例えばこの世界にはあらゆる要らないものがあるのだ

百一度目の自問
一時の友人
演説できない王様


そして
歌わないカナリア






鳴かないカナリア
2:神秘の娘





「歌わない、とはどういうことなんだ?」

 カナリアというのはその類稀な美しいさえずりから、それが『歌』と表現される。それではカナリアのくせに鳴き声が美しくはないのか、とアレスは考えた。
 物売りの女はショールに包まれた白い顔を笑みに深めると、いいえ、と続ける。
「鳴かないのですよ」


 鳴かないカナリアには価値が無いので、売り物にならないのです。

 事も無げに告げられた事実は当然だ、と言う思いと胸を締め付ける苦しさをアレスに与えた。鳥篭の中のちっぽけなカナリアに苛立ちが沸いてくる。これはつまり、破壊的な衝動に近い。
 故意に視線を逸らしてアレスは先ほど目に映った手鏡を差し出した。
「これをくれ」
「では、お代はこれほどに」
 見るとリーフはそんなアレスの心境には一切気を止めず、滑稽な形をしたベルとにらみ合いをしていた。女への土産を選ぶのに、どうしてそういうものに目が行くのだろう。
 アレスの視線に気がついたのだろう、リーフはまだ酒の抜け切らないにこやかな笑顔を向けて、彼の買い物を決定した。


「私は、このカナリアを貰おうか」





 傭兵をしていた間、アレスが学んだのは、つまり誇りなど何の役にも立たないということだ。生き延びるためには必要なことではない。
 戦場で生き残るためには、『君だけの価値』など必要ない。共通して価値をもたらす有用性だけが全てだった。
 例えば、切れない剣などいらない。
 怪我を癒せない聖職者の祈りなど塵以下。
 明日剣を向け合う友情なんて真っ平。


 王様なんて、何の意味もない。

(王が誰であろうと、俺達は何の恩恵をもらえもしないのだ)



 そこに、なんの、意味が。





 カタカタ、と小さな音を立てながら目の前を親友が進んでいく。鳥篭の中には生きた鳥が鎮座しているので気を使っているのだろう、足取りは行きよりもずっと遅く、人混みの少ないあたりを縫って歩いている。
 背はけして高いわけではないが、不思議と小さい、とは思わない少年だった。動作に繊細さがなく、いつでも全身で動いているからかもしれない。もしくは毅然と張られた背中にあるのか。
 その性根は生真面目で努力家。感情の起伏が激しく、芯が綺麗だ。つまりアレスとは対極にあるような少年だった。
 生まれて間も無く両親の、そして国の復興を背負わされて育ち、王となることを疑いの無い事実のように思っている。アレスが思うように自分の意思だとか個人の自由とか、そんなことは考えもしないのだろう。
 それが酷く不自由で憐れなことのように思うのに、アレスは惨めな思いを感じてならなかった。
 リーフはきっと、己が必要とされないことなど考えたこともないのだ。


「どうするつもりだ?」
 大人しいカナリアを指しての言葉に、リーフは振り返ることは鳴く、上機嫌に返事をしてくる。
「土産にする」
 アレスはその返答に眉根を寄せた。鳴かないカナリアなど土産にして誰が喜ぶのだろうか。酔いゆえの戯言にしては趣味が悪いと思う。
「止せよ」
「どうして?」
「悪趣味だ」


 足取りを止めてリーフが振り返った。急に止まったために鳥篭が柔らかく揺れる。
 少年は特に不快げな表情を浮かべているわけでもなく、我侭を言う前の子供の顔に似ていた。
「でもアレス、私はこれの声を聞かせたいんだ」
「鳴かないと、言っていただろう」
 聞き分けの無い、と語調を強めるが、リーフは動揺する様子もなくでも、と続けた。


「誰にも聞いてもらえないなんて、残念だろ?」

 だから、サラのところに連れて行くんだ。彼女はきっとこれの声を聞いてくれるから。


 アレスは当惑した。










「デルムッド様、ノディオンからの書状です」
「見せてくれ」
 紙の音がした。
「……アグストリアの状況は、悪いな」
「はい。残存のグランベル貴族のほとんどはアグストリアに逃亡したようですから。勿論アグスティ各地の駐屯軍はそれを受け入れています」
「ノディオンは四面楚歌か」
 デルムッドの表情が目に見えるようだった。その卓越した事務能力も、先を見据えた剣も。冷たいカリスマも全て柔らかく隠す術を心得ている従弟は書類を前に難しい顔をしているだろう。


