例えばこの世界にはあらゆる要らないものがあるのだ

食べられない食事
偽善者の祈り
切れない剣
演説できない王様


そして
歌わないカナリア






鳴かないカナリア
1:馴染まぬ平穏





 歓声に沸き立つ王城で、思ったのは居所の無い希薄感だ!
 故郷北トラキアの牧歌的な様子が欠片もない。戦争中はあれほど誰も居なかったのに、一体どこから集まってきたのだ?こそこそ隠れて見守っていて、どちらが勝つのかを見定めていたならなんと悪趣味な奴等だろう。
 セリスは当然のようにそれを浴びながら進み、セティやシャナンといった者達が同様に進む。ティルナノグの者たちは少なくとも堂々とした態度に思えたし、戸惑うかとも思えたファバルは天性の気質か揚々と手を振っている。
 アレスは光の公子の無二の親友。在りし日のエルトシャンとシグルドの仲のように、共に歩くことを望まれていた。
 親友だなんて思ってはいなかったし、薄っぺらい偶像にされるのも気に喰わなかったがデルムッドが煩く言うのでちょっとぐらいはやってもいいと思っていたが、数々の戦場を駆け抜けてきたアレスは初めて竦むものを感じていた。


 だって、母はけしてノディオンの復興を託さなかった。

 いつかきっとシグルドを、と呪文のように刷り込まれてもたった一人のアレスにノディオンを背負わす言葉を一度も吐かなかった。彼女は気高く優しい母であり、常にアレスの身を案じ続けていたのだ。
 帝王学より、生きるための知識。
 ノディオンが落ち、レンスターが失墜し、片田舎の所領でアレスを育てた彼女が選んだのはそういった道だった。アレスがけして、帝国に殺されることの無いように。


 母が亡くなり、間も無く村が襲われて。傭兵となったアレスが学んだのは誇りなど欠片ほども生きるための役にはならないということだ。アレスは背後を見せた者も、女も子供も平気で斬った。
 傭兵隊はあらゆる場所で疎まれ、怯えた目でアレス達を見る。それが日常だ。
 だからアレスは、千と斬って歓声で迎えられる。今の瞬間に戸惑いを覚えたのだった。


 セリスが訝しげに視線を送るが、目の奥で呆れたような色合いが混ざった。アレスの怯みがわかったのだろう。瞬時にかっとなるものを覚えたが、ここでミストルティンを抜くわけにもいかない。
 デルムッドの案ずるような視線に怒気を返して、アレスは一歩を踏み出そうとした。


「ほらアレス、向こう」

 そこでアレスは強引に腕をとられ、全く正反対の方向を向くことになった。自分と同じようにセリスの傍らにいたリーフだ。純白の鎧に身を纏った少年は、今はそつなく光の公子の親友をしている。戦争中は解放軍で随一の戦闘能力をあくまで友軍としか使わなかったくせに。
 だが演じているわけでもないらしく、アレスの腕を引いたリーフは未だ幼さの残るガーネットの瞳を輝かせてある方向を指差していた。
「おい、リーフ!転ぶだろ」
「ほらほら、あれ!」
 話を聞きやしない。全く、と思いながらアレスは彼の指差す方を見てやった。集まってきていたのは鳥使いたちであったようで、指差す方向で白くさざめく群れがある。
 羽ばたきと共に、白い鳩が空を駆けていく。真っ青に晴れた空に鳩は雲を作るように天空を染め上げていく。戦争中であれば天馬を案ずるところだが、小さなはばたきの大群はアレスの心も和ませた。
 同時に民衆も、軍列も一斉に空を見上げている。
 セリス達も民衆も、共に疲れきってはいたが、その時は疲れを忘れたように空を見入った。


「綺麗だな」

 リーフは嬉しそうに表情を綻ばせると飽きることなく空を見上げている。
 袖を掴まれたままだったので、アレスは皺になる、とぶつくさ言ってリーフの背中を押してやった。
 大地色の髪が跳ねていく横で、金色の波が進んでいく。











