「そうなら、あなたは私と共に生きてくれるというの?」



どうして頷かなかったんだろう
どうして頷けなかったんだろう


勇者の責か
王子の役目か
聖戦士として受けることなどできなかったのか


理想と違うからか

(どれも違って)
(おそらくそれは)






虚実の誘惑





 視界の先には、飛び交う飛竜が見えていた。
 一際大きな飛竜を駆る、天空の王子。その姿が妹姫と争うのを止め、翼を穏やかに羽ばたいた様子にイシュタルは目を細める。
 吐息さえつかず短く目を閉じると、耳元で軽やかな羽音。思わず目を瞠り傍らを見やると、それは己と同じく闇の皇子に魅せられた男ではなく、己の忠実な部下が天馬と共に舞い降りる姿であった。
「どうした、メング?」
「アリオーン王子が寝返りました……なんて無様なことを」
「いいのだ、メング。彼は元よりアルテナ王女のいる解放軍とは戦うことなどできなかっただろう」
 悔しげに唇を噛み締めるメングを諭すと、朱の髪をした娘はイシュタルを気遣わしげに見やった。
 その視線に、やっとイシュタルは気がついた。後方に連れる彼女の部下達は、皆同じように憂いを込めた視線で見守っていたのだ。
(私は、それほど不安げにしていたかしら?)
 戦場でのイシュタルは雷神であった。その瞳は冷たく凍え、指の一振りで敵を葬る。銀色の美貌をもってする不可触の女神。それを維持することは指揮官としてのイシュタルに必要なことであったし、既に息をするよりも先に身についていたことだったはずだ。


「……よろしいのですか、イシュタル様」
「何のことだ?」
 メングは息を呑み、背後を振り仰いだ。ブレグ、メイベル。天馬を駆る彼女の妹達と、バーハラの精鋭たち。彼らと視線を沿わせると、彼女は口を開いた。
「我々は――イシュタル様が、選ばれるならばお供いたします」
 イシュタルは瞳を細めた。そして、小さく笑う。
(部下にまで疑われていたのね、私は)
 それは尤もなことである。彼女は誰よりも皇子に仕えていたつもりであったけれど、見るものによれば、誰よりも皇子を裏切っていたのだから。
(裏切る?私が?)
 イシュタルは密かに嘲笑した。ありえない。何故ならば、彼女の諫言など欠片もユリウスが受け取ったことなどないのだから。イシュタルはユリウスが許す範囲で踊っているに過ぎないのだ。


「私は、元より選んでいる」
 イシュタルの言葉に、メングは瞳から憂いを消し凛々しき騎士の双眸を浮かべた。指揮官というのはこれほど重要なのだ。彼女の迷いが、そのまま指揮下に伝わるのだから。
 迷いの無くなった彼女の帝国軍を背負い――イシュタルは告げる。
「行くぞ。解放軍を殲滅する」
 メングは、彼女が反乱軍を解放軍と呼ぶことを、ずっと知らないフリをしている。











(あなたが勇者セティ?)

 出逢ったのはマンスターだった。子供達の隠された教会で、フードを深く被った娘に問われた言葉だ。
 己がマギ団を率いていることは知られてはならないことだ。緊張したセティに彼女は微かに笑っただけであった。
(風の匂いがするわ)
 続けられた言葉に、今度こそセティは黙っていることは出来なかった。マギ団を率いる者がシレジアの王子とばれたなら、占領下にある祖国がどうなるかわからない。
 風を生み出そうとしたセティから、娘は大きく間合いをとった。フードから、銀色の髪が零れ落ちる。
 覗いた銀の瞳が笑みに彩られた。


(私と、同じ気配がする)

 イシュタル王女だ。そう思った時には既に彼女はその場を去っていた。それが、初めての出会いだった。





「――来ますっ!イシュタルです!」
 フィーの声が、悲鳴のように上がった。
「皆、下がれ!神器を持つものは前に出るんだ!」
 セリスの声に慌しく周囲が動く。幾度かの邂逅を繰り広げるたびに、雷神イシュタルに対する兵の恐怖は根深い。まるで逃げるように後方へと下がる兵の中、セティは前線へと走っていた。
「――セティ!いいのか!?」
 親友の声がして、瞬く間に己を追い抜かしていく。アーサーは駆る馬の後方に悲痛な表情を浮かべたティニーを乗せて戦場を走っていた。瞬く間に先行していく。
「これが、最後の機会だろう!」
 セティの怒鳴り声に、ティニーがびくりと背を震わせる。
 彼女の理想にとっても、私の思いにとっても。


 ――最後だ。

「……嘘でしょ。ファルコン……?」
 フィーの呟きをジルフェが運ぶ。雷雲の立ち込める空には白い三翼が舞い、イシュタルに先行するように強襲せんとしている。
「天馬を操れるのは――シレジアの女だけなのよっ!?」
 どうして、それが槍の先に迫るのだ、とフィーは慟哭した。


