せつなさと憧憬〔2〕 東藤和稀さま
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「リオン!?」 突然倒れ込んだ姿にルーティは混乱した。 思わず駆けつけて、くらっときた。 酸素が既に希薄になりつつある。 走るのは自殺行為だった。 『ルーティ、この子、酸欠症状起こしてるわ!』 アトワイトの声が耳にうるさい。だが、おかげで少し冷静に戻った。
(アトワイト、ファースト・エイド!) 回復の晶術だ。 アトワイトが光る。 だが、リオンの様子に変化はなかった。 『ダメよ、怪我じゃないもの、解決にならない!』 元医者だというアトワイトの言葉に、ルーティは気がはやるのを感じた。 どうする? 何が出来る? リオンの顔色が白くなっていくのが分かった。 その姿に、かつて孤児院にいた少年の姿が重なる。 苦しそうな、息。 他には何も思いつかない。 ルーティは思い切り息を吸い込んだ。
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「こっちよ、母さんは!」 アナリスの足は次第に速くなっていった。 気が急くのだろうとスタンは思う。 大事な母だ、心配なのは当然だ。
不謹慎ながら、スタンはかつての母を思いだした。 物心つくころと言えるかどうか、微妙な時期。妹リリスが生まれた頃の母の姿。 優しかった思い出だ。 やんちゃで、困らせることも多かった。 あんなに早く逝ってしまうなら、もっと甘えておけば良かったとスタンは思う。 リリスだってそうだ、本当は甘えたかったろうに、祖父と自分のためにずいぶんと大人ぶるのが早かった。
マリーさんはどうだろうと、ふと横を見る。 記憶がないと言っていた、それは家族の思い出も同様なのだろうか? 自分ほどの思い出も、彼女にはないのだろうか? それはどんな思いがするのだろう?
「何故だ?」 マリーの呟きを聞きつけた。 先程からずっと、アナリスの指示通り、黙ったまま走っていたのに。 「どうしたんです?マリーさん」 気づかないのか、スタンの方を向きもせずにマリーは独り言を続ける。 「鳥の声も、しないぞ?」 言われて注意する。 本当だ、確かに鳥の鳴き声がない。走るのに夢中で、全く気づいていなかった。 だがそれが何を指すのだろう? スタンには思いつかなかった。
ざわざわざわざわ………
鳥の鳴き声もなかった森に遠くから音が近づいてくる。 スタンは思わずマリーを見た。 顔をしかめ、やはりこちらに視線をやってくる。 ごくりと息を飲む音すら押さえて、緊張の面もちで森の奥に視線をやった。 「あああっ!」 アナリスが叫ぶ。 声に反応したのか、その前からか、音の元が姿を見せた。
巨大な、蜂の、群れ。
ヴォヴォヴォヴォヴォヴォオヴォヴォヴォヴォヴォヴォヴォオヴォヴォ………………………
羽音だろうが、何の音か、分からない。
「げっ!?」 「スタン、行くぞ!」 一匹がスタンの半分はあるものが、総数二十匹はいた。
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暗い意識の中で声が響く。 身体を持たない心が、ただ声を荒らげる。 返ってくるはずの声はない。 互いに力を与えあう筈なのに、一方通行のまま何も感じられなくなる。 それはひどく空虚だった。
『シャルティエ!聞こえてるわね!?』 アトワイトはシャルティエに悲鳴のような声をかけた。 何故悲鳴のようなのか、気づく余裕もない。 心がひどく怯えているのだと、アトワイトは分からなかった。
ソーディアンは普段他のソーディアンに話しかけることをしない。 自分たちは今の時代を生きる者ではないと思っているのだ。 主人との結びつきのみがソーディアンの存在義務であるべきだった。 『聞こえてるよ、叫ばなくても』 シャルティエの返事はアトワイトの心を逆なでする。 何故、そんなに落ち着いていられる!? 『けど、僕にも坊ちゃんにも脱出術がないんだ。もちろん、君もそうだろう』 正論ではあった。 だが……
