「私は、セリス様が好きです」
いつもは心中を悟られないような笑顔を浮かべているあの人が その時はやけに素直で 青い瞳が全身で
(信じられない)と
「……ありがとうラクチェ。私も、君やスカサハ達は、大切な家族だ」
私はただにこりと微笑んで あの人の「なかったフリ」を受け入れた
こひシラズ
戦争に向かう前は、必ず自分の手で装備を確かめる。 己の生死に関わるものだから、というよりは、慣れた習慣を行わないと落ち着かないからだ。
「次は、ミレトスね」 「ああ。そこを越えればグランベルだ」 解放軍、という言葉は帝国に支配された他領ではもっともらしく響くけれど、そうではないところでは、少し虚しい。トラキアでのそれのように、グランベルでもまた異なる意味を見せるだろう。 そしてまた少し、セリスは傷つくのだろう。 ラクチェの手が止まったのを見て、スカサハが案じるような視線を向ける。 「……寝る前に、セリス様と話してきたらどうだ?」 「どうして?」 「和解しておかないと、剣に響く」 真剣な瞳をしたスカサハに、ラクチェは少し驚いたようだった。 「私、セリス様と喧嘩してた?」 「……お前が気にしていなくとも、セリス様は気にしていると思うぞ」
気にしていない。 ……わけではない。
ただそれは告白を流された故ではなく、もっと別の場所にあるのだ。
「セリス様は、不安なのだわ。ユリアがいないから」 それは単純ではなく、複雑さが合い混じる。 血脈の所以も、感情も。 取り巻く環境すらもだ。 「レヴィン様が黙っていたのもきてるんだろうな」 スカサハからすればあの男への精神的依存は滑稽だったが、セリスの理想はあの男の中の人間の部分に由来をもつ。あれに人らしさを求めるのもわからないではないが。 「きっと、レヴィン様に嘘をつかれたくなかったのね」 これ以上剣を見つめていてもどうにもならない。 ラクチェは鞘に納めると、傍から押しやる。 「リーフ様も、知っていたみたいだった。だから私の言葉を流すのだわ」 それ以外にも、レヴィンの言葉に納得を見せた者はちらほらと居た。だがセリスに衝撃を与えるものはより彼の個に関わるものだろう。 「だから私を、疑うの」 「ラクチェ」 兄が剣を置いて、黒い髪を梳る。 ああ、私は傷ついているのか。
セリスがティルナノグの絆を疑うことにも。 好きという言葉に、耳を塞がれたことにも。
「セリス様にとって、私たちは家族であると同じくらい、皇子でいなくてはいけないのね」 ユリアはそうではなかった。 託された少女を保護するのは、確かに解放軍のリーダーとしての身分であったが。ユリアが彼を頼るのは、それとは関係なかったはずだ。 だがそれは、彼女が妹であり、皇女であるという事実で破綻する。 仕組まれた。 レヴィンに感じる裏切りは、それに所以する。
(それだけだっただろうか?)
