そこは暗い闇であった 色彩に彩られるのは己だけ
恐れることはない 怖がることはない そこは幼き時より生きてきた場所である
男はふと足元を見下ろした そこには女が倒れ伏していた
纏うドレスは白さを失い 艶やかな髪は散らばる 瞳に死相
男は己の手を見つめた
真っ赤だった
黒騎士 1:赤騎士
あがった悲鳴。 耳障りなそれを気にも留めず血に濡れた刀身を振るう。
――この剣は、血を好む。
魔剣は啜る様に血をこそぎとり、斬る度に剣は赤みを増しているようにも思えた。 目の前に倒れこんだ男が事切れたのを見て取って。 アレスは暗く笑うとミストルティンを鞘に収めた。
「アレス」 辛そうな、悲しそうな、厳しい顔。 顔に登るは明らかな死期の予感だった。顔は青ざめた土気色であり唇はささついていた。その瞳の意思の色だけは消えはしなかったが。 己の名を呼んで悲壮な頼みごとをする。 柔らかな笑顔も、泣き顔も、記憶にはあるはずだった。だがその人を思い出すときはその顔しか思い浮かばない。
大地の色をした髪をもつ女であった。彼女はアレスを深く愛し、また夫である父を愛していた。彼女の口から己や父への責めごとをきいたことは一度たりともない。 傍に付いた医師が暗い顔をして出てくるようになった頃、彼女は一つのことをアレスに話し始めた。 「父上はね」 それを告げるときに彼女の唇が震えるのが不思議であった。今思うとおそらくそれは怒りや憎しみであったのだろう。子供だった己の前でそれを晒すのを厭ったのだろう。 「父上は、シグルド公子に殺されてしまったのよ」 そう言い切った後には彼女は決まって支えるように己を抱きしめた。とても辛いことを話しているようだった。 「だからアレス」 悲しい顔をして言う。 幼い自分は母の悲しみを取り除いてはあげられないかと試行錯誤を繰り返した。母親が悲しそうにしているのはいつの時代だって子供は耐えていられない。 「いつか、仇を取って頂戴」
だからそれまで、絶対に死んでは駄目。
父の友人の裏切りを告げるよりも、彼女はその後の言葉を強調して繰り返した。死んでは駄目、生きて頂戴と何度も告げた。 グラーニェはまだ小さな獅子王を抱きしめて囁く。
「これが、私の残す鎖よ」
まもなく母は死んだ。
「よぉ、アレス!」 屈強な男がアレスに向かって言葉を投げた。ジャバロー率いる傭兵団には彼以外アレスに話しかけるものは居ない。声が誰か、と考える前に誰かがわかったのでアレスは振り向いた。 ジャバローは返り血を落としても居ない服を纏ったまま豪快に笑う男だった。 母を失い、身を寄せていた領村が帝国によって滅ぼされたときにやってきた傭兵団を率いていたのがジャバローだ。考え方に寄れば彼はアレスの居場所を奪った仇であるはずだった。だが母が亡くなった後の村人達にアレスはなんら拘りは持たなかったし、何より男は生きるための場と手段とを叩き込んだ存在であった。 多少の恩も感じていたのかもしれない。アレスはジャバローの言うことには逆らったことがない。それを承知しているのだろう、彼自身も無茶を言いつけてきたことはなかった。
「今回の戦は活躍だったそうだな?」 「別に。いつも通りだ」 ジャバローは顎をしゃくってアレスの鎧を示した。金属によって作られた鎧はほとんど見栄えのためだ。 美丈夫たるアレスはただでさえ舐められる。こうした虚勢も必要であった。実際にはアレスは鎧が必要になるような事態に陥ったことなどなかったが。 その鎧は血で赤く染まっていた。勿論アレスの血ではない、返り血である。 ジャバローの気質が移ったのかアレスもまた自らに付着した血に頓着することはなかった。ジャバローはそれをみてからからと笑う。 「いい感じに育ったもんだな?赤騎士よ」 アレスが目を顰めると、ジャバローはその横に座った。置かれた酒をボトルごとあおって一気に飲み干す。ぱあっと広がった酒気が血臭と混ざり合って戦場を思わせる。 赤騎士というのは、アレスに字された名であった。彼は服にも鎧にも頓着はしない。目立つのはその豪奢な金の髪だったり容姿であったりするが、最も映えるのはその返り血に塗れた姿である。 勝手なものだ。 実際ほとんどの通り名など見知らぬ誰かがつけるものではあるが。
