そこには見慣れない本が置いてあった
エフラムは、本と言うのが嫌いである 動かない 細かい 結びが読む前から同じ とにかく、本が好きではない
そんなエフラムなので、就寝のためのテントに置いてあった覚えのない本を、彼は黙殺した
「黙殺した。……ではありませんわ!何故手に取らないんですの!」
テントの影から様子を伺っていたラーチェルの頭が噴火したので、 エフラムは嫌そうに本を見て、そして不思議そうにラーチェルを見た
何故彼女がこんなところにいるのだろう エフラムの非常に偏った優秀な頭脳が瞬く間に答えを弾き出す
「君は、今度は何をしでかしたんだ?」 「それは勿論麗しの聖王女であるわたくしに相応しい、完璧な計画ですわ」 互いの言いたいことはずれていたが、話は繋がった
とにかくきちんと読んでくださいまし そう告げてから、ラーチェルはエフラムを散々罵って走り去った エフラムが着替え途中だったことに気がついたためである
彼女は相変わらずちょっと面白い エフラムはそう思いながら本の表紙を開いてみた そこには流麗な文字でこう書かれている
『交換日記』
彼と彼女の交換日記
○の月9日 重苦しい雲が晴れ、季節は春へと向かっております。 新雪の下から伸びでたフキノトウに嬉しい訪れを感じたのもつかの間、 今はすっかりと雪も溶け短い季節の移り目も過ぎ去りました。 わたくしがこのように日記をしたためましたのは、 殻を打ち破るフキノトウに背を押されたのでしょう。 前世の縁でございましょうか、めぐり合えた意味を探るのもよろしいかと存じます。 日々の徒然を書き綴ることで明日へ繋げることも出来ましょう。 長々と綴ることは本意ではありませんので、今日はこの辺で結びとさせていただきます。
「……誰の文章だ」 美しく整った文字は、ラーチェルのものに違いはあるまい。だが文章から滲み出る雅やかな空気がエフラムに面を喰らわせた。報告書を書かせると人格が変わる騎士は稀にいるが、彼女がその類だったとは。 つまり、エフラムに日記を書けといいたいのだろう。 戦の書きとめをカイルに丸投げしているエフラムに! しかし、あの勢いを考えると黙殺するのも拙いような気がしてくる。 エフラムは渋々と書机に向かうと、インクつぼに羽ペンを浸した。
○の月10日 今朝の気温:6度 日の出:5時43分 風力:東南やや強い、追い風 天候は晴天、夜には冷え込むと考えられる。 これはビグルが多く出没する気候なので、暗闇によく目を鳴らしておくことが必要だろう。
ラーチェルに日記を渡すようにフランツに事伝ると、それからしばらく後に戦略用のテントにラーチェルが駆け込んできた。 「これでは、戦時日誌ではありませんの!」 彼女に詰め寄られ、エフラムは困惑したように首を捻る。 「何か問題があったか」 「大有りですわ!日記と言うのは、日常の他愛もないことを書くものなのですのよ!」 「そうか……」 「お解りになればよろしいのですわ」 深く頷いてラーチェルが出て行ったので、エフラムは何事もなかったように向き直った。 「それでは、今日の進軍に関してだが」 「はっ。この先は湿原帯に入りますので……」 やはり何事もなかったように話を続けるゼト。微笑ましそうにラーチェルを見送るエイリーク。面白そうに瞳を輝かせているフォルデとジスト。懸命に気にしないようにしているカイル。瞬きを繰り返しているヒーニアス。感涙しているデュッセル。鉄面皮だが少し頬を赤くしたギリアム。 「……と、ここで飛行隊をこちらに向けようと思うのだが、ヒーニアス、何か意見は……ヒーニアス?」 呼びかけられて、はっとヒーニアスは正気に戻った。 「戦時下で色ボケるとは何事だエフラム!」 「は?」 ズレてますヒーニアス王子。フォルデが心中で突っ込みをいれた。
○の月11日 固いつぼみから深緑の碧が綻び萌えるのはいつ見ても良いものです。 日々の行軍ばかりに意識を囚われることなく、 季節の移り変わりを忘れぬ心を持ち得たいもの。 そこで提案ですが、 夕食の前に、交流を兼ねて茶会の席を設けるのはいかがでしょう。 エイリークの心の慰めにもなって、良いことと思いますわ。
その日はドズラが日記を持ってきた。ガハハ、と豪快に笑うとエフラムに日記を渡してくる。 受け取ろうとすると、一緒に手首をつかまれエフラムを僅かに瞑目した。 「ラーチェル様を頼みますぞ!」 心配しなくとも、彼女は貴重な前衛の癒し手である。危険に晒す様なことはしない。 だがエフラムがそう答える前にドズラはうむうむ頷きながら立ち去っていた。 見ると、先日と同じ丁寧な字で日記が綴られている。 (茶会か……) エフラムはさして興味は沸かなかったが、争い事を憂う妹の心が慰められるのであればそれも良いだろうと思う。旧知の親友や新たにできた交友関係と親交を深めるのもいいだろう。 そう思いながら、エフラムは羽ペンを手に取った。
