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それは陽だまりのにおいがした。
嘘つきなひとみより正直で
優しいくちびるより毒のある
ぬくもりをあなたに
PART １−２
東藤和稀さま
レスターは二度、目覚めた。
一度目は妙な予感がして。二度目は確信をしてだった。
風におかしな匂いを感じ、レスターは愛用の弓を手に窓を開けた。
雲が流れるように走っていく。星もなく、黒よりは灰色に見えるのは曇り空だからだろう。
いつもならば熱心な兵士が月明かりで鍛錬しているころだ。
窓から飛降りるとレスターは厩を目指す。イザークには騎馬兵は少なく、厩にいるのは大半が軍用ではなく運搬用の馬だ。
数頭の馬が落ち着かなく鳴いている。
「おい」
馬番の青年は訝しげにレスターを見た。馬を宥めるのに必死らしい、いつもならば礼を欠かさない青年は、馬の背を抑えながら言った。
「どうされました？ 急なご用事でも」
言われて、レスターは目を見開いた。驚いたらしいと馬番の青年は思った。
レスターは軍内で微妙な位置にある。
将来的に弓兵たちを指揮する指揮官となる予定であり、イザークとは縁のないユングウィ公女の血を引く子息である。ユングウィ公国はグランベル国内に未だ高い地位を持つ、その血を引く子息が指揮をとることに、イザークの民には不満もあった。
レスターが今の地位を手に入れたのは、彼が軍内でもっとも指揮に向いた弓兵であったこと。そして、育ちがイザークの地であったことが理由だ。
「……ああ、そうだ。急な用事だ」
レスターは固い表情を崩さず、たずなもつけず愛馬に乗った。
煙がラナの視界を遮った。
とっさに卵を抱きしめたは良かったが、一抱えもある荷物を持って素早い動きなどできようはずもない。
ちりちりと目に痛い。
（どうなってるの）
ラナは煙を吸い込まぬよう身を屈め、目を凝らす。
遠くから悲鳴のような声が聞こえ、ラナは蒼白になった。
「ギャアアアアア――！」
次の音は近かった。煙で視界が覆われ、ラナはそろそろと部屋の出入り口へと近づいた。
悲鳴。煙。
（火事？）
ラナは卵をぎゅうと抱きしめる。
大変だ。もし、そうなら、みなを誘導して脱出しなくてはならない。
「ラナさまぁ――！」
護衛役の青年の声がした。ラナに気づいていないのだろう、あさっての方向へと声は遠ざかっていく。
（いつもの部屋なのに！）
もどかしい思いを覚え、ラナは慌てて首を振った。
それどころではない。
廊下をそうとのぞき込んだラナは、もうもうと目に染みる灰色の勢いに慌てて身を引いた。
（廊下はだめ。窓の方はどうかしら）
小走りに窓に近づく。煙が下階からダイレクトに昇ってくることにラナはショックを受けた。ラナの部屋は修道院の二階だ。一階は炊事場となっている。
火事だというのは、間違いなさそうだった。
「ヒャアアアア――！」
――おかしい。
煙に巻かれる前にラナは部屋を飛び出した。廊下の煙はひどかったが、火が出てそう経っていないのだろう、一方からなだれ込んでくるだけだ。煙の来ない方角を目指してラナはそろそろと進んだ。
――血の匂いがする。
時折耳に響く声は、まるで断末魔の悲鳴だった。
火事に混乱して、煙に巻かれ助けを求める声とは思えない。
「ラナさま！」
抜き身の剣を手に護衛役が走り寄る。剣から散る色にラナは顔をしかめた。
「よかった。ご無事で……こちらはもう煙で巻かれています、非常口に」
ガツンと頭を打たれたような思いがした。
血、だ。なぜ、護衛役の剣が血に濡れている？
「待って。何が起きているの？」
「それは道中に説明いたします。とにかく今は逃げなくては」
