純粋さ、というものは得がたいものだろう
それは世界を知るごとに消えていき
それを残す者は甘い、と囁かれつつも
純粋、ということは人の心をうつだろう


(ただ純粋さは紙一重で残酷であったとしてもだ)





君と共にいたいから





 けぶるような花園で、一人の少年と二人の少女が遊んでいた。
 庭師が丹精に手入れした花を躊躇いもせず摘み取り、不器用な手つきで花冠を作る。
「イシュタルのかみによくにあうわ」
 銀色の髪をした少女が、紫銀の髪を結わえた少女に冠をかぶせながらそう言った。少女は、紫銀の髪をもつ少女……イシュタルよりも年下に見えたが、イシュタルは畏まってお礼を言った。
「ありがとうございますユリア様」
 少年は先ほどから作っている冠がどうにも上手く出来なくてずっと手元に集中していたが、それをみて口元をとがらせる。
「この花の色のほうが、イシュタルにはにあうよ」
 赤い花だった。少女はそれを見て首を傾げた。
「イシュタルには、あおとかおちついたいろがにあうわ」
「そんなことないよ、ほら!」
 不恰好のままで冠は頭の上に載せられた。きちんとからみあっていない花はするりと解け、少女の頭の上に留まらずばらばらと落ちた。
 少年は悔しそうに唇をかんで、その一本を手にとった。
「イシュタル、ひだりて!」
 少年の声にイシュタルはとっさに左手を差し出した。有無を言わせぬ剣幕がそうさせたのだ。
 少年はイシュタルの指に花をくくりつけた。ちょうど指輪のように輪っかにしたことになる。白い小さな手に、さぁっと赤が映える。
 少年は満足げに頷いた。


「ははうえから聞いたんだ。左手のくすりゆびはけいやくの指輪をはめるんだって」
 イシュタルはびっくりしたような顔をした。薬指の契約はイシュタルも知っている。母のヒルダの指にも母らしい豪奢な指輪がはまっているのだ。
「イシュタルはぼくのおよめさんだよ!」
「ユリウス様、私のような……」
 子供のお遊びとはいえ相手は皇太子だ。イシュタルはぽうっと熱くなった意識を理性的に押し付けて困ったような声を出した。
「イシュタルは、ぼくが嫌い?」
「いいえ、いいえ。ユリウス様」
 イシュタルはぶんぶんと首を振った。少年の顔にさっと影が走ったのを見たからだ。
 嫌いとか好きとかを言い表すにはイシュタルも少年も幼かったが、少年が寂しそうな顔をするのはとても嫌だと思った。
「よかった。ぼく、イシュタルがだいすきだよ!」
「私もユリウス様が好きです」
 それは子供らしい発想だったかもしれない。嫌いでなければ好きなのだ。
 取り残された少女はイシュタルの後ろから飛びついた。
「ユリアも、ユリアもイシュタルおよめさんにする」
「ユリアはだめー!ぼくのだってば!」


 それは、春の記憶。
 ただ無邪気でいられた頃の記憶。
 純粋さが……尊ばれた時期だ。












「殿下」
 昏い声に呼びかけられてユリウスはぴくりと肩をそびやかさせた。だがそのまま振り返りもせず足を進める。
 ユリウスはマンフロイが好きではない。
 マンフロイが佇む場所はいつでも闇の中につつまれているようでユリウスは苦手だ。明日も未来も信じていないようなマンフロイが嫌いだ。
 父であるアルヴィスが何故マンフロイを重く扱っているのかはユリウスには理解できなかった。
 ただこの大司祭は、幼い頃からやけに自分に構ってこようとする。去年の誕生日によこされた黒い聖書もそれだ。
 真っ黒な聖書を自分の中の一部が痛烈に拒否していて、ユリウスはその聖書を開いたことがない。
「殿下、聖書をきちんと読んでいらっしゃいますか?」
 無視しようとついてくるマンフロイにユリウスはうざったげに視線を向けた。
「あんな気持ち悪いもの、読んでないよ」
 そうしてまた立ち去ろうとするがマンフロイは若干眉を動かしただけで全く動揺していない様子だ。
「殿下は相変わらず勉強が嫌いでいらっしゃる……イシュタル様は、今日も皇帝陛下と勉強の時間ですか?」
 ユリウスの足が止まった。