シャルティエが落ち着いていたわけではない。 何か思いつかないかと考えを巡らせていただけだ。 冷静に、冷静にと暗示をかける。気のはやりは何も生み出さない。 だが理性とは裏腹に、シャルティエは焦っていた。 自分は酸欠では死なない。 だが、この少年は。この幸薄い 寂しい少年は……
実際は一秒足らずの会話だった。 お互いに言葉なしに意識を伝える身だからこそ出来ることだ。 ルーティが、リオンに酸素を送り、代わりに身体を沈ませる、ほんの瞬間。 ルーティにも。リオンにも。聞こえない本音である。 『ルーティ!!』 アトワイトは悲鳴を上げた。 《エミリオ坊ちゃん……》 シャルティエの声は言葉にならなかった。
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巨大な蜂は身体に似合わず俊敏だった。 四方八方から連携を取って襲ってくる。 「な、なんなんだ!?」 スタンが斬りつけても、その身体は巧みに剣を受け流し、切り裂けない。 マリーの方は羽根落としが成功していた。 「ディムロス!?」 頼みの綱のソーディアンも 『森で火を起こす気か?』 とそっけない。 マリーのように羽根を狙ってみるが、巧みに避けられてしまう。
これでは体力が保たない。とてもじゃないが殺る前に殺られるだろう。 「一時逃げる」 宣言したマリーに付いて、スタンは後ろ向きに駆け出した。 蜂に背中を見せずマリーにぴったり付いていく。 カンだったが、見事に的中していた。 ルーティなら「田舎者」とかって言うんだろーなとスタンは思った。
咄嗟なことでアナリスの無事は確かめなかった。
森に入り込むと蜂は付いてこなかった。 一息ついて、スタンは耳を澄ます。 羽音は遠くに聞こえるようだが、別に近くない。だんだん遠ざかっているようだった。 「アナリス、怪我は?」 マリーが言う。スタンは始めてアナリスのことに思い至った。 今まで強い女性としか旅をしていないために、怪我を心配する概念が弱かったのだ。 「大丈夫みたい」 実際アナリスの外見上に蜂に刺された後はなさそうだ。 ラッキーだった。 「良かったな、あんなにいたのに」 スタンが笑うと、アナリスは微妙な表情を見せた。 「だが、離れてしまったな」 マリーの呟きに、スタンは森に視線を動かした。 アナリスの母さんは無事なんだろうか? あんな手強い蜂は、見たことがない。 ソーディアン持ちの自分でさえこうだ、普通の人じゃあ、どうなることか。 「母さん……」 アナリスの声が漏れる。 そうだ、こんな事をしている時間はない。
「マリーさん、もう一度行きましょう」 剣を構え直し、気がはやるスタンをマリーが止めた。 「ただ行っても同じだ、何か作戦を考えるべきだな」 もっともだった。 「キヨミズの、方から行けば……」 ぽつんとアナリスは呟いた。言葉を聞きとめて、スタンがアナリスに聞く。 「キヨミズ?さっきの花の名前だよな?」 「ええ、そっちの方には、蜂は滅多に来ないの。 だから、母さんと一緒に二人だけで行ったんだもの……」 「ふーん」 「なるほど、それは何処だ?」
アナリスが示したのは、母がいる方というのからは大きく外れていた。 蜂を突っ切れば確かに早そうだった (だからアナリスの母さんはこっちに行ったんだなとスタンは納得した)。 だが避ければ必要以上に大回りになる。 「どうするべきかな」 マリーは自分の剣と、スタンとアナリスを見やり、呟いた。 「俺は自分で自分を守れますけど。アナリスの分も考えると……」 スタンが言いかけるのを、マリーは思案顔で聞いた。 「迂回するとしよう」 マリーの言葉にスタンが頷く。アナリスは何も言わずに二人のやりとりを見つめた。 マリーの考える『足手まとい』にはスタンも入っていたのではないかと、少し思った。
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