それは陽だまりのにおいがした。
 嘘つきなひとみより正直で
 優しいくちびるより毒のある





ぬくもりをあなたに
        PART 1−1
              東藤和稀さま





「人間ってあったかいよな」
 ぽつりと兄が呟いた。
 昨日会ったばかりの従姉妹についての言らしい。
 戸惑ったような言葉にラナは苦笑した。
 兄を称して冷静沈着と言った者を呆れてしまう。
「そうね」
 敢えて意味を取り違えて、ラナはにこりと微笑んだ。
「今さら戻れはしないけど、人と人とが争いあう世界なんて間違ってる。
少しでも早く、人がほんとうに人と思いやりあえる世界にしなくちゃ……」
 編みかけた籠を抱きしめ、ラナは言う
 決意の色をのぞかせる。そして、その世界の王は、セリスであるべきだった。
「……ああ」
 自分の内にあったたるみを覆いつぶし、レスターは胸の内で妹に詫びた。
 今は、何よりも優先すべきことがある。
 自分より年下で、戦場で振るう剣のない少女でさえ、それが分かっている。
 レスターはラナの髪をそぅと撫で、頷いてみせる。
「一刻でも早く。俺たちは平和な世界を作るんだ」
 そうよ、兄さま。
 ラナは撫でられる感触を楽しんで目を閉じた。
 茜色の髪はふわりとした見かけほどやわらかではなかった。
撫でる方も撫でられる方もそれを知っている。麦穂の先のように少し固く、それが弾力を返して気持ちいい。
「……あたたかいわ、兄さま」
 ラナはぽつんと呟き、嬉しそうに微笑んだ。


※ ※ ※


 ラナは一日の半分を修道院で過ごす。
 母が勤めている院で怪我人の世話を手伝い、次いで杖魔法について教わるためだった。
 魔法には大きく分けて二つの発動の仕方があった。
 一つは魔道書を媒体とする方法、もう一つは杖を媒体とする方法だ。
 いずれも強い魔力を込めたアイテムを介し、自分の魔力を形にするのである。
 ラナが習っているのは後者の方だ。杖魔法の真価は癒しの術にある。ライブの杖を使えるようになれば一人前だ。
 ティルナノグには魔法の使い手がほとんどいない。
 それは、剣王を中枢とするイザークという土地柄もあるが、魔法の癒しを潔しとしないイザーク人の心意気もあっただろう。
 ラナの信仰しているエッダ教の教会が他と比べ少ないのである。
 ティルナノグには高司祭位を持つエーディンがいたので、教会はほどほどの栄えを見せていた。虐げられた人々が信じるのは、何よりも形ある奇跡だったのである。

「ラナさま」
 修道院を抜け、丘の上を通る長い道を歩く。
 ラナの護衛役は生粋のイザーク人の青年だった。外国人であるラナに対しどういう感情を抱いているのか、ラナは深く考えたことはない。エーディンを尊敬しているらしい、とだけ知っていた。
「なんでしょうか?」
 ラナは行き倒れを埋葬しているところだった。修道院で野盗の噂を聞いた矢先だった。おそらく、近くの村人だろう。荷物も何もなく身元の分からない男性だったが、手厚く葬ることにした。エッダ教の神ブラキ神と、祖神ウルに冥福を祈る。
「ほら、あの光。何だと思いますか?」
 指差す先に、確かに光るものがあった。
 きらりと太陽に反射して、遠目にはガラスの欠片が落ちているような輝きだ。
 ラナは訝しげに首を傾げた。
「なんでしょう? 確かに、不思議ですね」
 不思議に思った時、ラナは躊躇しなかった。
 この性格で損をしたことも一度や二度ではない。
 ティルナノグの中でも一二を争う……とは、からかいじみな笑みでセリスが言った言葉だ。
「ついてきてもらえますか?」
 ラナは上目で尋ねる。
 背の低いラナが青年の目を見ようとすると、どうしても見上げることになる。
 そのための癖だったが、これは効果があった。
 邪気のない娘の願い事を邪険にするほど、イザーク人は性根が悪くない。
 
 丘を登り終えたところに、目指すものが光っている。
 近くで見ると、それは卵だった。
 淡い乳白の輝きをした、卵。ラナはまた首を傾げた。
「なんの卵かしら」
 問うように青年を見上げる。青年も首を振った。
「お母さまなら、分かるかしら?」
 ラナは一抱えほどもある卵を抱えると、元来た道を戻り始める。
「戻るんですか?」
 青年が尋ねる。ラナは頷くと、にこりと微笑んだ。
「はい」
 青年は毒気を抜かれたような思いでラナに笑い返す。
光が卵だと分かった時に、こうするだろうことは、なぜだか分かっていたような気がした。
 丘を降り終えたころ、日は傾きかけていた。