「デルムッド様」
 トリスタンの淡白な声がいたく響いた。
「アレス王子は、アグストリアに行かれると認められたのでしょうか」
「うん」
「私には」


(私には、あの方を信じられない)

 アレスはその場を去った。多分、デルムッドはアレスがここに居ることを知っていただろう。





(俺は、ノディオンを知らない)

 知らないシアルフィを思うセリスも、敵のトラキアを当然に自国と思えるリーフも。
 生きていることさえ、知らなかった自分を王にしようとするデルムッドも。


(理解不能だ)

 アグストリアを、愛せるだろうか?

(あの方を信じられない)
 トリスタンは、常人だ。






 扉の外の気配が消えて、デルムッドは苦笑を浮かべた。
「アレスは、あれで意外と情深いからね。一度懐に入れてしまった者に対して、彼はどんなことをしたって守ろうとする。……セリス様に対しての、彼の始めの様子を覚えているかい?」
 トリスタンは眉を顰めた。問答を求めもしなかったアレスの様子を思い返す。あの姿はまさに獅子王と字されるに相応しいと思えた。
「アレスにとって、セリス様を殺すことは、そのまま彼の母上の思いを守ることに繋がっていた」
「エルトシャン王の、仇を取ることではないのですか」
「違うね。少なくとも、アレスは伯父上のことはどうでもいいんだ」


 デルムッドは書類を手にすると、そこの記されていた文字をなぞった。ノディオン。

「彼には、ノディオンが特別という意識もない。だからこそ、俺は……アレスにアグストリアを、愛させてみたい。それが見たいんだ」










 サラにお土産だ、と言うリーフに何となく着いていく。アレスにはリーフのいう”サラ”が誰だか思い当たらない。聞くと、妹のような存在だとリーフは言うが、若い娘は鳴かない鳥を贈られて喜ぶものだろうか。
 中庭に入ってきょろきょろと周囲を見渡したリーフは、人影が存在しないのを確認してテラスに入った。それから楽しそうにカナリアを眺めている。
「おい、リーフ?」
 訝しげに声をかけると、その呼びかけは二重になった。


「リーフさま」

 幼げな声が場に届いた。その希薄な気配に気がつかなかったことにアレスは多少狼狽し、リーフはあたたかな目になって手招きする。
 中庭に現れたのは一人の少女だ。一目で武具を振るうものではないとわかる衣装に、長いヴェールを被っている。ヴェールの下からも零れる長いアッシュブロンドの髪がゆらゆら揺れた。
 サラはヴェールをかき寄せると、碧の瞳を覗かせる。それはどこか悪戯げな輝きを宿らせていた。
「あたしにお土産?」
「ああ。他にも面白いお面とかも見つけたんだけど」
 まさか、あの不気味なお面はこの華奢な少女への土産を選んでいたというのだろうか。アレスはそのほうが驚いた。
「ふうん……リーフさまには敵わないけど、綺麗な声で鳴く鳥ね」
 僅かに首を傾げると、サラは面白げに付け加えた。
「おなかがすいてるみたい。リーフさま、その目が柘榴に見られたんじゃない?」
「え。私の目はあげられないぞ」
 リーフさまの目がなくなったら、あたしがつまらない。サラは笑うと(笑顔は年相応に可愛らしい)鳥篭を抱えた。
「そこでぼうっと突っ立っていないで、果物の一つも用意してくれない?向こうの通路で、赤い髪した男が立ち往生してるから、アレスが呼んできてよ。彼が果物を持ってるの」
 アレスに視線をやるや、サラの目はつまらなげな色合いを見せた。
「迷う前に、してみないとできないこともあるのよ」
 予言めいた口ぶりが、見透かしたように囁く。


