「ユリア、居ますか?」 さらりと空気に乗る銀紫の髪。尋ねられた言葉にセリスはただ首を振る。 「そうですか」 アーサーは僅かに首を傾げると、そのまま踵を返す。淡白な態度だ。 「何か用でも?」 その背中に声をかけたセリスに対して振り返ると、アーサーは僅か苦笑を浮かべる。
「……そんな顔をしなくても、殴ったりしませんよ」
不知の罪状
ユリアが皇帝アルヴィスの娘であり、グランベルの皇女であり、つまりはセリスの異父兄妹だということが明らかにされたのはもう既に過去のことだった。 ペルルークでユリアが攫われ、レヴィンが告げた事実だ。 セリスはまさか、と言ったように驚愕の色をのせ、セティはどこか納得した顔つきをした。リーフは彼としては珍しく、少し瞳を眇めただけであった。 セティに視線を向けられたが、アーサーはそれに視線を返しなどしない。軍議の場ではなかったため、会議室ではなく皆石床の上に立つのみであったが、その中で椅子を用意されたアーサーは紅い瞳を二、三度瞬く。 小さく唇が動かされたのを、隣に寄り添うティニーでさえ聞き取れなかっただろう。だが、唇を読むことが出来るセティは、それを読み取った。 「 ……従兄妹、か 」 アーサーはそれきり、その件に関しては何も言わず、連れ去ったのは黒いローブのロプト僧だった、と言った。 (「遥か彼方の」参考)
ユリアの行方を聞いて立ち去ったアーサーを思い浮かべながら、セリスは溜息をついて椅子にもたれる。扱いが難しい男だ、と思う。 イザーク解放当時からアーサーは軍に居たが、彼の行動原理は今でも掴めないままだ。 純粋な希求を抱いているわけでも、権力を求めているわけでもない。 言うなればアーサーの行動原理は私怨であったが、フリージのほとんどは当の彼の手によって葬られ、アルヴィスもまた死んだ。ファラフレイムを受け取った真意は何だ。 信じられると思わせる一方、それが間違いだったのではないかと思わせる男だ。 ラクチェが紅茶を注ぐのに感謝の言葉を贈り、熱い液体を喉に送り込む。あんまりに熱いものに触れると、一瞬まるで凍えるかのように冷たく感じる。 アーサーというのは、そういう男だ。
「二人のことが気がかりですか」 自分も紅茶を含みながらラクチェが聞いてくるのに、セリスは苦笑を浮かべてみせる。 「ラクチェやスカサハは、そういえばアーサーと仲がいいよね」 歩兵と魔法騎兵。関わり合いなどなさそうな組み合わせだが、イザークを発った当初アーサーがスカサハと同室だったこともあり、双子とアーサーは付き合いがある。彼が最前線に赴く傾向があるのもそれを手伝っているのだろう。アレスと親交があるのも驚いた。 双子であれば自分よりもアーサーの心中がわかるかと思って聞いてみるが、ラクチェは困ったように眉を寄せるだけであった。 「私やスカサハも、アーサーが何を考えているなんて解りませんよ。フィーや……ユリアに聞いたらどうです?」 あがった妹の名前にセリスは空を見上げる。 「それができたら苦労はしないよ」 セリスが悩んでいるのはまさにそれなのだ。ユリアとアーサーが……恋人の関係にある二人が、実は従兄妹同士で、ファラの血を継いでいて、その他諸々。
「そんなに心配しなくても、殴ったりはしないと思います」 「アーサーと同じ事を言うね」 音無くテーブル上に置かれたカップは空になっている。 「多分、解り易い子なんですよ」 窓の向こうを眺めるラクチェ。視線の先には中庭へと歩いていくアーサーの姿が見えた。
「知らないことは、罪だ。知らなければ何もすることはできないんだからね」 ミストルティンの手入れをするアレスの横でセティはそう呟いた。独り言とも思えない声音にアレスはちらりと視線を向けるのみである。 「人には、それぞれ負ったものがある。それは自らの家族であったり、護るべき土地であったり、町であったり、国であったりする。それから逃げることこそが、最も卑怯なことだと私は思う」 「……それは、俺への嫌味か」 「まさかだよ、アレス殿」 セティは自嘲げに呟きを洩らした。 「自傷行為さ」 「馬鹿のすることだ」 「全く、その通りだ」
セティはレヴィンを思い浮かべながらそれを打ち消した。 レヴィンは確かに国を省みなかったが、あの男は世界を負っていた。それに対して腹立たしく感じるのは己の狭量だろうか?それとも。 (だが、父上は何も話してくれない) だから自分は知らない、というのは自己擁護である。
「何をぐだぐだと思い悩んでいる」 低音に思考を遮られ、セティは顔を上げた。相変わらず視線を向けることさえなくアレスは手入れを続けている。 「知らない時を悩んだとて何ともならん。今知っているのだとしたら、今、どうするかだ」 それは傭兵として過ごしてきたアレスらしい考え方であった。同時に、アレスはユリアについての話だと思っているのだ、と言うことも悟る。 「彼女は可哀想だ」 アレスは返事をしない。 「だが、我々は彼女が怖気づいたとしても、無理やりにでもナーガを使わせなければならない」 くく、と笑われてセティは心象を害する。 「笑い事ではないんだ」 「ああ、確かに勇者殿はその時になれば実行してみせるという顔をしている」 怖い顔だ、と笑われる。
「だが俺なら、ミストルティンでロプトゥスなどなぎ払うだけだな」
