少年は軽快に砂地を踏みしめた
熱く日が照らす砂漠、常の黒いローブの上には麻の羽織り
少女は体重を感じさせず砂漠を進んだ
熱さを知らぬように動かない横顔




ナバタだ。





不老のシステム
1:ナバタ





 冷たい石作りの建物の中を、紫の少女と緑の少年。
 見慣れない姿に理想郷の住人は視線を向けては、その姿に驚く。少年にではない、少女にだ。
 言葉の上手くないナバタの巫女は、ゆらゆらと頼りない足つきで足早に進む少年を追っていた。時折彼女から話しかけている姿は、千年の長きに渡り彼女を見守り続けている住人にとっても驚く姿だった。
 イグレーヌは二人を遠巻きに見つめながら、長老に是非を問う。ナバタの長老もまた半竜の身であったので、姿は未だ若い男性のものに過ぎないが、実際にはイグレーヌよりもずっと生きている男であった。
「レイに、書物の閲覧を認めて良いのですか?」
「アトス様の遺された研究は、余人であれば読み解くことも叶わぬだろう」
 流れる血の関係か、年頃は同じほどなのに己よりも遥かに成長の遅い少女を見つめながら、長。
「ですが、レイは……」
「解っている。まさか、あのような幼い少年がアポカリプスに選ばれたとはな」
 だからこれは期待と呼ぶのだ、と。


「パントでもできなかったことが、彼にはできるかもしれない」

「闇魔道の使い手であるのに、ですか」
「闇魔道の使い手であるからだよ」


 賢者パントが理解できなかったアトスの闇を、彼なら読み解くことができるのかもしれない。

「預言者ソフィーヤが彼に惹かれているのは、彼がナバタに変化をもたらすものであるからかも……」
「そんな言い方は止めてください」
 長の言葉を言い止めたイグレーヌの表情に、長は僅かに憂いを顔に昇らせた。
「すまない、イグレーヌ」


 ナバタの民は、全てが彼の子供のようなものだった。現実には彼は妻はなく、子もいない。

「ファは、イドゥンといるのだろう、呼んでやってくれ。彼女にとっても懐かしい戦友であろうから……」










「全く、ナバタの奴等は。宝の持ち腐れってのはこのことだな」
 アトスが使用していた地中深くの研究室に導いて、レイは呆れたように言い捨てた。
 レイの眼前にはアトスが生前書き残したという膨大な書物が並んでいる。書棚にはいくつか不自然な空白があったが、それにしても多い。書物は何百年も前のものであるとは到底思えなく、随分と保存状態が優れていた。
「千年前に生きていた人間が残した書物には見えないな」
「……大賢者様は……長命……でしたから……」
 ソフィーヤの言葉にレイは軽く鼻を鳴らすと、喜色を隠そうとはせずに早速本を一つ抜き出した。
 本に向かってしまえば周囲のことになど気を止めなくなる。そんなところは相変わらずだと思いながらソフィーヤはランプの灯りを強くする。
 本を読んでいるレイ、その斜め横からそれを見つめるソフィーヤ。五年前、ナバタの外に出た時にすっかり身体に馴染んだこの距離は、ソフィーヤの心を温める。
 真っ直ぐ、逸らされない視線が好き。
 それでいて、ソフィーヤがレイの瞳を見つめるとレイは何故か怒り出してしまうのだ。だからソフィーヤはこうして斜めから見つめるのだった。若草の色を秘める瞳は爛々と輝いており、生命の帳をソフィーヤに感じさせた。昨日までの自分は、どうしてこの瞳を見つめずに過ごせてきたのだろう。
 そこで、ソフィーヤは己の思考を疑問に思った。
 彼女は預言者だった。何かに固執したことなどないのに。


パタン

 レイが本を閉じる音でソフィーヤははっと意識を立ち戻した。レイは次の本に手を伸ばしているところだ。
 フォルブレイズの使い手であり、優れた光の魔道士でもあったアトスの研究には闇魔道以外も富んでいる。その中からレイは己が掴むべき知識を取り込んでいかなくてはならないのである。ソフィーヤは手助けをするか思案したが、以前レイがそれで怒ったのを思い出してやめてしまった。


 だから、こうして本を読むレイを見つめることを続けることにする。

 五年前より、鋭さの増した頬。
(ソフィーヤは己の頬に手を当てた。いつからこうなのかも覚えていない)
 五年前より、あどけなさが消えていく瞳。
(そこに知らない年月を見たようで、ソフィーヤは戸惑った。レイも自分がそう見えているのだろうか)
 五年前より、高くなった背。
 きっともう、ソフィーヤと並んで少女の方が年上だと言う者はいないだろう。十八歳になったレイは、ソフィ−ヤにはずっと年上に見えた。
 レイの五年は、こんなにもレイに変化をもたらしている。


 ソフィーヤは瞬いた。
 いつの間にかランプの火が小さくなって、室内の闇が深くなっている。






「レイ……、もう、遅い時間です」
 ソフィーヤの細い声に、レイは聞こえているのか聞こえてないのか、曖昧な相槌を返しただけだった。ソフィーヤが再度繰り返そうとすると、耳にレイの呟きが届く。
「アトスは、何年生きたんだ」
 少女は幾つか瞬きをすると、小さく応えた。千年ほど。
「……亡くなられた、のは……二十五年ほど……前の……ことです……」
 レイは、模範的研究者であったらしいアトスの研究書を書棚に戻した。ご丁寧に克明に日時が記載された研究書は通して読むには違和感を覚えすぎる。
 途切れた研究書から抜けた箇所の推測をしても、アトスの研究は何かが足りないように思えた。途中で命を落としたとしても、不自然に闇魔道に関しての研究は止まり、空白が開いている。
 アトスは故意に研究を止めたのだろうか?だとすればそれなりの理由があったはずだ。