青年は急かすとラナを伴って走り出した。煙を避けるべく身を屈めていたラナだが、それどころではないという彼の言葉に従うことにする。煙より早く駆ければ、助かるかもしれない。
――助かるかもしれない、ですって？
ラナは唇を噛んだ。
何を馬鹿な。こんなところで、煙ごときに殺されるほど自分の使命は甘くない。
「その血は、何事です？」
ラナは卵を抱いたまま、立ち止まる。
「ラナさま、それどころでは……」
「大事なことです。何者かの襲撃があったのですね」
ラナの目は真剣だった。瞳の色を見るや、護衛役はそれに飲まれた。
「はい。野盗だと思われます。ひとりは倒しましたが、数はわかりません。彼らが火をかけたようでした」
イザーク人は大局を見るのを不得手とする、と言われる。個人技を磨くことにこの上なく秀でる代わり、大規模な作戦を練る機会が少ないらしい。ティルナノグの城にはオイフェがいた。グランベル式の戦術にイザークのスタイルを合わせた戦術を、『反乱軍』の多くが一度は学ぶ。
「よろしい」
ラナは頷いた。
「非常口はだめ。おそらく敵が回りこんでいる……そうでなくても、いっぱいいっぱいでしょうしね」
ラナは手近な部屋に入るとベッド横の燭台を回した。
がこん、と鈍い音がする。
「いきますよ」
ベッドをズラした下に、ぽっかりと空いた穴が見えた。
修道院に秘密の通路が、と護衛役の青年は驚きを隠せない。
ラナとてはじめから知っていた作りではなかったが、この修道院は元々砦の役目を果たすものだったと聞いていたのだ。
通路は煙が流れてこない作りとなっていた。煙の匂いが鼻に残るが、どこからしているのかは分からない。
壁一枚向こうは煙に巻かれていることだろう。
ラナは卵を抱きしめ、うつむいた。
自分は無慈悲な人間だ、とラナは思う。
なぜ、自分はエーディンの娘として生まれ、こうして修道院に暮らしているのか。
ライブの杖を使い、プリーストなどと名乗ることが許されるのか。
涙はこらえた。
自分には、泣く資格などないと思っていたから。
セリスに会いたい、とラナは思った。人の死を心から悼み、誰かのために自分を犠牲にするあの人の手助けをしたい。
そうすることでしか自分は救われないのだとラナは思っていた。
「ひ……あ……あああ！」
ラナは突然現実に戻された。
煙の匂いがひどくなっている。ずいぶん進んだようだ、そろそろ出入り口へと出られるころのはずだった。
「い、いやぁあああああ！」
また、聞こえる。ラナは困惑して周囲を見やる。
壁の向こうで、誰かが襲われている。
何も考えずラナは壁を押しやった。
自分が逃げ遅れたと自覚したのは男が部屋に入ってきた後だった。
修道院の朝は早い。
多くの修道女がそうしているように、娘は早く寝て早く起きるようにしている。
食事の用意、畑の世話、怪我人の介護。やらなくてはいけないことは山ほどある。
修道院は教会とつながっており、教会関係者の宿舎も兼ねていた。
滞在中の高司祭エーディンの世話が彼女の役割だった。
火事に気づき、娘はエーディンを逃がした。高司祭は、生まれのせいかおっとりしたところがある。高司祭に非常口を案内して、殺到してくる修道女たちを誘導した。
自分の部屋は火元から遠かったので、すぐに出られると考えたためだった。
考えが甘かったのだと知ったのは、見慣れぬ男たちのせいだった。
鋭そうな切っ先を吊り下げ、お世辞にも上等な顔つきはしていない。
男は娘を見ると下卑た笑いを浮かべた。
「誰、なの！？」
本能的に恐怖を感じ、娘は後ずさる。足がベッドに当たったところでそれ以上下がれなくなった。
「誰なのたぁ、ご挨拶だな」