「ユリア皇女……か」 「今更の話……ですよね」 噴水に腰掛けリーフとナンナは向かい合っていた。彼らは黙ってはいたが、彼女がグランベル皇女だということをずっと前から認知していた。 それは、単純に逃亡生活を続けていた彼らの元にはユリアが亡くなったという偽りの公報が届くことが無かったということでもあるし、疑いなく彼女を皇女と思っていたリーフに、レヴィンが黙っているように告げたこともあった。 「レヴィン様が、グランベルに知られてはならないから、と情報制限をしていたのはわかりますが、本当にユリアは記憶を失われてたんでしょうか」 「ナンナは、ユリア様はそうではないと?」 迷うようにナンナは頭を振り否定した。その瞳の奥にはどこか許しがたいような色がある。 「記憶喪失だったのは、私達には疑いようがありません。……けれど、それは、彼女が自ら望んだことなのではないでしょうか」
母親を目の前で失って。 兄が目の前で闇に取り込まれて。 あまりの抑圧に、自分を護るために記憶をなくしたのではないか。
「もしそうなら……」 とても許されることではない、そう続けようとしたナンナをリーフが柔らかく遮る。 「人は忘れるし、全てを知ることも無い」 「……ですが、リーフ様」 金の髪が僅かに俯いたナンナの瞳を隠した。彼女は自他共に厳しく、責任感の強いところがある。それは同時に潔癖性でもある、とリーフは思っていた。 「私も、何度も約束を忘れてはアスベルに怒られる。……子供狩りが行われていた事だって知らなかったよ」 「いいえ、リーフ様。それは私達がお知らせしなくて……!!」 ナンナは自分に優しく甘い、とリーフはまた柔らかく笑うとそれを遮った。 「私が知らないことでも、アウグストは知っている。私が忘れてしまったことでも、フィンが覚えている」 リーフは柘榴色の瞳を輝かせて言う。 「私がやらなければならないことを、民が知っている。……ナンナが私の今日やることを教えてくれるように」
「人は万能じゃない。だから、それで良いと私は思っている」
聞いたら教えてくれるだろう、と笑うリーフ。ナンナもそれに、微笑みを見せた。
「ユリア」 男性にしてはやや高い、けれども自分よりはよほど低い声音にユリアは背を震わせた。 花の咲き乱れる庭園に彼女はいた。色鮮やかな温かな色合いの花々は手入れもしっかりされていたのだろう、灰色と白のユリアの姿をすっかりと隠してしまっている。 幼い時には気がつかなかった己の色の無さが思われて、ユリアは一層沈んでいた。 今思えばシレジアに保護されていたのはそれに気がつかせないようにするためだったのかもしれない。シレジアが最も安全であったからだ、と解ってはいてもそう思ってしまう。 「見つけた」 再度空気を震わせられて、ユリアはおずおずと背後を振り向いた。 そこにいたのはアーサーだ。髪の色こそ自分のそれによく似通っていたけれど、紅い印象の隠せない人。従兄妹であっても、自分よりはずっと兄に似ている。 離れている間にそれはずっと濃厚となっていた。ファラフレイムがその懐に収められているせいだと、今では知っている。 「俺から逃げてた?」 ユリアはびくりとした。その通りである。 記憶を取り戻し。洗脳を解かれ。 この腕に抱きしめられたあの日から、ずっとアーサーから逃げていた。
「……そんなことないわ」 否定した言葉はけれども弱々しく信憑性を欠いている。
「俺がアルヴィスと戦ったから?」 ユリアは小さく首を振り、頬に寄せられたアーサーの右手に手を重ねた。
「俺が一度死んだから?」 ユリアはぽろりと涙を零して違う、という。言いながら体温を感じようと右手に顔をゆだねる。
「俺と君が従兄妹だから?」 ユリアは幾度も頭を振って、唇を噛み締めた。
「俺が復讐者だから?」 噛んではいけない、痕になる。とアーサーが唇を噛むのを静止すると、ユリアは瞳を見開き唇を戦慄かせた。
「俺はもう嫌い?」 アーサーの紅い瞳が一度も逸らされず向けられていることにユリアは気づいた。これもまた、ユリアがいない間に現れた変化である。 その瞳に復讐に駆られる薄ら寒い狂気は消えて、真摯に戦を終らせようとする心根を感じた。 これは罰だろうか?ユリアは思う。 アーサーが復讐に生きるままであってなおユリアの心は苛まれるのに、こうしてアーサーは知らない内にそれを乗り越えてしまった。彼にとって、自分はなんと矮小に見えることだろう! 「俺が、嫌い?」 ユリアは好き、と呟いた。大罪を犯している思いだった。
「良かった」 アーサーが柔らかく抱きしめてくれるのにユリアは嗚咽を洩らした。そんな風に優しくしてもらえる女じゃないと感じた。
「私」
「うん」
「私、兄様を殺すの」
「うん」
「殺したくないのに、殺すの」
「うん」
「おかしいわよね」
「うん」
ユリアは温かな体温に縋りついた。温かい。死んでいない。 「ねえ、私は兄様がとても好きだった。できたら一緒に時を過ごしていって、喧嘩をして、仲直りをして。そしてそれぞれの道を歩き出していきたかった」 「うん」 「アーサーが復讐をすると言った時、私は悲しいといったわ。そんなこと言わないで、って言った。でもフリージの人たちだって、父様だって、解放軍の敵だったのに。きっと誰かが殺めていたのに」 「うん」 「心が痛いから、他の誰かにやってほしいなんて、言えないって、思い出した今は解ってる……」 「うん」 「きっとセリス様は本当にこれ以外はないのかと思っていて。殺したくなくて、殺さなくちゃいけない、私が一番、これ以外にないことを知っているの」 「うん」 ユリアは瞳を閉じて、いまだけ視界を暗闇に閉ざす。
「私はずるい」
「みんなそうだ」
だからこうして抱き合うのは、同罪だからなんだろう。
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