけれど
何も諦めたくない 何も捨てたくない
――だって、俺は死んでしまうのだ ソフィーヤを道連れになどしたくない 今を走らないと消えてしまうのに
後で後悔してもいい 今を悔やみたくない
不老のシステム 9:レイ
やみにおちる せかいにしずむ
真理、に ふれる
「――レイ!」 ソフィーヤの声がして、レイの中に残った残滓が一息に消えうせた。 人々の息吹、混濁する意識、万物の流れ、千年より長い、降り積もった知識。それらはひとの記憶の中に入りきるものでもなく、自我を保つために多くを切り捨てる。 「くそ」 悪態をつくことで息を吐き出した。寒い。体機能のほとんどが鳴りを潜め意識ばかりが鮮明だ。 頭のどこかが真っ白になって失せたようにクリアで、本当に何かが失せてしまったかのよう。 飛び起きたと思ったが、実際にはその動作は緩慢で、瞳を開けただけに留まった。 視界は呆れるほど情報を呼び込む端末だ。だが、目に映った光景が記憶の中と異なっていたので、レイは瞬間混乱した。 (違う。あってる) 身体を起こそうともがく横で、ソフィーヤが駆け寄ってくる。触れた場所から、体温を思い出した。
「ソフィー、ヤ?」
彼女は頷いた。すると目の前はもう、レイの現実だった。
その娘は、明らかに人ではなかった。 少なくともレイの知っていた人では。長い長い感覚と意識は人を離れて超然としていたし、髪だって呆れるほど長いし。レイの闇に通じた感覚が、人の理とは外れた部分にいる娘なのだと教えている。 同じ姿かたちをとっていたとしても、それが自分と違ういきものと知っているならば、怖ろしく残酷になれる。それが人間と言うものだ。 レイもそれに変わりはなく、長く彼女を同じいきものだとは思っていなかった。 感情も、意識も、人とは違ういきもので、同じ心など抱きはしないのだと。 だから始めは、ただ彼女の持つ闇魔道の書物に興味を持っただけであった。
名を知り。会話を通じ。共に闇の研鑽を積み、笑顔を覚え。 それでもレイにとって彼女は人ではなかったし、その道は容易く別れていくものだと知っていた。
(レイ)
(何だ)
(背が)
(……?)
(伸びました……か……?)
戸惑うような呟きが、彼女の驚きを伝えていた。 それは同時に、レイの驚きでもあった。 まさかソフィーヤが、そんな些細なことに気が付くとは。気にするとは、思わなかった。 見ると菫色の瞳は困惑ながらもレイを映し、レイの反応を待っている。 過ぎる時間に指を絡ませ、所在無げに俯いて。少し視線を外しては、またレイを見つめなおした。
(この女、いつのまにこんなに人になったんだ)
一度気づいてしまえば、ソフィーヤはずっと前から人であった。少なくとも、どちらだと聞かれて、父が人であることを主張するくらいには。
「……まさか、目覚めるとは」 擦れるような声は、既にありありと性別の色を覗かせていた。ひょっとするとその分、自分の声音からは色が抜けているのかもしれない。ふとよぎったそんな考えにレイは首を振る。 「不満か」 「……いいえ?」 「嘘つけ」 ブラミモンドは押し黙った。ひゅうひゅうと黒い風がどこからか吹いていきラガルトの髪を攫っていくが、レイは全く影響を受けていない。
「……そう、そうです。嘘は……もはや無意味、ですね」 ソフィーヤの声で、彼女とはまるで違う嘲笑で、ブラミモンドが嗤う。 「既に……お気づきのはず。レイ、私はあなたを……闇の系譜の一員に加えたかった。ネルガルになるかなど、問題ではない……この千年で、そんな者は何度だって現れた。その度に十二神将は減っていったけれど、しかし、それがどうだというのでしょう……」 ラガルトの視線に殺意が混ざる。だがレイもソフィーヤも、ただブラミモンドを見つめていた。ネルガルを直接に知らぬ二人にとってその名は憤りには結びつかないし、まして既に二人は悠久の時の中、現れては消えていった滑稽な舞い手たちを知っていた。
「そう。何度だって、それに対抗する者は現れる」
二人の心を読むように、ブラミモンドが肯定する。 「神話が遠のく今も、昔も。いえ……今だからこそ、神話の再来を望まない」 いずれ光も闇も消え去り、竜は遺物に。人々の世界へと流れていく中で、もしかしたら新たな神将が名を刻むとしても。 「けれど、そんなこと……ひどい」 ・ ・ ・ 「私は私を忘れ……誰もが私を認知できなくなっていく。私は、生きているのに!」
抑えた声音は、だが絶叫だった。 這うような響きであるのに高く鳴り。呟きであったのに激しく乱れている。
ああ。 『謎多きものブラミモンド』とは、人間なのだ。ソフィーヤはかなしく感じた。 辺りは闇の波動に乱れ、暗い風が吹き荒れている。レイは癇癪を起こす人間をじっと見つめながらふと掌を動かした。