「今から殺されるってのに余裕だねぇ」
男のひとりが楽しそうに笑う。
「すぐ済むから先行っててくれよ」
「物好きだな。そんな女に関わってて焼け死んじまったら笑ってやるよ」
「へっ、そんなに時間はいらねぇさ」
恐怖だった。
娘は当惑し、次いで絶望した。
出入り口には男がいて、自分は部屋の隅にまで下がっている。逃げようにも足がすくんでしまっていた。
彼らが何者かは分からない。
ただただ、娘は悲鳴を上げる。
「誰か、助けてっ……。神さま――――っ！」
がこん、とベッドが抜けた。
娘は尻餅をつき、恐怖に凍った表情のまま男を見つめていた。
茜色に染まった髪がふわりと目の前を掠め、娘は耐えられなくなり気絶した。
「ラナさま、下がってください」
苦々しい表情で、ベッド脇から現われたラナは娘の壁となる。
突然現われた乱入者に下卑た表情の男は腹を立てた。
「邪魔すんじゃねぇっ！」
ラナもまた腹を立てていた。目の前の男に対し、自分に対し、また、気絶してしまった娘に対しても。
護衛役の青年が慌てて飛び出してくる。
「ラナさまは、お先に！」
剣を振りかざし、青年は野盗に対峙した。
娘はラナよりも背が高く、気絶しているせいでひどく重かった。
ラナは顔をしかめ、だが、野盗から離そうと抱きしめる。
あたたかいのが、救いだ。
ラナは唇を噛んだ。
修道院までの丘を駆け下り、レスターは目をむいた。
道中、怪しい男を一人問い詰め、もう一人を射倒していた。
危惧したようなダナンの手の者ではなかったが、一人でも逃せば情報をガネーシャあたりに売る可能性がある。
レスターは部下を連れてこなかったことを悔いた。
「見たところ十名足らずだが……」
弓をつがえながら馬を飛ばすのは、騎馬戦術を得意とする弓騎士ならではだ。
馬具をつけてこなかったため精度は落ちるが、それでも野盗を射落とすには足りた。
すべて倒さねばならない。
レスターは硬い表情で修道院へ馬を飛ばした。
ちらりとエーディンとラナの姿が掠める。よりにもよって、二人ともここにいる時に。
「……母上は悪運こそ強いが、魔道書はお持ちでなかったはずだ……」
つくづくと悔やまれる。母エーディンが防衛に立てば野盗の群れもそう恐ろしい敵ではないのに。
修道院の入り口に女が一人倒れている。胸が赤に染まり、どう見ても息がない。
レスターはそれを見下ろすと、軽やかに馬を走らせ修道院を回った。
正面入り口は煙に巻かれ、すでに倒れた者しかいなかったからだ。
「……ラナっ」
レスターは弓に力を込めた。ダイレクトに蹴られた馬がわずかにいななく。
どう、とまた一人の男が倒れる。
手から斧が落ち、床にじわりと血が広がっていった。
妹は戦う術を持たない。護衛役の青年とて、修道院の中では離れた場所に寝泊りしている。否、妹だけが問題ではなかった。
自衛手段を持つ教会と異なり、修道院の修道女たちは、身を守る手段をほとんど知らないのだ。常には雇われた傭兵や教会筋の戦士たちが守る他、彼女たちは神の加護のみを頼りに奉仕の日々を生きている。
――こんな世に。
――神の加護が、どれほど役に立つというんだ！
レスターは思いを口に出すわけにはいかなかった。それは、神の血を引くことを拠りどころにする多くの貴族たちを否定する。母も妹も、自分も。……主君すら。
レスターは四人目を射落とすと非常口に着いた。
なんとか煙から逃れたのだろう、修道女たちが集まっている。
「教会の方に！」
レスターが声を上げると、囲みの中にあったエーディンが喜色を見せた。
「レスター！来てくれたのね」
嬉しそうに笑う、その姿は女神のように美しかったが、レスターはそれどころではなかった。