「俺の部下も、もうてめぇに難癖つけてきやがるような奴はいないだろ」 ジャバローの言うことが掴めなくアレスは視線を向けた。 アレスがジャバローに拾われてからというもの一体何人の罵声の前に晒されただろうか、嫌悪と屈辱。流血沙汰になったのも多々あった。 だが確かに最近はその手のことも少ない。
「アレス、お前が怖いんだよ」
ジャバローはにやりと笑った。 「お前の名前はもう傭兵仲間の中ではピカイチだ……ノディオンだったかの後胤、魔剣ミストルティンを持つ騎士、アレス」 女たちは放っておかないだろうがな、とジャバローは軽く笑ったが、アレスは呆れて嘆息するだけに留めた。 「この街から、一人踊り子が同行するぜ。い〜い女だ。手は出すなと伝えてあるが……まぁ、女ならお前に抱かれてぇって思うかもな」 お前なら構わんよ、と笑い飛ばして言っている。 そういえば先ほどから傭兵達が浮き足立っている、その踊り子のためだったのだろう。どこからか楽曲も聞こえてくるような気もするが、傭兵の中に手ほどきを受けたものでも居たのだろうか、中々良い演奏だった。 「興味ないな」 そっとミストルティンを抱えて囁く。 「俺が昂ぶるのは……戦場だけだ」 おお怖ぇ。 そう嘯いてジャバローは去っていく。
嘘はない。 幾度とこの剣に血を浸し、アレスはその度に強くなっていったのである。 生きなければならなかった。 生きて生きて生きて。
シグルドを、その息子セリスを殺す。
(血が欲しいのか、ミストルティン) 魔剣は妖しく煌いた。 百も万をも殺してやろう。
その数日後も戦に出た。 事は砂漠を荒らす盗賊の件である。ジャバローの親しくしている大商人がその盗賊たちによって大きな損害を負っているらしく、その殲滅を依頼してきたということだった。 盗賊ごとき物足りなさを感じるが、アレスはそれでも良いと思った。 (数はいるだろう) このミストルティンにどれほど血を吸わせてやれるだろうか。
砂塵の飛んでくる土地であった。 ここはマンスターから砂漠へと進む街道である。ジャバローはマンスターでの仕事を終えた後今回の依頼主の呼び出しを受けてダーナに向かうということだ。 北トラキアは肥沃な土地である。それはこの地で育ったアレスもよく知っている。重税を課されてもそれを何とかできるほどの富んだ地。子供狩りにあっているというが、アレスは子供と縁がない。 他の傭兵と別れながら、アレスは視線を巡らせた。視界の端に、ふとこちらを窺っているような影を見つける。 暗く笑って、アレスは剣を抜いた。
ひとつ、ふたつ。 途中でいつも考えることを止めてしまう。 何人殺そうが構わない。要はたくさん殺したということだ。
(アレス)
殺さなければ己が死ぬ。野垂れ死にはごめんだった。 人を殺して金が稼げる。食べ物が得られる。……腕を、磨くことができる。 傭兵はなんとも都合の良い職であった。
(アレス、父上はシグルド公子に殺されてしまったの)
血が噴出すたびにその端正な容姿に笑みが登る。 それは、危地故の興奮と支配者たる絶対的な喜悦であった。 傭兵仲間は口を揃えて言うのだ。「アレスの傍には寄りたくない」 それも道理であろう。戦場のアレスは誰を斬ったかなどおそらく覚えてはいない。誰を、ではなくどれだけにしか考えが及んでいないのだ。
どれだけ、命を奪えるか……。
(生きて頂戴)
そうして、アレスは生き続けるのだ。
「つっ」 背後から飛んできた矢が掠った。幸いにしてそれは手綱を操る左手。新たな相手にアレスの笑みが深くなった。弓を射た男はその笑みをみて痛烈に悔いる。 逃げればよかったと。
