ザラザラと、砂の吹く夜だった

ベルンから凱旋を辿り、リキアに入った頃
既に軍の中は見慣れた顔が減っている
ここリキアではさらに顔ぶれが減り
ソフィーヤとファ、イドゥンはイグレーヌに守られながら理想郷への道を辿る


あの、馴れた砂漠に
白い石に囲まれた結界の中に
そこにはあんなみどりは
ありはしないだろう――


「俺は、ルゥと一緒に、孤児院に行く」

それだけだった
それだけ告げて、ただ、見つめて


遠くからレイを呼ぶ声があるまで
二人は続く言葉を知らず、立ち尽くしていた






五年前





不老のシステム
6:五年前の予言





 ナバタの巫女ソフィーヤの予言は、ほんの少し先の事象を漠然と捉えることができるというものである。
 彼女自身、己の力がそういったものであると思っていたし、何百年の間変化はなかった。
 だから、夢見はそれがはじめてのことだ。






 『私』とレイ、そして紫色をした案内人は、暗い神殿を進んでいた。水路に阻まれて遠回りを強いられるけれど、けして凝った造りなわけではない。
 私はここを知っている。
 黙示の闇、そう字された神の武器が封じられている神殿である。だが、思い出を辿っているわけではないということを示すように、守り手の姿はない。
「少し、空気が変だな」
 レイの声が象徴的に響いた。
「そうかい?俺は感じないが……」
「いや……何かいる」
「……じゃあ、いるのかね?」
 そうだろう。予言を与えられなくとも、レイは強く、聡い人だから。彼の感覚はこんな風に闇の領域に入ったとき、特に鋭敏になるのだ。


 中心へと足を進めるにつれて、その空気は密になる。アポカリプスが安置されているはずの玉座には、黒い装束をすっぽりと纏った、人ではないものが待っていた。
「……あんた、誰だ?」
「あんたも、誰だ?」
 性別も、年齢も、こころも。一切を感じさせない平坦な声音。
「俺が先に、聞いているんだ」
「俺はあんたに、聞き返しているんだ」
 レイのこめかみが引きつる。けれどもこの『レイ』は私の知るレイよりもずっと大人なようで、不自然さを読み取った上で、再度口を開く。
「俺はレイ。アポカリプスを読みにきた」
 緑の瞳が怜悧に人影を捉えると、人影の口元に、初めて感情の色がのったように思えた。
 笑みだ。
「俺は、名を呼ぶ友も失った謎の形。竜殺しの後継を見にきた」


「なんだ、こいつ?」
 案内人が囁く。
「……ブラミモンド、か?……まさかここで、伝説に会えるとはな」


 八神将の最後の意思は、未だ現世に残っていたのだ。





 緑色の瞳を興味深げに瞬かせて、レイが目の前のひとを見ている。
「ブラミモンドは己の全て……感情も記憶も闇に溶かして、竜を倒す力を持ったという。……こういうことか?」
「想像なら勝手にすればいい。正しいかどうかは答えないけどな」
 レイの言葉に、レイのように返す。どこか存在さえ希薄な存在が、目の前でゆらゆらと揺らめいた。
「ふん。随分偉そうなことを言う。五年前はどこでほっついていやがった」
 五年前?小刻みな単位はソフィーヤにとって馴染みの薄いものだった。だがそれに構わず会話は進む。
「五年前」
 ブラミモンドはうつろいながら呟いた。
「……五年前。竜の復活。魔竜……炎の子供。封印……封印。竜の」


 竜の。

 ブラミモンドの呟きは胡乱で、レイは不審そうに眉を顰めた。だが、ソフィーヤにとっては神経に障る呟きだった。
「何を言ってるんだ?」
「何か言っているのか?」
「言葉遊びは、好きじゃない」
 レイは苛々と足を鳴らした。ブラミモンドは反応することなくゆらゆらとしている。
「どうして、今頃現れたんだ」
「どうして、お前は会いにきたんだ」
 憤然となって、レイが息をつく。
「話にならない」
 ブラミモンドは感情の揺れなく玉座に深く腰掛けた。
「……本当に、そうですか?」


 レイは瞳に険を昇らせると、だが瞬時にそれを掻き消した。ブラミモンドの声が思いもよらぬ高い響きをしたことが理由だろう。今までレイばかりが話していたのでブラミモンドの異質性がいささか伝わりきっていなかった――。
 ソフィーヤは夢の中で首を傾げた。
 レイ以外ブラミモンドに話しかけてはいない。ブラミモンドは、誰に反応しているのだろう。


「私は……あなたの望みを知っています……」
 レイは不快気に眉を顰める。心を読まれるような物言いを彼は好まないのだ。
 少年のころのままならばレイは激昂しただろう。だが『レイ』はブラミモンドに告げた――。