「姉上!狙撃手がいます。お下がりください!」
 ゲイボルクを携えたアルテナは、その声にドラゴンを巧みに操った。彼女の耳先を鋭い矢先が過ぎていく。補助するようにアリオーンの飛竜が舞うその下方を、白馬に乗ったリーフは駆けていた。
「アレス、ファバル!イシュタル王女の方に!賢者達はシャナン王子が抑えにいってる!」
「お前はどうする!?」
「私は、こっちだ」
 リーフは馬を走らせながら、キリ、と銀の弓を引いた。


「くっ……」
 幾度目かになる神の矢を放ち、ファバルは一筋の汗を流していた。
 矢のことごとくが彼女の纏う雷に阻まれ消失していく。イシュタルはゆっくりと近づいてくるのに、焦燥が包む。
 ファバルは何回かコノート王城でイシュタルの姿を見たことがあった。その時のイシュタルは変わらぬ美貌を持っていたものの、今のような壮絶な冷たさを纏ってはいなかったと思う。
「……花を見ている方が、似合うぜ。王女」
 それでもファバルは微かに笑うと、再度矢を神器につがえた。


「いけません、セリス様っ!下がってください!!」
「私は平気だっ!ティルフィングの守りがある!」
 戦場に飛び交う殺意の矢を切り落とし、ラクチェとスカサハは大気を振り仰いだ。視界の先ではイシュタルに向かっていくアレスの姿。黒騎士の携える黒い魔剣は魔力を吸い取る。自分達が感じるよりもずっとアレスは雷の影響を受けてはいないはずだ。
「魔道士部隊が後方に下がっていたのは不味いな……」
 セリスは戦場を見渡しながら、大分遠くなった後衛を視界に収めた。
「イシュタル王女の魔力が、同等の力をもつはずの武の神器を阻んでいる……対抗できるのはファラフレイムか……フォルセティだけだ」






「我等が三位一体の攻撃、受けるがいい……死ね!」
 天上より落ちるリザイアの光を交わしながら、リーフは考えていた。既に何度となく天馬へと弓を放っていたが、三姉妹は自ら矢を受けてはリザイアの光で矢を焼ききった。
(彼女達は、既に痛覚が麻痺しきっている)
 一人ずつ仕留めなくてはならない。変幻自在の動きをとるファルコンナイトにそれは至難の業であり、天空にあって降りてこない彼女達を押さえるには、どうしたって弓でなくてはいけない。
「ちょっと辛いな……」
 だが、イシュタルに対してこそ人員は割くべきだ。この三姉妹もまた、侮れる相手ではない。生半可な者が挑めばたちまちリザイアに身を焼かれるだろう。


「どうして……あなたたち、シレジア人なんでしょっ!?どうして、帝国の味方をするのよ!?」
 後方に下がったフィーが悲痛な声をあげる。彼女は同国の者を相手にするのに慣れてはいなかった。彼女が参戦して以来、彼女は疑うことなく己の正義を信じていられたのだから。
 メングは意外なことを聞かれた、とでも言いたげにファルコンを返した。大地の剣を振りかざし、妹達と波長を揃える。
「そうとも。私たちはシレジアの血を引いている……半分はヴェルトマーのな。両親は互いに愛し合っただけなのに、シレジアの民は帝国民の血を継いでることを殊更厭った」
 フィーは視線を震わせた。おそらくそれは南シレジアのことだと悟ったのである。シレジアは南北を分かつ高い山脈によって分かたれ、南は帝国に支配され、北は物品の輸出が停滞している。
 彼女が視線を止めたのは、相棒のことをおもったからであった。メングの吐く境遇は、そのままアーサーのものに似通っている。
「帝国との戦線が開いた後、母上は国を捨ててシレジアの民となるつもりだったのに……父は、母が亡くなった後私たちと共に暮らすために、帝国へ移ったのだ……そこでも、私たちは良い目にあったわけではない」
 リーフの矢が飛ぶ。メイベルは果敢に避けきった。
「バーハラに出向いていたイシュタル様が、我々外人部隊を拾い上げてくださらねば……どうなっていたかもわからん」


「だから……」

 赤い光が走る。

「私たちは、イシュタル様の御為に戦うのみ!」

「く……」
 避けきれない。
 受けるだろう衝撃に奥歯を噛むと、一瞬前に耳元に聞きなれた声が届いた。
「リーフさまあっ!」
「ナンナ!?」
 リーフは尋常ではない動体視力をもって、馬を半歩移動させた。衝撃に耐えている時間が惜しくなる。髪を一筋さらっていって、三位一体の光が裂ける。
「下がるんだナンナっ!」
「嫌です!リーフ様は杖を扱えますが、では誰がリーフ様に杖を振るうのです!?」
 魔道士部隊が後方遠く下がっていた。今までリーフが前線でリザーブを操ってきたのである。
「……っ!それでは、君は私が守る!癒しは頼むぞナンナ!」
「はい!」
 リーフは銀の弓を引いた。それは、半感覚常のものよりも速い引きであった。