 レイは瞑目すると、ふと脳裏に閃いた名があった。ネルガル。研究書の端書きに登場する名である。
 その名を持つものは、アトスの研究の助手であったのだろうか、共同研究者だったのだろうか。
 だとすればそれは、人を超えた研究であったように思う――。


 レイは溜息をついてソフィーヤを見た。半竜の娘はじっとレイを見つめている。

「今日はもう、やめておく」
 はい、とソフィーヤは頷いてランプを手に取る。






 レイは朝起きては研究室に篭もり、夜更けにそれを止める、といった日々を繰り返していた。岩壁の中のレイが、ソフィーヤには不思議であった。五年前のレイは本と共に室内にあることはなく、大抵風の吹き抜ける外を選んでいたからだ。
 勿論、ここがナバタだということもあるだろう。理想郷の住人は長く岩壁の中しか知らない。それは気軽に出向くにはあまりに過酷な砂漠の中にあるせいでもあった。
 レイは、闇魔道士らしくない。ソフィーヤは思う。
 闇魔道は己の中に秘めた闇を引き出して扱うものだ。須らく内向的な真理の探究は精霊と親しむ理魔道とは離れている……。


 書物を読み進めるレイを見ながら、ソフィーヤはそれをどこか寂しく感じた。壁に描かれた壁画を辿る。
 竜と人。共に生きることを願い、そして生まれでた理想郷。
 たった五年でこんなにも変わってしまう人間と、それが瞬きのようにしか感じられない竜の血。
 どうして共に生きようと思ったのだろう。半竜のソフィーヤは人のレイを見つめた。






「推測によると、アトスの周りには、永遠さえ生きると思われた者が見られる」
 その日、ランプの火が小さく弱った頃に、レイは己の推測をソフィーヤに披露した。
「一つは竜だ。奴等は長く生きる代わりに、その中で時間を無駄にしすぎだな。そして、人非ず者……これが、八神将のアトス、ブラミモンド。そして……ネルガル。これに共通するのは、須らく闇魔道の高位の使い手であった、ということだ。そして、最後に……モルフ、と書き記された、人が造った人……」
 レイの声音に何らかの拘泥は聞き取れなかった。
 かつて多くの人々を巻き込み、涙を流し、血を流した名であったが、過ぎ去った今は、過去にしか過ぎないのだ。レイにとっては、学問に過ぎない。
 それはソフィーヤに危機を感じさせもし、安堵を覚えさせもした。
「つまり……」
 レイは、特に熱狂を感じさせず言葉を続けた。


「人が、永遠を生きるシステムは存在する」

 むしろ、その時瞳に熱を混ぜたのはソフィーヤだったのだ。









「抜けているアトス様の研究は、唯一の弟子であるパント様がお持ちになっていると思われる」
 長の言葉にレイは意外そうに眉をあげた。
「リグレ公の?あの、何十年か前は魔道軍将だったっていう」
「うむ。若い頃は、もっと精力的に砂漠で遺物の発掘に取り組んでいたが」
「へえ。変わった貴族もいるもんだな」


「おにーちゃん、もう行っちゃうの?もっと遊ぼうよ〜」
 感情の起伏のないイドゥンの手を引きながら、ファ。レイは全く変わらぬその様子に呆れた様子を見せると、容赦なく切り捨てる。
「遊んでばっかないで、勉強しろ。飯を食べろ。そんなんじゃ大きくなる前に追ってる男は死んでるぞ」
「……いや!ファ、早く大きくなるんだもん!」
 駄々をこねるファにレイは冷たい目を向ける。
「まだ子供だと甘えるな。願うだけで叶うものなんてないんだ。欲しいなら努力は惜しむな」
 うう、とファは瞳を潤ませながら唇を噛み締める。
「今度会ったときには、ファはひゃくろくじゅっせんちのレディーになってるんだから!」
「ああ」
 レイは全く笑いもせず、頷いた。
「なってみせろ」






 イグレーヌはその様子を見ながら、ソフィーヤに荷物を整えていたところだった。彼女は竜の血を継いでいる。か細く見えてもよほど生命力が高くはあるが、それだって限界がある。
 レイの言葉は暴言に思えた。実際、ファは童女にしか見えないのだ。それを十八の少年が冷たく言い捨てている姿は心臓に悪い。だが、ファは同時に千年を生きた竜である。
 戦時下においてファを子ども扱いしなかったのはレイだけで、好いた男だというわけではないが、ファはレイが気に入っているのだろう。
 その様子を見ることなく、ソフィーヤは長く伸びた髪を纏めていた。軍の行軍とは違う、身軽さが命の旅に出向こうとしているのだ。


 竜はかつて、人と共に生きようとした。それが理想郷。
 瞬く間に老いていく人と生きるのは、どんな気持ちがしたのだろう。だが、ソフィーヤもまた、レイについていこうとしている。
 この旅の先にあるものは、一体何なのだろう。




(遊んでばっかないで、勉強しろ。飯を食べろ。そんなんじゃ大きくなる前に追ってる男は死んでるぞ)



 レイは死んでしまうのに。
 どうしてソフィーヤはこの背中を追おうと決めてしまったのだろう。




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