「不老のシステムについて、知りたい」





「アトスはナバタの大地を。ネルガルは人の生命力を。モルフと呼ばれるものたちは、やはり人の生命を喰いながら人と異質な時間を手に入れたと考えられる」
 案内人が不自然に揺れたが、レイもブラミモンドも気にすることはない。
「また、現在に残る秘術からも、闇魔道が置換魔道であることは明らかだ。一見理論とは正反対の混沌に属すると思われているが、それは本来精神が無限の可能性を持つエネルギーだからに過ぎない」
 だが、とレイは続ける。
 いつのまにレイは、そんな知識を貯めたのだろうか。
「ここ、ベルンには喰われたような兆行は見られないし、お前は竜と接触をもつとも、伝説に残る上では考えられない」
「想像は間違ってはいない」
 感情一つなく、ブラミモンド。
「……それが正しいなら、今度は伝説のある一文が重要性をもってくる」


「『ブラミモンドは己の全て……感情も記憶も闇に溶かして、竜を倒す力を持った』」

「お前は、自身を崩しながら生きている。その確証はある……何故なら、アトスの日記に記されているよりもよほど、お前は個性を失っているからだ」
 永い時を生きるいきものは、そこで少し笑った。フードに隠れた口元だけが少し蠢くような笑い方だった。
「それ以上を知りたいか」
 気がつくと、黒いローブに包まれた体躯から腕が伸び出ていた。その白い手のひらには一冊の書物が重ねられている。ソフィーヤもレイも、それが何であるか知っていた。
「それが、『本来の』アポカリプスか?」
「そうだ。フェレ候が懼れ、オスティア候を牢獄で殺した神将器の姿だよ」
 その言葉はあまりに穿ったものであったが、声音に皮肉は見られない。ただ、事実を述べているものだった。
「……知りたいなら、手にとってください……そうすれば、総てがわかります」


 レイの望みの、不老のシステムが。

 ……レイの望みの?
 ソフィーヤは暫し考え込んだが、夢の中ではレイが手を伸ばし、アポカリプスに触れるところだった。案内人は逡巡の言葉を洩らすが、ソフィーヤには止める気は沸いては来ない。


 神将器の真の意思。八神将の心。
 アポカリプスに眠るのは、最期に残ったブラミモンドの心だ。
 この大陸で、おそらくもっとも闇に秀で、闇の中で己を保ち続けたであろう人間……の。
 心を継承するということは、どういうことなのだろう?


 だが不安に苛まれながら、ソフィーヤは止める気が沸かない――。





 ソフィーヤの目前で、アポカリプスの表紙がめくられた。










 そこに広がったのは、闇だった。
 ラガルトには、何があったのかわからない。広がる嫌な予感にもどかしく、だが行動にも移せず。
 記憶の最後に残るニノの幼い笑顔を何故か思い出していた。
 氷のような『死神』を、人間に変えてしまったニノ。
 かつて死神であった男は人になった分弱くなったが、ラガルトにはそれが好ましかった。大切なもののための弱さであるなら、それは冷たい強さよりも大事なのだと思えたのだ。


 大切なものを忘れてしまった男を父にもっても、大切なものを、もてないわけではないと――。





「レイ!」
 ラガルトが叫んだ。
 ソフィーヤの目前で、まるで時間の流れが違うかのようにゆっくりと、レイが崩れていく。
 その深緑の瞳は薄暗く、深い沼を覗き込んだかのように昏かった。
(レイの光が)
 消えていく?いや、そうではない。飲み込まれているのだ。
 多くの闇魔道士が辿る末路のように、レイの心に闇が広がっていく。
 闇を広げたであろう、魔道書さえ見えない。既にその物質こそ闇になったのかもしれない。


「……その闇こそが、智慧です……」

 ブラミモンドはゆらりと腕を広げ、闇の申し子を抱きこんだ。レイの方が背が高いのに、まるで閉じ込められてしまうかのようである。
「あなたの望みを、知っています……」
 その言葉は、レイに向けられたものではなかった。
 ローブに隠されたブラミモンドの瞳が、はっきりとソフィーヤを捉えている。
「安心してください……このひとは、稀なる力を秘めています……喜びなさい、竜と人の血を継ぐ娘……」
 形の良い唇が、笑みを刻んだ。
 それがソフィーヤの始めて見るブラミモンドの感情であった。


                                     こころ たましい
「レイは……貴女と同じ、人ではないものになります。感情も記憶も闇に溶かして、全ての代わりに」















 いやだ。

 自分の声でソフィーヤは目を覚ました。夢の中の一切を、覚えていなかった。
 ただ酷く怖ろしかった。レイの手を、とってはいけないと思った。






「私は、ナバタに帰ります」
「そうか」
 二人の間の言葉は終わり。
「じゃあな」
 再会さえ約することはできず。


 レイが遠のいていくのを見つめながら、ソフィーヤは安堵の感情と同程度の、それ以上の淋しさに襲われていた自分に気づいていた。





 ……五年前。




▽▽▽












(2006/05/10)