 ラナの抱える卵を見て、エーディンも小首を傾げた。
 どうにもこうにも、大きすぎる。ラナは小柄だが、それにしたって、この卵の大きさで孵る生き物の大きさは、数メートル規模になるのではないか、とエーディンは考えた。
 さすがにそれは突飛だろうとラナは思う。
 卵から孵った生き物が、みな、卵の数倍の姿に成長するわけではない。
 卵はラナの腕の中で、ほんわりと温かい。
「育ててもよいでしょう? お母さま」
 ラナは滅多にわがままを言わない、とエーディンは思っている。実際は、エーディンの「わがまま」の認識レベルが他と異なるからなのだが。
「止めないわ。私も見てみたいもの。大きさから言って、飛竜かもしれないわ」
 エーディンは楽しそうに笑う。
 ただ、一つだけ訝しげに添えた。
「おかしな胸騒ぎを感じるのが気になるけど。卵というのはみなそうなのかしら」
 修道女に向かい毛布を持ってきてもらえるようにと頼むエーディンに、ラナは苦笑した。
「お母さま。それくらい自分でやるから大丈夫よ」
 上着を毛布代わりにしたまま、ラナはエーディンの部屋を後にする。
 修道院に留まる時、部屋代わりに使っている部屋のものならば、修道女たちもそれほど困った顔をしないだろう。
 エーディンには、修道院に予備の備品がないという発想が足りない。
 それは困ったことであり……実は良いことでもあった。
 修道院を訪れる人々の不安を取り除く、汚れも不安もない微笑み。それが、エーディンにはある。
 修道院の実情を知るラナは、いくらかの後ろめたさとともに、それを羨んでもいた。
「卵さん。あなたは、どんな生き物に孵るのかしら?」
 ふんわりと撫で、ラナは自虐的な笑みを浮かべる。
「私のように醜い生き物に、育ってはだめよ?」
 石造りの廊下にコツコツと足音が響いていく。



 ラナの帰りが遅いことに、セリスは焦れていた。
 行き先ははっきりしているし、護衛役もついているのだが、ラナはどうしても危なかしい雰囲気を持っている。
 それは、剣が使えないとか、そういうことではなかった。
 ラナはティルナノグで育つどの子供よりも芯のある精神の持ち主だったし、多少のことでは動じない胆力を持っている。
 実のところセリスは子供たちの中でもラナを信頼していた。
 迷い、悩むところの多い自分と違い、ラナの中にはいつも決断があったからだ。
 ――だが。
 セリスは、ラナの危うさをよく知っている。
 一途さは時に残酷さだった。強い精神は決めてしまったことへの揺らがない自信だった。
 ラナが、誤った決断をしていた時、誰が止められるだろうか。
「――遅い」
 ティルナノグの見張り台で呟くセリスに、レスターが宥めるように声をかける。
「妹は心配いりませんよ。それよりセリスさま、明日に障ります。
妹が戻りましたらすぐにご連絡しますから、早く休まれるべきです」
「しかし」
「妹は、ああ見えてたくましい。どうせ、母上のわがままに答えているだけに違いありません。
明日の朝にはけろりとした顔でセリスさまを起こしに参りますよ」
 レスターの言葉に、セリスは顔をゆがめたまま、沈黙した。
 長く迷った後、重いため息をつく。
「何か連絡があったら教えてくれ」
「はい。……おやすみなさいませ」
 とぼとぼと部屋へ戻るセリスに、レスターは深く頭を下げた。
 それから、厳しい表情で修道院のある丘の方角へと視線をやる。
 急の泊まりなどで予定が狂う場合、ラナは必ず連絡を寄越している。
 護衛役が馬を飛ばしてくるか、あるいは伝書鳩か、狼煙か。
 さすがに、狼煙はないだろうとレスターは考えた。緊急事態であればすでに連絡が入っているはずだ。
 はた迷惑な妹だ、とレスターは思い、無表情にわずかばかり笑みをのせた。
 母と似た突拍子のなさは、軍に悪影響を与えてはいなかった。働き者のプリースト見習いが見せるちょっとした気遣い、気まぐれ、あるいは失敗。それはいつのまにか人に笑みを与えるのだ。
「レスター殿」
 見張り台の男が声を上げる。男の視線を追い、レスターは目を細める。
「何か出たか」
 男は見張り台の松明の光を、三度振ってみせる。
 外から近寄ってきた者が味方かどうか、確かめる合図だ。
 馬の足を急がせ、近づいてきた者は光に気づいて立ち止まった。馬の首につけた布を右に一回、左に二回ひらめかせる。
「はい」
 松明の信号を終えると見張り台の男は答える。
「ラナ殿の護衛役が戻りました。――ひとりのようです」
 レスターは入り口に向かって駆け出した。