「ラナはどこです」
「こっちには来てないの。他の出口はどう？」
即座に答えが返る。エーディンもまた、やきもきしていたのだろう。
「探します。母上は、みなさんを連れて教会の方に避難を」
指示すると、修道女たちがほっとした顔をした。突然の火事や野盗たちに、どうしたらよいかわからなくなっていたに違いない。
「嫌よ。娘が無事かどうかわからないのに逃げるなんて」
きっぱりと断られ、レスターは顔をしかめた。
エーディンは先の戦で戦場を駆け抜けてきた女だ。高司祭として、魔道書の力を持てば下級魔道書なら何でも使いこなせる。並の精神力ではなかった。
「母上はよくても他の方はどうなります」
母を説得するのに一番良いのはこの方法だった。
「"敵"の数もわからない。何がベストかお分かりになるでしょう」
エーディンはもどかしい色を顔に乗せた。
「――分かりました。絶対に守ります」
こくりと頷く。
今度こそ、美しいとレスターは思った。
決意の色を示した金の髪の女だ。弓神ウルはこのような人物だったのではないかと、レスターはたまに思ったりもする。
「お願いします、母上」
エーディンは修道女たちといくらかの怪我人を伴い、教会へと避難していった。
ラナは腹を立てていた。
大事に運んできたはずの卵をいつのまにか無くしてしまったからだった。
煙の匂いに気づいてすぐに手にした卵。
どんな生き物が孵るのだろうと楽しみにしていたのに、育てると約束したのに、なんということだろう。
ラナは悔しかったし、悲しかった。
そのくせ、すぐに探しに戻るわけにはいかなかった。
気絶した修道女を背にしていたからだ。
護衛役の青年が未だ戻らないのも気になった。
（外に出たら杖をとってくるのよ。杖があれば戦場だって役に立てる）
痛感する。今、ラナが向き合っているのは戦だった。
敵はラナが意識してきたグランベル皇国ではなかったが、間違いなく戦だった。
もっと待ち構えて、開戦の旗を揚げて向かい合うものだと思っていたのに。
生死を問う舞台はこんなにあっさりと幕を開ける。
（お母さまはご無事かしら）
魔道書が手元にあればエーディンはやられるまい。
何しろエーディンは先の戦を生き抜いた戦士なのである。
（ああ、どうして私はこんなところで）
背はずっしりと重い。ラナは今ほど自分が非力なことをうらんだことはなかった。
（もっと、体力が必要だわ。お城に戻ったらラクチェに聞いて……）
剣を使わないからと、力が要らないわけではないのだとラナは思った。
力があれば修道院の仕事ももっと楽に出来るのだ。畑仕事や水汲み、洗濯掃除など、実のところ剣を振るうよりももっと体力勝負なのだった。
外のざわめきを耳にして、ラナはホッと息をつく。
出入り口は壁になっていた。行き止まりに燭台が一つ、据えられている。
燭台に手をかけると、あっさりと回った。
ギィ、と鈍い音がする。
深夜の外気はひんやりとラナを包む。
煙の匂いから救われて、ラナは思い切り息を吸った。
「ラナ！」
鬼気迫る声に呼ばれ、ラナは振り返る。
馬を駆り矢をつがえる姿がそこにある。
ラナは困惑し、二三度瞬きした。
自分は、もしかしたら時間を間違えてしまっているのではないだろうか。
「レスター兄さま。……ここは、どこなの？もしかして、もうグランベルとの幕が開いているの？」
記憶がおかしくなっているのだろうか。
もしかしたら自分はもう、戦場に身を置いているのかもしれない。
「何を言っている」
レスターは顔をしかめ、それから、杖を示して言った。
「母上が教会の方に避難されているはずだ。おまえも行け」
杖は修道院近くで拾い上げたものだった。杖の持ち主はすでに息絶えてしまっている。