感覚がそれだけではない、と訴えるが、ラクチェにはわからなかった。
「少し散歩してくる」 「冷えるぞ」 スカサハが投げてきた上着を着込んで、妹は部屋を出て行く。
「それだけじゃない」 囁いた言葉は、彼女には届かない。
(夜も、真っ暗にならない) 隠れ里で育ったラクチェは、夜は月と星だけが灯りだった。もしくはオイフェの部屋から漏れる蝋燭の明かり。 こんな風に、夜でも城の要所には明かりが点り、城下の星のほうがよく見えるということを、戦争に出てから知った。 夜間歩く者のためにランプは部屋に用意されていたが、手を伸ばす気にはならない。 このまま私は、どこにいくつもりなのだろう。
「ラクチェ?」 低い声がして、ラクチェは足を止めた。その声で呼ばれることに、もう馴染んでいた。 「ヨハルヴァ、散歩?」 「少し眠れなくてな。……お前は?」 「似たようなもの」 そう答えて視線を外し、暗闇の中を見つめる。透明な瞳がどこか弱く揺らいだ。 音無く伸ばされた手、ラクチェはふっと後ずさった。その行動に二人驚きに目を見開く。
「あれ」
なんだ。どうして。
何を囁かれようと、戸惑いも拒絶も浮かばなかったのに。 戸惑いを覚えながら見上げると、ヨハルヴァの瞳の中に自分の姿が映っている。 (誰なの、これは) ヨハルヴァの瞳に理解の色が混ざり、眇められたことによって、ラクチェの像が消えた。
「……セリス公子のところに?」 「え」 そうではない。そう答えたかったが上手くいかない。 「あそこに居たの」 代わりに口から出たのは、確認するような響きだった。 「そうだ。……聞いてた」 それが非難するような響きだったので、ラクチェは仕方ないのだ、というように笑う。 「セリス様は今不安定でいるから」 なのだから、私はどう扱われようと責めるべきではない。
だがヨハルヴァは首を振る。その後の言葉にラクチェは笑みを潜めた。 「公子がお前の言葉を誤魔化したのは、公子側だけの理由じゃないぜ」 「どういうこと」 「お前の言葉に、真実味がないからだよ」 「何を」 反論が口から出る前に止まる。ヨハルヴァの眼差しが熱く刺さり、二の句がつげない。 彼はこんな瞳をする人だっただろうか?
「お前が紡ぐ好き、という言葉と俺が言う好きだ、と言う響きは」 ヨハルヴァの大きな手が、逃がすまい、と肩を掴んだ。今度は勝手に足が逃げ出すことはなかった。
「同じ言葉に、聞こえるか?」
ラクチェはヨハルヴァを見上げた。おずおずと、日に焼けた頬に手の先を近づける。 バンダナがないと、ヨハルヴァの髪は額にかかってよく瞳が見えない。 彼の瞳、私の瞳。 何が違うの。 さっき映った、私は本当に私なの。 前髪をかき分けると、ドズルの血統である鋼色をした瞳が見えた。 その中に映る私は、今はただ驚いた、いつもの私。
ヨハルヴァの瞳は、焼いた鋼のようだ。
(嫌だ、やめて)
(気がつかせないで)
――これが恋というものか?
「ラクチェ、俺はお前が――」 「ごめんなさい!」 逃れようともがくと、手はあっさりと外された。数歩後方へたたらを踏み、部屋に戻るために走る。 「お前は、恋なんて知らないんだ。お前の『好き』に、意味なんてない!」 ヨハルヴァの声が背中を追い、ラクチェは聞くまい、と耳を塞ぐ。
どうしてなの。ただ、心に浮かんだ言葉を言っているのに。 どうして、それは違うなんて言う。 区別こそわからない。 明確な答えがあるとでも言うのか。
「私の好きに、意味がない?」
恋、恋とは、なんだ。
ラクチェははた、と気がついた。駆けていた足が止まり、呆然と。 「……ヨハルヴァは、私のことが好きなの?」 何で私は、今頃そんなことに思い知らされている。
「……私は?」
私は嘘は上手くない。 心に浮かんだ言葉しかいえない。
「私の『好き』は、一体何なの?」
あんな熱を孕んだ眼差しを、私も誰かに向けるのか。
……言わなかった。伝えなかった。 ヨハルヴァの熱に後ずさりしたラクチェ。今までだったら、そんなことはなかった。 想いが彼女はわからないから、ヨハルヴァの視線の意味も、熱も、特別にしない。 それが、変わった。 (恋を意識した) ラクチェは今、ヨハルヴァの熱を跳ね除けた。それが特別なものだと理解した。 「畜生」
どうしてそうさせたのが、俺ではないのか。
(ラドス城を制圧したが、ユリアの行方はようとして知れない。沈むセリスの傍に双子はいた)
(大丈夫ですセリス様、きっとユリアとまた会えます) (あなたの傍には、俺たちがいます。ラナも、レスターも、デルムッドも……俺達は皆、あなたの荷なら分かち合いたいと思っているんです)
(……そうかな。とっくに、見放してもいいんだよ) (そんなこと、ありえません) (そうかな?) (そうです。私たちは皆、セリス様のことが好きなんです)
(……ラクチェも?)