 廊下の向こうを除いてみると、はたして男はいた。赤い髪をした黒装束の男が果物の籠を抱えて、困惑したように辺りを見回している。
「おい、そこの」
「ああ、騎士殿。このあたりで小柄な女性を見かけなかったか。長いヴェールを被っているのだが」
 男の言葉にアレスは息を呑んだ。
「呼んで来いだとさ」
 セイラムは、さして疑問を口にすることもなく続いた。何だ、驚いているのは俺だけか。


 即席の茶会は、何事もなく終った。セイラムに果物を剥かせたサラは、カナリアが果汁をつつくのをさせるままにしている。
 リーフはサラにカナリアの声を聞かせればそれで満足がいったようだが、セイラムが言うのに(飼われていた鳥は、急に自然に返すと自力で餌が取れなくて直ぐに死んでしまう)サラと一緒に驚いていた。アレスも知らなかったので驚いた。
 そのため、サラがやはり持ち帰ることになったようだった。
(リーフさまの次くらいに、綺麗な声だから。ちょっと気に入ったわ)
 彼女にはカナリアの声が聞こえるらしい。






「歌わないカナリアなんて、意味がないと思っていたが」
 廊下をリーフと進みながら、アレスは呟いた。
「私は、あれの鳴き声は聞こえない。でも、他の誰もそうとは限らないだろう?」
 リーフはひなたのように笑うと、機嫌よく足を進める。


「私には、沢山できないことがある。あらゆる武術を、魔法を修めたけれど、これからはもっと違うことが必要とされるだろう。それでもいいんだ」

「私には、私に足りないものを教えてくれる人がたくさんいるし。カナリアがどんな声で鳴くのかも」

 リーフは瞳を細めて、耳を澄ませた。

「楽の音だ」

 足を速めて、リーフが駆け出していく。










(君は、王になるよ)

 確信めいた言葉で、デルムッドは繰り返す。
 この迷いも、不安も。恐れる弱音を聞きながら。











「アレス、やっと戻ったのか」
 部屋に訪れた従兄の姿に、デルムッドは睨みをきかせた。とはいっても、睨みを利かせる余裕はないので直ぐに手元の書類へと視線を戻された。
 散乱する書類がほとんどは訳の解らないものであることに閉口するが、デルムッドはその中から薄めの冊子を押し付けてくる。
「それが、アグストリアの現状だよ」
「またか」
「いいから見てみてくれ」
 アレスがうんざりしたように冊子を開く。だが、考えていたのとは違ってそこには平易な表現で簡潔に国の現状が記されていた。
「なんだ。始めからこういうものであればいいものを」
「マンスターのある修道院で、勉学に使用されていた教本の一つだよ。グランベルでは子供がほとんどいないからね。よく情勢に長けた人が作ったというだけあって、わかりやすい」
 子供用、と聞いてアレスの眉が寄せられるが、デルムッドの無言の空気を受けて渋々と目を通し始めた。


「なあ、デルムッド」
「なんだい?」
「お前、歌わないカナリアをどう思う」
 デルムッドの返事がないので、アレスは顔をあげる。そこには(また何を言い出したのか)と言いたげなデルムッドの視線があった。
「別に、答えんでも」
「いや、待ってくれ。君の質問には誠実に答えたい」
 デルムッドは手元の書類作業さえ中断して思案げな顔になった。それにはアレスの方が慌ててしまう。
「別に、んな真剣に考えなくって」
「……楽譜を作るかな」


 滑り出した言葉に、アレスは目を丸くした。

「歌わないにはそれなりの理由があるんだろう。まずは興味を覚える曲を流して関心を誘い、次に簡単な楽譜を作る。そうして順々と……アレス?」

 勿論、アレスは聞いては居ない。
 腹を抱えて笑うのに忙しい。











 アグストリアは貴族の逃げ場所。
 私腹を肥やした長年の貴族、おべっか遣いの腐敗したアグストリア諸所。
 国民は嘆き、ノディオンは激戦。クロスナイツが奮闘しているらしい。
 されどもそこは見知らぬ土地で。取り戻すよりは侵略だ。簒奪するのも面白い。善政を敷くなら文句は出ない。


 目指せ金色の稲穂の国家。かつて騎士の駆けた国。
 黒い魔剣を構えていけば、俺の敵などありはしない。






 さあ、アグストリアの黄金の大空

 飛び立てカナリア。



END