「卵だと?」
 事情を聞いたレスターは、眉をしかめうめくように呟いた。
「はい。ラナさまは、エーディンさまのご好意により今夜は修道院でお休みになり、明朝のお勤めの後、お戻りになります」
 自分は連絡役を頼まれました、とイザーク人の青年は言った。
「それで、おまえは」
「報告後、修道院の方に。明朝ラナさまと共に戻ります」
 予想通りだ、とレスターは渋い顔をした。これだからとり越し苦労だと言ったのだ。
「ご苦労。道中、変わったことはなかったな?」
「はい。裏道を通りましたゆえ、敵に気づかれた様子もありませんでした」
 レスターは労いの意味をこめて頷くと、踵を返した。
「下がっていいぞ。ラナを頼む」
「心して」

 報告を受けたセリスは、安堵と憤慨のため息をついた。
「しかし……、そんな大きな卵だなんて。レスター、聞いたことある?」
 レスターは極力表情を崩さぬまま、「どうでしょう」と答えた。
「遠くトラキアの地にいる飛竜ならば、そのくらいの卵になるでしょうが。
イザークに大きな卵の生き物など、聞いたことはありません」
 そうだよね、とセリスは頷く。
「ラナが帰って来たら、教えてもらおうかな……」
 自分の君主たる人物は暢気だ。
 それを喜ぶべきなのか、危機感を抱くべきなのか。レスターにはまだ判断ができない。
 セリス自身、君主となる自覚があるかどうかあやしい。
 分かっているのは彼はリーダーで、それはティルナノグにやってきた当初からすでに分かっていたということだった。





 卵は陽だまりの匂いがした。
 ずっと丘に落ちていたのだろうか? 親鳥は何をしているのだろう。
 ラナは両手で抱きしめながら、思いを馳せた。
 ラナに当てられた修道院の一室だ。日はとうに沈み、中空には欠けた月が浮かんでいた。
 あいにくと天気は曇りであるようで、星はほとんど見えない。
「ティルナノグのお城にはね。セリスさまがいらっしゃるのよ」
 そっと耳元でささやくように話し掛ける。
以前、生まれる前から生き物は声を聞いているのだと教わったことがあった。
「朝やけがすごくきれいなの。修道院から見る朝日も見事だけど……やっぱり、お城からの景色と比べたらぜんぜん違うわ」
 高台にあるため、ティルナノグの屋敷は格別の景色を持っている。見張り台も兼ね、また、ガネーシャ方向から森で遮られて分からない。
「卵さんは、翼のある生き物かしら。それとも、馬みたいに走る生き物かな。
ティルナノグは、遠くまで行かなければ平和よ。安心してね」
 気休めだと知りながら、ラナは微笑む。
 平和だなどととんでもなかった。
 ティルナノグは隠れ里だ、いつダナンの手の者に見つかり戦になるかしれない。
 今日もシャナンをリーダーに、見張りがぴりぴりと辺りを巡回しているはずだ。
 巡回はイザーク人の風貌をした者が回ることになっていた。万一、見つかった時に、農民に紛れ込みやすいからだ。『反乱軍』だと気づかれれば、間違いなく殺される。下手をすれば尋問にかけられ、ティルナノグの場所が明らかになりでもすれば、自分たちは破滅だ。
「セリスさまは……なんておっしゃるかしら」
 ほぅ、とラナは息を吐いた。

 公子セリスについて、ラナは複雑な感情を抱いていた。
 それは、言葉で言うならば憧憬や尊敬に近いものだ。
 敢えて示すのならば……恋、だろうか?
 執着にも似た憧憬は、この言葉が一番しっくりくるような気がする。
 ラナがセリスを特別視しているのは誰の目にも明らかだった。母エーディンなどは、「セリスさまのことが好きなのでしょう?」とずばり聞いてきたものだ。
「セリスさまはね」
 ラナは卵に話しかける。
「月の光……ううん。私たちの太陽になる方なの」
 端正な顔立ちや、バルドの血を引く剣の腕では説明のつかない何かが、セリスにはあった。カリスマだとかリーダーシップだとかという言葉をオイフェは当てるが、ラナはそんなものではないと思っていた。
 セリスは司令官には向かない。冷徹な判断がまったくできない。計算で味方を捨てることを決してしない。それは、悪いことではないのだけど。
 ラナはたまに歯がゆくなるのだ。シミュレーションでいくら点を稼いでも、実際の戦となった時、セリスは王でいられるだろうか。
 ラナはぎゅうと卵を抱きしめた。
「セリスさまはきっと苦しまれる。私たちが、支えにならなくちゃいけないの」
 卵のぬくもりは温かく、たまに脈打つような音がした。
「セリスさまに代わる方は、いらっしゃらないから。セリスさまでなくちゃいけないのよ」
 それは過酷な使命だった。
 セリスが望んだわけではない運命を、今のセリスは望んでいる。
「――セリスさま」
 狂おしいもどかしさを覚えてラナは呟いた。
 再び名を呼ぼうとした時、それに気づいた。




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