セリスは顔をあげて、青い瞳でラクチェを見ていた。肩に置かれた手を手に取り、試すように聞く。
(ラクチェは、私のことが好き?)
蒼穹を宿した真摯な瞳。少女はほんの少し、驚いたようだった。傍らに居た彼女の兄も同じだっただろう。 気恥ずかしげに頬を染め、微笑む少女。
(はい) (私は、セリス様が好きです)
それは確かに、告白だった。
「セリス様……!!」 慌しく駆け込んできた人影に、セリスの瞳が強張った。一般兵に肩を支えられ、トリスタンが戻ってきたのだ。大柄な身体からは出血は見られない。ただ、彼は剣を持っていなかった。背にも腰にも見られない。 剣を握るはずの左手が黒ずんで、炭化している。 「イシュタルか」 レヴィンの冷たい声音が横で響く。汗腺を失ったような白い顔でトリスタンが頷いた。 「アレス様が抑えております。至急、魔道士部隊の援護を」 軍師が何か指図を出している横で、セリスの思考が慌しく駆け回る。外から戦線が崩れている音がする。
「どこの戦線が崩れているんだ?」 トリスタンは息を飲むと、即座に動揺を顔から消した。 「最初に神の雷を受けたのは、イザークの部隊です。スカサハがラクチェを連れて下がりましたが、彼も重傷で。ラクチェは意識がありません」 セリスの腰に差された銀の剣がじゃらんと鳴った。駆け出そうとした少年の腕を掴んだトリスタンが叱咤するように、だが小声で叫んだ。 「――貴方の居場所はそちらではないし、ラクチェは望みません」
そんなのは、嘘だ。
セリスはそう解っていたが、だが、足は止まった。トリスタンの拘束は強くない。容易く振り払えただろうに。 ラクチェはセリスが使命を忘れて駆けつけても、怒りはしないだろう。少し困ったような顔をして、けれど嬉しそうに笑うに違いない。彼女はセリスの宿命を忘れてはいないが、彼女が望んでいるのは、好いているのは、皇子としてのセリスではなく。
(何故あの時、ラクチェの言葉を信じられなかったのか)
ラクチェのことを、幼い頃から知っていた。彼女がどんなに素直な娘で、嘘のつけない女であるかを。 だが現実にはセリスは好意を疑い、今駆け出そうとした足を踏み出せない。 それはセリスが貫こうとする夢の代償で、失えない理想だ。皇子としての彼が個人を押し留めている。 ティルナノグの親友達は誰もがそれに眉をしかめた。ラクチェはそれに留まらず、全身で不満を示すのだ。 刃のように危うく、透明な瞳。真っ直ぐな彼女が疑心をもったセリスに怒ってもおかしくはなかった。
(なのに、あの日、彼女は笑った)
誤魔化すなんてラクチェらしくない。 らしくないのは、その時のセリスも同じだった。彼女を前に皇子として笑うなんて。 (私の前でイザーク王女を演らせたのは、私だ)
「トリスタン」 既にレヴィンはその場から消えている。人の生き筋に、関与する気はないよ、とでも言いたげに。 「何でしょう」 「……どうして、私は皇子なのだろうね」 「その問いへの返答は、私にはできかねます」
その通りだ。全く、愚かな質問だ。 トリスタンを治療へと向かわせた後、セリスは幾度か瞬きをして、次の指示を送った。
(はじめまして。私はティルナノグのラクチェ)
セリスには彼女達のような自己紹介はできない。解放軍、もしくはシアルフィ、シグルドの遺児。 封鎖されていく感情を怖ろしく思っているのに、それを阻止する方法がない。
いや、それはあった。 彼女が差し出していた。
あの、恋を知らない娘が。何かを探りあてるように。
……拒絶したのは、自分だったのだ。
幼馴染の献身あって、ラクチェは命をとりとめた。 ミレトスの城でそれを聞いたが、彼女の傍には行けなかった。
未だ、彼女は。
……こひシラズ。
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