左手に負った傷がじくじくと痛む。 「よぉ、アレス。今日も大活躍だったみたいだな!」 「当然だ」 アレスは話しかけてきたジャバローを眺めたが、彼は既に話題を違えているようだった。アレスは足を速めてその場を去った。
視線を感じる。 そのどれも畏怖のものだった。そんなものに動じるほど繊細にできてはいないが傷のせいか嫌に苛立つ。 男たちの中に変わった一団を見つけてアレスは訝しげに眺めた。治療の輪であるらしい。 あんな輪を作るほどにあの盗賊に手間取ったでもいうのだろうか。 アレスは苛立ちを隠さずに傷のことは忘れることにした。遅れをとったなどと思われることは不愉快だ。
張られたテントの端にでも行こうと足を速める。輪からのものだろうか、やけに耳に声がちらついた。それは決して耳障りなものではなかったが今のアレスには要らぬものであった。 服は、鎧は常と変わらず血を浴びて真っ赤に黒ずんでいる。戦のたびに服は新調せねばならなかった、今度は赤い服でも選ぼうか、皮肉のように感じた。じくじく傷が痛む。 耳元に声がちらつく。煩い、放っておけ……と振り切るように進むと、そこでマントを掴まれた。
「何を……」 わざわざ己に近寄ってくるのならばジャバローか。それならばこの態度は不味かったが今は彼にも苛立っている。邪険に振りほどいて立ち去ろうと振り返ったその先は、だが見知らぬ女であった。 「ちょっと、そんな大怪我してどこにいくのよ!」 アレスは面食らった。大怪我とは一体誰のことだろう。だが女はアレスの様子に気づかずさぁ、とマントを引っ張る、せめて腕を引っ張るなど考えないものか。 黒々とした漆黒の髪をした女であった。結い上げられた癖のある豊かな髪は呆れるほど長い。それとはうって変わって白い肌にぱらぱらと振りかかっている。 一流の娼婦にも見られないような美貌。それでいてしゃんと立っていた。 動きやすそうな軽装を纏ってはいたが、女の傭兵には見えなかった。だが腰に差された剣がやけに似合っている変わった女である。 一瞬目を奪われた理由は瞳であった。漆黒の瞳は奇妙な高貴さを漂わせ、どこか触れてはならぬような色さえ見せている。 「おい、放せ」 「何を言ってるの、早く手当てしないと……」 「全部返り血だ」 女は疑わしげにアレスを見上げた。随分とずけずけと突っ込んでくる女だ。 視線が不意に下にずれたので、アレスの視線も一緒に動いた。彼女は片手に水桶を持っていた。
ばしゃん。
アレスは目をしばたいた。滴り落ちた水が目に入ったのである。 空っぽになった桶がカラリと落ちる。女は不躾にアレスを見やっていた。水をかけられたのだ、とわかった瞬間罵声を浴びせようと口を開く。 「してるじゃない、怪我」 「あ?」 「手よ」 新しく染み出てくる血は自分の傷って事でしょう、と女は言ってアレスの左手を無造作にとる。そこからは先に負った矢傷があった。 「いたそー・・・小さい傷ってズキズキ痛むのよね」 女は目を見開いたまま動こうとしないアレスに溜息を投げかけると取り出したハンカチで軽く縛った。手馴れた手つきである。 「やせ我慢してちゃ駄目よ!」 頭一つ高いアレスの背中を叩いて笑った。微笑みが驚くほどあどけない。
それじゃあね、と軽やかにとって返そうとした女の腕を、咄嗟に掴んだ。女は僅かに顔をしかめた。手が捕らわれているのが気に入らないのだ、というのがよくわかる。
「お前、俺の女になれよ」
女はきょとんと目を見開いた。そんな顔も酷く幼く感じる。 「騎士さん?」 アレスはこくりと頷いた。条件反射である。 彼女が笑う。とびきり魅力的な微笑みであった。
「お断りよ。口説き文句も勉強しておくのね」
放心したアレスを置いて、女はあっさり去っていった。 後に獅子王と呼ばれ全アグストリアを統一するノディオン後胤アレス、この時19歳。 これは彼の残酷な傭兵時代に出会った、黒曜の舞姫レイリアとの物語である。
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