○の月12日 エイリークに茶会の機会を設けさせる。 デュッセルと稽古をしたが、やはり師の槍技は素晴らしい。 俺ももっと腕を磨かねばならない。
ラーチェルに日記を渡すようフォルデに頼むと、フォルデはそのままラーチェルと共に戻ってきた。と、いうよりも駆け込んできたラーチェルを追ってきた。 「どうして即断即決なんですの!?」 「何か問題があったか。エイリークは君も茶会を楽しんでいたようだといっていたが」 「ええ、エイリークやターナとも話が盛り上がって……ってそうではありませんわ!日記の内容も、わたくしの記述とは全く関係ないではありませんの!」 「だが、日記と言うのはそういうものだろう」 「交換日記は違うのですわ!」 拳を作って力説するラーチェルに、まあそうですねえ、とフォルデが頷く。 エフラムは不可解に感じながらもそういうものなのか、と唸った。 「そういうものなのですわ!」 ラーチェルは力強く頷くと、優雅に礼をして自らのテントへと戻っていった。 エフラムは溜息をつく。 横を見ると、地図を掴んでヒーニアスがエフラムをうろんげな瞳で睨んでいる。 「なんだ、ヒーニアス」 「別に、私にだって、私を思う娘の一人や二人!」 「は?」 言い方が負けてますヒーニアス王子。フォルデは心中で突っ込みをいれた。
○の月13日 朝方から降り続いた雨ですっかり気温は冬に逆戻りしてしまったようです。 ですがこの雨が止んだころには、次々と緑が芽吹いて春の到来となりましょう。 ところで、雨の中の修練も大切とは思いますが 長く続けてはかえって身体を壊してしまいます。 外での訓練は程々にして、 エフラムも軍の皆様と親交を深める時間をとったほうがよろしいのではないでしょうか。
その日はレナックがぶつぶつと呟きながら日記を持ってきた。 日記を受け取ろうとすると、ああ、と酷く重要なことを言うように意気込んでくる。 「王子、あんたどうしてもっと面白いこと書けないんだ!?売れねえじゃねえか!」 売れる必要はないように思う。 エフラムがそう言うとレナックは「接収するからか!?」となにやらエフラムから距離をとった。 彼女の連れる人員は、ラーチェル自身も含めて自己合点する者が多い。 そういった感想を聞くと、レナックは絶望的な顔色になってふらふらと立ち去っていった。
○の月14日 治療のための薬草が足りなくなったということで手配をさせたが、地元の兵が薬草の生える場所を知っているという。 面白そうだったので、俺も同行した。 ルネスとは大分地形が異なるため見知ったものが少ないが、色々採取できた。 君の言うようにたまにはこんな日もいいかもしれない。
カイルに交換日記を持たせておくと、その日はラーチェルは駆け込んでこなかった。 「大変感動しておいででした」 「そうか」 何をそうも感動したのかはわからないが、彼女の望んだ『交換日記』にあっていたということなのだろう。 では、と軍議に戻るとヒーニアスがなにやら地団駄を踏んでいる。 「魚が足りないのかヒーニアス」 「それは貴様の方だろうが!」 お二方とも軍用食糧です、とフォルデが心中でつっこみをいれた。
○の月15日 貴方がとっていらしたという薬草が、治療部隊の方に回されました。 皆様エフラムの採取した薬草ということで戦々恐々していたのが興味深いものです。 魔物が出るため外出は手控えろということですが、次はわたくしも出向いてみたいものです。
その日は何故かミルラが俯きながら日記を差し出してきた。 「何故ミルラが持ってきたんだ?」 「ラーチェルさんと、鉢合わせをしました。……それで、エフラムに渡すものがあるというので。わたしが受け取りました」 おつかいか。エフラムも幼い頃は侍従長から騎士隊長への届け物だ、と意気揚々と請け負った思い出がある。 なんとも微笑ましいことだ。エフラムが温かく微笑み礼を言うと、だが何故かミルラの眉はへの字になった。 「エフラムなんて……知りません」 少女は背中から羽を出してばさばさと視界から去る。 何がなんだかわからない。何かが彼女の機嫌を損ねたらしい。 まあいいか。エフラムはデリカシーなくそれで済ませた。そのまま軍議のための準備に移って、忙しない時間に移ってしまう。 魔物を打ち払い、進軍を進め。補給の手配に日々の鍛錬。兵達の様子見。 一日が過ぎ天幕に戻ったエフラムは羽ペンをとってその日の日記を書き記した。 翌朝、彼女の元に運ばせれば良いだろう。 エフラムは床につく。
それから数日が経った。 しかしラーチェルから日記は一向に回って来なかったのである。
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