ラナは困ったように兄を見上げた。
両手で娘を背負っているのだ、杖を持つ余裕がない。
「兄さまは？」
「残党を落とす。万一でもガネーシャに情報が漏れては困る」
ああ、とラナは思った。
やはりここは修道院で、本当の戦いはまだ幕を開けていない。
「兄さま、私も手伝います」
まっすぐに兄を見据え、ラナは言う。
「杖があれば兄さまを治せる。足手まといにはなりません」
ラナの戦いはもう始まっていた。今さら避難など冗談ではない。
「しかし、ラナ」
「もう決めたんです。それに、護衛役の者がまだ戻っていません」
レスターはわずかに迷った。
戦場に妹を置くのは、やはり嫌だ。だが、ラナが強情なことをレスターはよく知っていた。本物の戦場を知らない分、エーディンよりも引きが悪い。
「……離れるなよ」
「はい」
出した結論に、レスターは早くも後悔した。
こうやって、迷いながら決断していくしかないのだと、分かっていたけれど。
血の匂いがする。火の熱気が身を焦がす。煙が視界と息を遮る。
レスターとラナは娘を連れたまま生き残りを探した。
満身創痍の護衛役の青年を見つけた時、ラナは心からホッとしたように微笑み、次いで怒った。
「護衛が倒れてどうします」
心から怒っているわけではない。それどころか、心から喜んでいた。
「ラナさま」
青年は微笑み返す元気もなかったが、ライブのおかげで歩けるほどには回復した。
「報告しろ。これは野盗で裏はないんだな？」
レスターの姿に、護衛役は一瞬にして表情を引きしめる。
「おそらく。襲撃してきた者の目的は、修道院の宝庫のようです」
レスターは青年の報告を聞き、頭の中で数を数えた。
「馬鹿な」
修道院の宝庫など、空も同然だ。盗って金になるようなものは何も無い。
「頭は？」
「わかりません」
レスターは表情を固めたまま、宝庫の方へと馬を走らせる。
ラナは護衛役の青年と共にかなり遅れて後を追った。
半壊した宝庫の出入り口に男がいた。
見知らぬ男だ。体躯に恵まれ、その後姿には威厳すら感じる。長いローブ状の上着を身に着け、背に剣を背負っている。
「貴様が首領か？」
レスターは弓をつがえ、十分な距離をとった上で近づいて見せた。
男は呆然とした顔で振り返る。
レスターの姿を見やると、その表情に憤怒が浮かんだ。胴ほどもありそうな身の厚い両手剣を向け、今にも切りかかりそうな目で睨む。
「宝卵をどこへやった」
レスターは表情を崩さぬまま男を見返した。
「あれは元々我が神がもたらしたものだ！ 宝卵をどこに隠した！」
ぴくりとレスターの眉根が寄った。
「貴様ら、暗黒教団か？」
男の表情が般若のように歪んだ。
「暗黒だと！？ 貶められた我らの苦しみがおまえたちに分かるものか！
まして、光を拠りどころに人を駆逐したエッダの手先などに！」
間違いない、とレスターは思った。
この場にエーディンもラナもいないことを感謝した。
信心の薄いレスターだからこそ、表情を崩さずにいられる。
野盗の一味はぜいぜいと荒い息をつき、剣を構えたままレスターに近づいた。
「弓と剣がまともに勝負になるわけはなかろう？
さぁ、言え。宝卵はどこだ」
「……ここにはない」
レスターは首を振った。その間も鏃の先はひたりとして動かさない。
「おまえが、首領か？」
また聞いた。男は答えず、ただ忌々しそうに目元を歪めた。
「くそぉ……。ようやくつかんだ手がかりを」
「諦めるんだな」
ひゅん、とレスターの弓がしなる。
違うことなく手の甲に刺さり、男がぎゃっと悲鳴を上げる。それでも剣を手放さなかったのはさすがと言えた。
「全員で何人だ」