「イシュタルは勉強が好きだから、父上はイシュタルに教えるのが楽しいんだ」
 そう言ってむっとした顔は10に満たない子供のままだ。
 アルヴィスは元来勉強家だったが皇帝家族は勉強が好きでない。
 母に懐いているユリアにアルヴィスは強く言おうとはしなかったし、ユリウスは端から手をつけてすぐ飽きてしまう。ディアドラに至っては元々字も読めはしなかった。
 熱心に勉強をするイシュタルに、かつての弟の姿を垣間見たのか現在のアルヴィスの娯楽はイシュタルの先生である。
 その間イシュタルと会えないユリウスは、正直面白くない。ましてやその彼女の横には常に……。
 ユリウスはぶんぶんと頭を振ってそれをかき消した。もうすぐイシュタルの勉強の時間も終るはずだ。


 ゴーン…………

 時間だ。
 鳴った鐘の音にユリウスはマンフロイの存在など忘れてぱたぱたと走り去る。
 残されたマンフロイは表情一つ変えず沈黙を保っていた。





「ユリウス様!」
 いつも勉強に使っている部屋に見えなくて、ユリウスは使用人から二人の場所を聞き出した。どうやら中庭にいるらしい。
 時間がくればユリウスがくるとわかっている筈なのにどうして中庭になど行ったのだろう。
 広いバーハラ。中庭にでてかけられた言葉にユリウスは目を見開いた。


 上手にリズムをとりながら、イシュタルは視界高くにいた。横では見慣れた一人の青年が補助をしている。
 馬だ。
 イシュタルが乗っていたのは、美しい毛並みの一頭の馬だった。
「ラインハルト」
 馬上から挨拶をするわけには、とイシュタルが降りようとするのを横のラインハルトが支える。
 一枚の絵画のように恭しいその姿をユリウスは見つめていた。向こうにいたアルヴィスが近づいてくるのにも気がつかない。


「ユリウス様、ご機嫌はいかがですか?」
 礼をとったイシュタル。ユリウスはその手をいきなり掴んで一目散に走り出した。
「ゆ、ユリウス様!?」
 動揺するイシュタル。焦ったように後方の皇帝を振り返るがアルヴィスは気分を害した様子もなく微笑んでいる。
「あれは馬は苦手でな……上手にのりこなすイシュタルに嫉妬をしているのだろう」
 後を追おうか追うまいか、と悩むラインハルトにアルヴィスは笑いかけた。
「何、バーハラ王宮内で危険なこともあるまい」





「ユリウス様、どこまでいかれるのですか?」
 イシュタルにそう呼びかけられてユリウスはやっと立ち止まった。もう随分走ったような気がするが、実際にはそこまで過ぎてはいない。
「……乗馬の練習をしていたの?」
「はい。勉強がいつもより早く済みましたので……皇帝陛下がいい馬がいると申されまして」
 それならアルヴィスが教えたのだろうか。アルヴィスは万能に通じる男だったからそういうこともあるだろう。
「ラインハルトに教わっていたのです」
 ユリウスはむっとした。
「イシュタ……」
「ユリウス様!」


 え、と思った向こうに暗い影を感じた。
 音を立てて近づいてくるあれは一体なんだろう。
 羽虫のような音をたて、二人にゆるりと近づいてくる。
「ユリウス様、お下がりください!」
 イシュタルはすっと手を差し出した。ぱりっと腕を這う雷糸の蛇がまたたくまに数を増やしていく。
 闇の中に吸い込まれた雷撃。
 同時くらいか、とおもうくらいに闇は姿をかき消した。
「今のは一体……」
 なんなのでしょう。そういおうとしたイシュタルはユリウスのとった行動に頬を紅潮させた。服をひっつかんで引っ張ったのだ。