 バーハラで終戦を迎え、解放軍の面々は慌しく立ち動いていた。何しろ彼らはそれぞれ各国の継承者である。未だ帝国の威勢強き祖国を取り戻すべく、彼らの戦いは終わらないのだ。
 その中で最も先行き困難と思われているのがアグストリアに向かう面々であった。
 暗黒教団の手こそさして入ってはいないが、帝国に荷担して解放軍の進軍に危機感を抱き逃げ込んだ者たちは、ほとんどがこのアグストリアに移動している。
 アグストリア出身の者。グランベル、トラキアからの援軍。グランベルにおける解放戦線にアレスが存在していたことは既にアグストリアに届いているだろう。期待に沸き立つ民を目前としデルムッドは忙しい。
 そう、忙しいのはデルムッドである。
 アレスは暇を持て余しながら――デルムッドの怒声から逃れながら――バーハラの城内で午睡を楽しんでいた。できるだけ長く、準備が長引けばよいと思っていた。


「アレス!」

 伸びやかな声音に呼ばれて、アレスは目を薄く開く。声で人を救ったという噂もある(一重に嘘とも言い切れない)彼の声は、伸びやかによく響き、煩いと感じることが無い。
「なんだリーフ」
 機嫌よく駆け寄ってくる姿を視界の端に見つけ、アレスは横たわっていた身体を起こした。面倒で転がったままでいたら、容赦なくみぞおちにタックルを受けたことがあるからだ。しかも悪意が無いのが怖ろしい。必死の抗議も余裕交じりと思われていた。(何しろリーフという男は、聖戦士を必要以上に買いかぶっている傾向がある)


 駆け寄ってきたリーフは、戦時中多く見かけていた白装ではなかった。目立たない色をした簡易な服だ。おそらくこれから城下にでも出るのだろう。
「アレスも一緒に城下に出ないか。そんなに寝てばかりいたら退屈だろう?」
「面倒くさい。取り巻きと一緒に行けばいい」
「皆忙しいんだ。暇人はアレスくらい」
「お前は違うのか」
「私はちゃんと、余暇を勝ち取ったんだ」


 悪意の無い声音にしてはあんまりな物言いだ。アレスは頭を掻きながらリーフを見上げるが、やはり悪意はないらしい。だが俺だって惰眠を貪るという大事な時間があるのだ。
「じゃあ俺だって、昼寝の時間をもぎ取ったんだ」
「ああ、デルムッドが君を呼んでいた。いや――叫んでた?」
 デルムッドが大変そうだよ、と訴えるリーフは、だが仕事に戻れ、と言う気はないらしい。
「行こうよアレス。城下の人が戻ってきて外はずっとお祭り騒ぎなんだ――色んな珍しいものが見られるよ」
 機嫌よく笑う姿にアレスは溜息をつきながら頭をがりがりと掻いた。呆れている。


「ったく。お前昼飯奢れよ」
「アレスは相変わらず……えーと『酔い越しの金は持たない』?」
「武器のせいだ武器の。というかどこで覚えたんだそんな言葉」
 たまに驚くくらいお坊ちゃん育ちのくせに。
 どこだったかな、と笑いながら歩くリーフの後を追いながら日陰から出ると、眩しい太陽が目を焼く。夜派のアレスは不健康にも太陽は好きじゃない。
 それなのに、この弟のような友に甘くなってしまうのだから、自分に呆れた。