男は憎しみの色を濃くした。引き出した答えはレスターの計算に適っている。
レスターが落とした数、護衛役の青年が落とした数。――そしてこの男。
「そうか」
レスターの矢は男の眉間を貫き、宝庫には固い金属音が響いた。
ラナと護衛役がたどり着いた時、幕ははすでに引かれていた。
レスターは男の胸元からロプト印を取り出すと、それをラナに見せた。
「野盗では、なかったのですか……」
護衛役の青年が呟く。レスターは首を振り、弓を背負った。
「いや、野盗にまぎれて機会を狙っていたのだろう」
ラナは気絶した女性を護衛役に預けると、宝庫へと足を踏み入れた。
倒れた男の横にひざまずき、目を閉じる。
何に祈るべきだろう、とラナは思った。
彼が暗黒教団の者ならば、ロプトウス以外の手では安らぐことはないのだろうか。
ラナはブラキとウルに冥福を祈り、それから男の顔にそっと触れた。
まだ、温かかった。
「ラナ？」
そんなやつの冥福を祈ることはない、とレスターの表情が言っている。
ラナは目を伏せたまま兄に聞いた。
「宝卵って、なんですか。兄さま」
「知らないな……母上ならば知っているかもしれない」
護衛役の青年も知らないらしかった。修道院で働いているラナが知らないことを知っているはずがない、というのが彼の言い分だ。
もっともだ、とラナは思った。
炎がくすぶる修道院を見やり、さすがに表情が翳る。助けられなかった者がたくさんいすぎる。あの卵も、とラナはため息をついた。
探しに行こうにもあの熱の中、卵が生き延びるはずがない。
「とにかく、教会の方に避難されている母上たちの方へ行こう」
レスターの言葉に、ラナは杖を握りしめた。
※※ ※
ラナはまどろみの中にいた。
いつのまにか眠ってしまっていたらしい。肩に毛布の重みがかかっている。
傍らには椅子に腰掛けたまま、目を閉じている兄がいた。すぅすぅと、定期的に小さな音がする。
「兄さま？」
ああ、そうだった、とラナは思い出した。
怪我人が多く、杖を一本使い切ってしまったのだ。セリス軍の中で杖を使える者は極端に少ないため、どうしてもラナが走り回ることになる。
兄は予定通り、弓兵たちの指揮にあたっていた。何事にも冷静に向かい、優しいところを表に出すのが得意ではない兄だったが、最近少し変わってきたらしい。
良いことだ、とラナは思う。
少しばかり妬けもした。
ラナは肩の毛布をとると、そっと兄にかけた。
空が白んでくるころだ。修道院にいたころはもう朝準備のための水汲みを始めていた。
軍にあっても、ラナの生活はあまり変わらない。
誰よりも早く起きて、一日の準備に忙しい。
ラナは壊れた杖を両手に抱きしめると、ガウンを身につけた。部屋に戻り着替えるためだ。
冷たい風が吹き込まぬようきちりと閉めてあった窓を押し開く。
窓の外を見やり、見下ろした景色にふと笑みを浮かべた。
厩からあふれた馬たちが簡易テントの中で待機しているのだ。あそこには兄の馬もいるはずだった。
ラナは空気をさっと入れ替えた後、もう一度窓を閉めた。
「毛布をありがとう、兄さま」
ぬくもりがまだ肩に残る。
城の廊下はどこも寒寒としている。ティルナノグもそうだったし、今滞在しているこの城もそうだった。カツカツと足音が響いていく。
自分たちはどこへ向かっているのだろう、とラナは思った。
セリスを王にして、両親の名誉を取り戻して。本来のグランベル皇国の形を取り戻す。
人と人のつながりはこうもあっけなく。そのくせどこまでも深い……
ラナは両手をさすった。
人はあたたかい、とラナは思う。
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