 トードの聖痕。

「ゆっ、ユリウス様、見ましたか」
 服を取り返して顔を真っ赤にさせたイシュタルが口をぱくぱくとさせながら聞いた。
「うん」
 雷の証。
 彼女が継承者であるという証であり、力の存在。


 とりあえずユリウスは平手をされた。









 夜遅く。
 ユリウスはボルガノンの魔道書をひっくり返していた。
 乗馬や剣の才能はなかったが、ユリウスは魔法なら誰より上手く扱える、と思っている。
 光や雷魔法はユリアやイシュタルに遅れをとってはいるが、炎魔法ならきっとユリウスより得手なのはアルヴィスだけだ。
 この年で炎の最上級魔法を操れるのは、流石ファラの血だ、とアルヴィスも言っていた。
 紡ごうとした炎の呪。


「それでは、駄目ですよ」

 ユリウスは言葉を止めた。
「イシュタル様は神器トールハンマーの継承者であるお方。ボルガノンではつりあいません」
 かすかな笑みを浮かべた闇がそこにいる。
「……僕は父上の血をついでいる。ファラフレイムを使うのは僕だ!」
「炎の魔法は、雷の魔法に劣勢です。……トードの再来と呼ばれるラインハルト将軍のダイムサンダ、それにかないもしないでしょう」
 ユリウスはぎくりとした。
 ラインハルトは、大人だ。馬術も上手いし剣技も立つ。何より一流の雷魔法の使い手である。


「それでは駄目ですよ。ユリウス殿下」
「うるさい!」
 ユリウスは駆け出した。この男の闇はユリウスを浸食しようと常に見張っている。この男の傍にいてはいけない。何より誰にもいて欲しくない。



(なんで・・・なんで僕は!父上の息子なのに、聖痕がでないんだよ!)
 部屋に戻ってベッドに飛び込む。投げつけた枕は気の抜けた音をたてて床に落ちた。
 イシュタルの聖痕がはがれることがないなら、自分が聖痕をもたなければいけない。
「なんで、なんで、何で……!」
 ばん、と音をたてて叩いた衝撃だろうか?時間をおいてばさり。と音を立てたものがあった。
「……?」


 黒い聖書。

 今までずっと開かなかった聖書に、ユリウスは目を奪われた。
(力が欲しい)
 視線は離される事はなく、知らずとユリウスは聖書に手を伸ばした。
(イシュタルの傍にいても、いいくらいの資格が欲しい)




――――――オイデ。



「……そうなの?凄い力を持ってるんだ?」

 暗闇の中に少年の声だけが響いた。ついていたはずのランプも消え、新月である今日は本当に暗闇に包まれている。

「僕しか使えないの?……他の誰より、強いんだ?」

 ぱらり、と紙をめくる音がたった。聖書の中が明らかになる。真っ黒な紙にはなにも書かれているようには見えない。

「本当だ……僕だけなんだね。他の何より、強いんだね」

 暗闇に包まれた新月の夜。人には何も見えない。何も見えないはず。
 暗闇しか映らない。黒しか見えない。何も見えないはず。


「誰より僕が強いなら……イシュタルも僕の傍にいるよ」

 ユリウスは聖書を閉じた。赤い瞳が、赤黒く濁る。

「”私”も、彼女が欲しかったんだ」













「おはよう、イシュタル」
「おはようございますユリウス様」
 少年はイシュタルの傍まで駆け寄って「左手」と言った。イシュタルは不思議そうに手を差し出した。
 左手をとって、唇を寄せる少年。
「ユリウス様?・・・・つっ!!」
 イシュタルの左手から血が流れる。薬指の付け根に、赤い花が咲いたように血が吹き出た。
「やっぱり、イシュタルには赤が似合うよ」
 唇についた血を舐めとって、少年は笑った。イシュタルの横にたつラインハルトに嘲るような視線を向けて、満面の笑みを浮かべる。




「イシュタルは、僕のお嫁さんになるんだよ」

(そのためならどんな力でも手に入れる)















 (03/03/19)