 お忍び、と言う点で言うなら同行者に失敗している。とアレスは思った。
 白銀の鎧を脱いでしまえばリーフは充分に群集に溶け込めるが、横に図体ばかり大きく豪奢な金を惜しみなくさらした、しかも黒装束の連れなどいれば目立つことこの上ない。格別忍ぶつもりもないのだろう、と思えば気にせずにいられたが。
 これから長く続くだろう祭りは、入城した頃の閑散とした様子を潜め賑わっていた。流石は大国の首都と言えるのだろうか、ミレトスのそれと同等に思える。子供の姿がまったくないことも同じで、アレスはよほど北トラキアのほうがましだと思った。
 リーフはこういった出店も珍しいのだろう、俗な食べ物など除いてはどんな味がするものか、と興味深げにしている。


「兄さん、寄って行かないかい?いい酒が出ているんだよ」
 陽気な声をかけられてアレスは既視感に襲われた。傭兵をしていた間は(一年も経たないというのにまるで十年も昔であるかのようだ)こういった誘いをよく受けた。主にジャバローにだ。少なくとも少し前のアレスは、容易に誘うことを許すような男ではなかった。
 レイリアに出会い、リーンに巡り会った。セリスと和解し、デルムッドという従弟が自分を支えている。戦の間に交わす酒は、ずっと落ち着いたものになっていた。今は昔が思い出せないほどにこの空気に慣れてしまっている。
 だがアレスは――ふとかけられた誘いに、まるで何年も前に立ち戻ったかのような気分になった。


「ほう、どんなものだ?」
 彼女達が見れば昼から酒など、と口を尖らせただろうが、アレスはちらとも思い出さなかった。


 アレスは安酒でも充分に楽しめると思っていたけれど、それが美味い酒ならもっといい。酒屋の親父の言葉が本当なら、城で奔走しているデルムッドに土産にもなるだろう。
 喧騒は本当は好きではない。
 一瓶貰ってこの人の群れから外れてしまえば――。
「アレス?」
 聞き触りの良い声で呼びかけられて、アレスは現在に立ち戻った。
 そうだった。子守の最中だった。しかも相手は筋金入りのお坊ちゃまで、お付きはお堅いナンナなのだ、
 リーフがどれだけ非難を向けても俺は酒を飲んでやるぞ、と心に決めたアレスが振り返ってみたものは、しかし瞳を好奇の色に染めた親友である。
「ご主人、どこから運んできているんだ?」
 しかも意気揚々と話しかけた!あまり知られていないが、いや知られたくないと思っているが人見知りの気があるアレスにとっては信じがたい光景だ。
「ノディオンの方からですよ。あの辺りは温和地帯だから――こうしてグランベルが解放されたってんで、結構戻ってきてる奴らがいるんです」


 さわり、とアレスの心を触れていくものがあった。

「ふうん。アグストリアの様子はどうなんだ?」
「グランベルの貴族が逃げてきててね。結構酷いもんですよ。でも所詮やつらは余所者だから、こうした美味いワインを作れる畑、ってのは結構見逃してるんだよ」
 酒屋の主人は馴れた仕草で試飲のボトルの栓を抜くと、小さな杯に赤い水を注いだ。
 受け取ったリーフは一つをアレスに渡し、もう一つ主人から貰っている。やや頬の筋肉が浮きだっているような感じである。どことなく声音も跳んでいる。アレスはこういった様子に覚えがあったが、何分かなり昔のことなのでどうにもピンとこない。
「綺麗な色だなあ」
 まじまじと酒を見つめるリーフに対して警鐘を鳴らすのだが、何に対しての警鐘かわからない。毒殺。いやまさか。


 嬉しそうにしていたリーフがやおらくぴっと杯を仰いだので、アレスは思考を中断するはめになった。正確には思い当たったのでそれ以上考える必要がなくなった。
「お前、酒は初めてなのか!?」
 十七を数えるくせに。信じがたい。ぐるりと意識を回したリーフにアレスは思いがけず慌ててしまう。
 とりあえず手を空けるために自分も酒を仰いだ。
「おいリーフ、ふらふらすんな!」
 酒の味はさっぱりわからなかった。後でまた来よう。