「さあ……どうするのですか。私は私の闇を……あなたたちはあなたたちの光をかけて戦いましょうか?逃げるのなんて……許さない。このまま消えるなんて、私は嫌です!」
闇人の癇癪は激しい。 アポカリプスを紐解かれ正気に戻った少年がために、半端に暴かれた記憶とちからが破綻を起こしている。少年の知識と、少女の容量。双方をもってすればこの闇の聖人を掻き消すことも不可能ではない、と二人は既に感づいていた。 レイ。 ソフィーヤはレイを見た。少年は掌を聖人へと向け、断罪を下すように吼える。
「愚か者」
(レイ、行ってしまうの)
そんな顔をしなくても、また帰ってくる。 レイはそう言ったのに、兄は子供を嗜めるような困った顔をした。
(それは、嘘だよ)
どうしてそんなことを言うんだろうか。十を数えなかった頃に孤児院を出たときでさえ、戻ってくるつもりであった。まして戦争が終わり、成長して。昔よりもずっと自由に旅をすることができるというのに。 数秒しか違わぬはずの兄は、だが年の離れた弟に聞かせるように話す。
(レイは、戻ってこないよ)
けれど。ルゥは続ける。
(僕とレイが家族であることも、僕たちが愛情に包まれていたことも。もう疑うほど子供じゃないよね)
まるでレイとは似ても似つかない笑顔でルゥは笑って、レイを送り出したのだ。
「最たる偉人のひとり、最たる賢人のひとり、そして、最たる愚者に連なるひとり」 レイの纏う黒い衣装が、唐突に風に巻かれる。ブラミモンドに対して吹き出した。傍に居るソフィーヤをまるで巻き込まず。 「お前が愚かであるのは、人間ってもんを過信しすぎ……そして、甘くみたことだ」 レイは ひたり と 手を さしだした。 五年前よりよほど大きくなった掌を、ソフィーヤは見た。 人外に向けられたそのてのひら。 指先にうっすらとインクのしみこんだ指先は確かに魔道士のものであったけれど、幼少の頃農作業で駆け回ったこともある、少し固い手。 レイの、てのひら。 手をさしだしたまま、レイはブラミモンドへ一歩踏み出した。 「お前を継ごう。ブラミモンド」 黒い人影は、子供のように狼狽した色を見せた。 「私の、役割を、継ぐと?」 「そうじゃない。俺は自分のない生きものなんかになるつもりはない」 俺ではない『レイ』に、なるつもりも。 「ブラミモンド、お前という人間が居たこと。千年続けた孤独の生き様。虚空に溶かした闇の真理。そういうもの、すべて」
「人間がずっと続けてきたように。お前を継いでやる」
ブラミモンドの唇が、明確に震えた。
「わたしは」
「わたしは、ひとだけれど」
ブラミモンドの黒衣が持ち上げられ、ゆっくりとレイの手に伸ばされる。その動きは風のない海のように緩慢で、ひどく、長い時間のように思えた。 ひやり、と冷たい温度。昏い神殿の中で冷え切っている。 レイのぬくい体温が移って、ブラミモンドは長い息を吐いた。
「竜が、人に焦がれて止まない理由が、少しわかった気がする――――」
場に静寂が落ちた。
真理の溶けたてのひらを見つめて、レイは腕を下ろした。 人の一生は短く、何度も過ちを繰り返す。後世では繰り返さないように、と幾度伝えたとしても。 「けど、何度だってやり直しの効かない間違いなどないと、立ち上がり続ける」 それが、竜にはできないことだ。
「レイ」 ソフィーヤがふわりと言の葉を紡いだ。ブラミモンドに伸ばされた指先に触れる。 「……怖かったです」 菫色の瞳から、透明なしずくが零れた。落ちた雫が服にしみをつくっていく。 「レイが……いなくなったら、私」 いいや、と己の言葉に首を振る。 「いなくなったら……取り戻してやりました……」 「ああ」 少し固い指先が、ソフィーヤの涙を拭った。
「……だから俺は、お前を好きになったんだ」
ソフィーヤはそっとレイの指先を包み込む。
「あの、俺はまだいるんですけど」 それと場所はベルンの禁制地なのですけど。
ラガルトの顔にものすごい勢いでミィルの書が飛んで来た。うわあ、と抜けた声をあげながらラガルトが避けるのを、頬を真っ赤に染めたレイが怒鳴りつける。 「避けるなバカ!」
きょとん、とその光景を見ていたソフィーヤが、くすりと笑った。 くすくすと楽しげに響く様子にレイが仕方がない、という様子で鼻を鳴らす。 「こんな辛気くさいところはさっさと出るぞ」 「転移……しないのですか……レイ?」 何を言っている、といいたげにレイは笑った。
「見張りをからかう楽しみは、真理じゃ買えない」
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