けもの道 アリス様
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「何処まで続いて居るんだ、この穴は…」 上手い具合に脚を下にして落ちながら、リオンが周りを見渡す。 自分たちを飲み込んだ木は、せいぜい高さ三メートル。 だが、それ以上に長い間、リオンは落ちている。 これが本当の高さであれば、自分も、ルーティも助からないだろう。 恐らく、これはまやかし。
「何処だ…ルーティ……何処にいる」 ふと、視線の先に何かが見えた。 「ルーティ?!」 落下しながら見える等とはおかしな話だが、確かに見えている。 落下する彼の視線と同じ位置に。
見えたのは、幼い子供。 其れを認識した次の瞬間、リオンはその子供になっていた。 「何だ、これは」 正確に言えば、その子供の中から、周りを見ているという感じだった。 同い年くらいの子供が周りを取り囲んでいた。 「親無し」 「みなしご」 「貧乏」 やあいやあいと子供達ははやし立てる。
『やめて、やめてよ』
リオンが同調しているのは、幼い少女だと声で分かった。 ひとこと言われるたびに、胸が痛む。息苦しくて、視界がかすむ。
『何であたし達には、お父さんやお母さんが居ないの? 何で其れだけで、苛められなきゃいけないの?』
リオン自身は、そう心が揺れている訳ではない。だが、苦しい。悲しい。 少女の苦しさが伝わっているのだ。強制的に。 悲しくて、苦しくて、口惜しくて。其れは、彼が遠い過去に忘れてきた感情。
『助けて。誰か。誰か。誰か』
歪んでゆく視界。溶けていく残像の子供達。 あまりにも幼く、暗く、大きな心の闇に、リオンは一瞬ひるんだ。 これは、誰かの記憶なのか?それとも、これもまやかしか?
再び、視線の先に人が見えた。幼い子供が剣を手にしている。 「シャル?!馬鹿な、シャルは此処に…」 確かに、シャルティエはあった。自分の手の中に。 幼い子供の、その手の中に。 シャルティエが何か言っているはずなのに、聞こえない。 聞こえるのは、聞きたくもない大人達の声。
「リオン坊っちゃんは本当にしっかりしてて」 『違う、そうしないと怒られるだけだから。見放されるだけだから』 ――――――やめろ。
「何でも一人で出来ますね」 『一人で出来たって、父さんは誉めてくれない。僕を見てくれない』 ――――――黙れ。
「リオン様はご両親がおられないんですって」 『違う。隠してるだけだ。父さんは、僕が子供なのが、いやなんだ』 ――――――何も言うな。あいつの話なんかするな。
やめろ。やめろ。やめろ、やめろやめろ…………やめてくれ!
リオンはうずくまり、両手で顔を覆う。 シャルティエが落ちて、酷く乾いた金属音が響く。 ずっと目を逸らし続けてきた、自分の中の弱い心。 両の目から涙が溢れて止まらない。 泣きたくないのに。泣いたら、負けなのに。
どれ程の時間が経っただろうか。顔を上げると、ルーティが居た。 「姉さん…」 だが、声は届いていない。 ルーティはいつもと違う、質素なシャツにショートパンツだった。
『本当に、行くの?』 聞こえたのは、アトワイトの声。 セットの少ない一人芝居のように、古ぼけたベッドと、 その上に乗せられた小さな荷物だけがある。 其れを畳んでまとめているルーティ。傍らにアトワイト。
『もっとちゃんとした仕事があるでしょう?』 「そう言う仕事は実入りが少ないんだもん。 それじゃいつまで経っても借金が返せないじゃない」
あたしなら、ケガしてもあんたの力で何とかなるけど、 もし他の奴がレンズハンターなんかに成ったら、そうはいかないでしょう? 自分がケガするなら平気。 治せるし、我慢できるもん。 チビ共がお腹空かせて、泣くことも出来ないのを 黙って見てなんか居られないわよ。
それ程、お前は孤児達が大事なのか? 同じ境遇だから?仲間だから? ――――昔の自分を見たくないから?
ルーティの鮮やかな笑い顔だけは今と変わらない。 「んじゃ、装備貰ってくるね」
其れから暫く時が経ったのだろう。 ルーティは今と同じ格好で、レンズハントをしていた。 モンスターを切り、晶術で撃破し、少しずつレンズを集めて。
今とは比べようもないほど、過去の彼女は弱かった。 恐らく、実戦はおろか、剣を手にするのも初めてなのだろう。 腰が引けているし、腕力もない。其れでも、必死にルーティは戦った。 その胸にあるのはただ一つ、守りたいという、その想いだけ。
同調しているリオンの胸にも、温かいその想いが伝染していく。 ルーティの優しさが、ゆっくりと染み込んでくるようで、心地よかった。
だが、その時突然、森の中であったはずの世界が暗転した。 「厭っ!やめてよっ!」 其処は、酷く壊された遺跡。その石畳の上に、彼女は居た。 ルーティの上に、男が数人のしかかっている。 ルーティの小さな胸を隠す布を引き裂き、暴れる彼女の頬を打った。 したたかにこめかみを打ったのか、ルーティの身体から力が抜ける。 其れを良いことに着衣を引き裂き、加虐の悦びに顔を歪ませた醜い男達。 「簡単に人を信用する方が悪いんだよ」
『厭、怖い、怖い、怖い、怖い!!』
ルーティの、簡単に折れてしまいそうなほど細い脚が、無理矢理に開かれる。 聞こえないのは分かっているのに、リオンは叫ばずには居られなかった。 遠くから見ているだけ、これは過去の幻影だと分かっていても。 叫ぶことしか、出来なかった。
「やめろぉぉぉぉぉっ!!」
人間への恐怖。人を信じ、裏切られる事への怖れ。 男とは違う、無理矢理に引き裂かれた身体の痛み。 其れが、それらがリオンの神経さえも蝕んでいく。 そして聞こえた、ルーティの絶叫。
「いやあああーーーーーっ!!!」
リオンの胸に、新たに悲しみが溢れる。 其れはルーティの悲しみであると同時に、彼自身の悲しみでもあった。 何で、こんな…。こんな目に遭ってきたのか、お前は…。 僕は…何も知らなかったのか…。
お前を知らなかったんじゃない。知ろうとしなかった。 お前は、僕を知ろうとしてくれた? 僕がどれだけ汚いか。 どんな人間か知ってる?
同調しながらも、彼女を遠くから見つめる彼の目から、幾筋もの涙が零れる。 視線の先には、引き裂かれ、汚され、ぐったりと成った姉の姿。 何も出来ず、只、痛みを感じ、叫び、見ていることしかできない自分が口惜しい。 でも、お前だって、何も知らないんだ。 いいや、知らなくていい。知らないままで居て。
リオンは片手で顔を覆い、すすり泣きながら、彼女を呼んでいた。
「ねえさま……っ……ねえさま……………!」
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