「僕の酒が飲めないのかー?」
 にこにこと機嫌の良さそうに笑うリーフは、それほど酒癖が悪い様子がなかったのは幸いだった。泥酔していたら流石に置き去りにしていただろう。
 十七にもなって、とアレスは思ったがリーフの境遇から考えれば納得とも言える。逃亡に継ぐ逃亡で、落ち着いては毎夜襲撃から防衛する生活では、酒で慰める空きもあるまい。まして傍にいる大人が酒に逃げているのでなければ、酒を覚える機会もないだろう。リーフの横にいたのは、しかもフィンだ。
「おら、水でも飲んでろ」
 無料で果実水を配っている休憩所があったので、アレスは陽気に歩くリーフをそちらへ押しやった。友は素直に果実水を受け取って美味そうに飲んでいる。ただ、酒と区別がついていないらしくてやたらとアレスにも勧めて来るのだ。
「アレスー。飲めー」
「飲んでる」
 人ごみから解放されたためもあって水が美味い。アレスはダーナに長くいたから、時に酒よりも水の方が貴重だったのを知っている。この辺りは水源が豊富なのだろうな、とどこか皮肉げに感じた。


「僕と、君と、セリスの父上も。こんな風に飲んでたんだよ」
 果実水の杯を大事そうに持ちながら、リーフ。
「だから僕は、こんな風に飲み交わしてみたかったんだ」
 それは普段より幼げな物言いで、余計にアレスの胸に刺さった。たまにこうして、リーフはキュアンのトレースをしたがる。アレスにはそれが酷く不快だった。


 全く意味のないことだ。

 神器を継がないリーフこそ、何よりそれをわかっているだろうに。年少の親友はあけすけにアレスに『エルトシャン』を求めてくるところがある。薄く笑顔をたたえた(利用すればいいだろう?)セリスとは違うところで。

 暫く杯を仰いだ後、リーフがまた立ち上がった。アレスの黒衣を引いてあっち、とあどけなく笑う。
「お土産を探そうと思って」
 デルムッドには酒を土産にしようと思っていたが、リーフは少し笑って「リーンには?」と聞いてきた。酒では駄目だ、といいたいらしい。リーフは男の友人への土産を、といった意識が欠けているので(何しろ半分以上臣下の扱いなので)女に贈る土産しか土産とは呼ばないらしい。
 ミレトスでの休憩の後、鏡の前でティアラを被ったナンナが百面相をしていたのを目撃したアレスとしては、リーフのくせに結構ませてやがる、と思うのだった。
 おどろおどろしい土産物屋の前で立ち止まるリーフには、とりあえず苦情をつけておく。
「リーンにはもっと華奢なものが似合う」
「アレス、わりと乗り気?」






「そこのお兄さん方、いいひとに贈るならうちの店なんていかがです?」
 人混みが途絶えてきて、大通りに戻ろうかと軽いリーフの足取りを止めようと思った時に、その声はかけられた。年齢の解らない、女の声だ。
 見ると、その店は女が一人で開いているようだった。一人でひけるくらいの幌のついた車を、そのまま店にあつらえている。
 そのどれにも値札はなく、それほど華美ではなかったが、素人目にも質の良さが見て取れる。
 異国情緒のある品物は、どれも、どこか心惹かれるものだった。
(あの手鏡なんて、リーンに似合いそうだ)
 その傍らでリーフは奥を見咎めて呟いた。
「奥のは?」
「ああ、美しいのですが、売り物にはならないのですよ」
 女は丁寧な手つきで奥に納めてあった籠を取り出してくる。見ると、それは見事な作りをした鳥篭であった。中に一羽、緑の羽に、風切り羽だけが黒い。
「カナリア、か?」
 女は柔らかに頷いて、ですが、と言葉を続けた。


「このカナリアは、歌わないのです」










 例えばこの世界にはあらゆる要らないものがあるのだ。

 切れない剣。
 演説できない王様。


 そして、歌わないカナリア。



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