「姉上っ!!」





 メングは落ちた。
 スローモーションのように、やけに空気が糸を引いて見えた。
 ブレグの上げた悲鳴に、イシュタルが振り返る。


 イシュタル様、どうかお嘆きにならないで。笑ってください。あなたが私たちに笑顔を取り戻してくださったように。

 そのためなら、帝国に弓引くことになろうと構わなかったのに。
 唯一度もイシュタルに言葉にして告げることはなかったけれど、そう伝えるべきだっただろうか。
 バーハラに残ったイシュタルのための部隊。彼女が拾い上げた異国の戦士たち。フリージの王女であったのに、イシュタルがフリージを率いたことは終ぞ無い。ユリウスがずっと、バーハラに留めていたからだ。イシュタルが強すぎただけじゃない。
 肉親を失った怒りも、闇教団に対する疎みもイシュタルが表にすることはなかった。彼女は本当は花園の中で子供達を慈しみながら生きていけばいい人だったのに。
 どうか妹達、怒りで我を失うことの無いように。イシュタル様を悲しませないように。
 ああ、イシュタル様お別れです。望んでいいのならば、あなたが生き延びて幸せになれたらいいと思う。


「よくも……姉上をっ」
「死ねええっ!!」


 落ちるメングの視界が、雷の青さに染まった。
 遠くに見えた、翡翠の瞳。それがメングの見た最後のものになる。
(どうか、イシュタル様を)






「小さいことを、言ってるんじゃねえよ」
 雷精を纏いながら、アーサーは片手を降ろした。
「戦争なんて、こんなもんだ」
 だからこそ、理想は最後まで失ってはいけないと、もう気がついたけれど。
 ティニーはアーサーの頬に手を添えると、少し微笑み、そして馬を飛び降りた。決然とした表情で雷雲へと走り出す。
 アーサーもまた、馬を駆けさせた。空気を震わせる高濃度の魔力に身体が震えるが、雷を操るアーサーにとって、それは己の魔力を上げるものともなるのだ。


(ティニーは、彼女を殺せない)

 そして、彼もだ。

 だからこそ、自分がやらなくてはならない。アーサーは懐に納められた温かさに背を押されて走る。
(守りたいものを、守ってみせる)


「俺に力を貸してくれ……ファラフレイム!」





 セティは戦場に辿り着いていた。既に何人もの戦士がその場に膝をついていた。
 剣、槍、弓。そして炎。ことごとく神器は跳ね除けられ、三種の精霊に愛された青年が息をあげながら妹に支えられていた。
 左手を持ち上げたイシュタルが、セティを見た。その右手は黒く煤切れて動かない。
 セティもイシュタルを見た。


 自然、誰もがその場を開けていた。





「……やはり、あなたが来たのね」
「イシュタル」
 セティの呼びかけにイシュタルは僅かに眉を顰めたのみで、応えようとはしない。
「貴女は、間違っていたかもしれない、と言った」
「ええ」
「解っているはずだ。ユリウス皇子の進む先には……破滅しかない」
「……ええ」


「解っているなら、どうして!」

 セティが声を荒げたのとは反対に、イシュタルは酷く静かに佇んでいた。
「私は、もう選んだの。あの方と共にどこまでも行くと」
「貴女はそれを望んでなどいないはずだ!」
 そうなら、子供達を助け、マギ団にマンスターを預け、人々の死に憂う必要などないではないか。


「セティ」
 イシュタルは微笑むと、残酷に告げた。


「あなたは私が共に来て欲しいと言えば、帝国に着いてくれるの?」
 代わりにキスして、愛していると言ったなら?


「……何をっ!!」
 セティの頬に朱が登り、怒りの色がちらついた。自分はそんなことを言っていない。ただ、イシュタルの理想は、共に歩くべきものだと……。




 だから、ユリウスを愛するのを止めてくれ、と。



 セティの頬から色が抜けた。イシュタルは微笑みを消し、静かに戦場に立っている。

「そうなら、あなたは私と共に生きてくれるというの?」
 セティは答えられなかった。YESもNOも。


 彼は知らなかったが、かつて彼女が帝国を去ろうとする者を呼び止めたことは無い。
 それは、秘めた己の願望だからだとは、彼女は気がつかずにいたけれど。


 イシュタルはふう、と息をつくとその瞳に冷たさを登らせる。彼女は誰にも触れられない、不可触の女神。彼女の全ては、唯一人のため。
「もはや言うべき言葉は無い……きさまに雷神イシュタルの最後の戦いを見せてやろう!」





















(そうなら、あなたは私と共に生きてくれるというの?)

 頷かなかったのは、彼女にセティと共に生きる気が、欠片のほどもなかったからだった。















(05/07/04)