ナンナはどんなときも清らかだと思ってらっしゃっている方はブラウザバック





――この戦いが終わったら――



苛烈になる戦闘を振り切ってしまおうと
家族の、友人の、恋人達の間で囁かれる言葉


この戦いが終わったら――



バーハラ、終戦





言葉を繋いでも、温もりは伝わらず





 机の上に広げられているのはユグドラルの地図だった。
 室内で一人、それを見つめている少女がいる。豪奢な金の髪に空色の瞳。肌は強いトラキアの日差しの下での度重なる逃亡の末によく焼けていたが、隠しきれない気品が薫る。
 髪が一房落ちたが彼女はそれに気にも求めず地図を眺めていた。
 その視線の先に在るのは二つの故郷だ。
 いや、違う。と彼女は頭を振る。少なくとも、片方は己の故郷などではない。
 彼女は確かに見たことも無い国の姫ではあったが、彼女は何より”故郷”の騎士であることを誇りとしていた。
 こんな地図を、どうして今更眺めているのだろう。少女は……ナンナは手荒に地図を巻くと元通りに片付ける。
 きっと、ここがグランベルだからだ。
 私の王子と共にトラキアから長く旅をして、アグストリアに近づいてしまったからだ。


 ナンナは部屋を後にした。















「それでは。セリス」
「ああ。忘れないでくれ――この先、再び君が苦難に陥ることがあったら、その時必ず」
「はい」


 別れるのが名残惜しいかのように、その私的な謁見は長引いていた。青と赤、実際には従兄弟だが、二人は実の兄弟かのように仲がいい。
 セリスの部屋からリーフが出てくるのをナンナは静かに待っていた。横に立つ父とこの状況で私事を話すような育ち方はしていない。
 レンスター軍でバーハラまでリーフに従ったのは直属のランスリッターとフィンとナンナ、アスベルとスルーフ、アウグスト。そしてセイラムとサラだ。他の者はトラキアを出る時に国に残し、混乱するトラキアの収集に当たらせている。
 そのうち戦線に参加するのはランスリッターを率いるフィンとナンナ、アスベルのみで残りは杖による後方支援に当たっていた。セイラムとサラに至ってはそれも稀で大抵ランスリッターの治療のみを行っている。
 私達は、皆リーフ様に従うことを望み、それを許された者たちだ。
 随従を望んだが国の安定にと残された者は数多い。騎士の中で……それを許されたのはフィンとナンナだけだった。


 それは、とても嬉しかったのだ。

 バーハラの戦いが終わり、リーフはトラキアへと帰還する。トラキア統一のための新たな戦いがこれから待っている。ナンナは浮き立つような感情を諌め精神を律した。
 チャッ
 軽快な音がして目の前の扉が開く。扉の中から現れた主は最後にもう一度軽く室内に向かって会釈をしたようだった。


「フィン、ナンナ。待たせたな」
「いえ、お別れは済まされたのですか?」
 リーフは僅か寂しげな色を浮かべ頷いた。憧れ続けていた年上の従兄弟、次に会えるのはいつの日になるだろうか。
 それでもそれは不幸な再会にはならぬだろうと微笑む。
「うん。レヴィンにも激励をもらった」
「レヴィン王には我々も影ながら助力を頂きましたからね」
 リーフは置いていたマントを軽く羽織る。フィンが先導し扉を開いた。
「まだまだ忙しくなる……フィン、グレイドへ伝達は?」
「送りました。一同待ちわびていることでしょう、書状では予定通りに進めているとのことです」
 ナンナは後を追いながら歯痒く感じずにはいられない。それを感じ始めたのは、トラキアで囚われの身から解放された頃だったか――父以上に、己はリーフの役に立てない。
 続く会話を全て己の糧にしようと神経を尖らせている。


「アレス王子とお話はなさいましたか?」
「まだだ。アレスは今デルムッドに叩き込まれてるだけアグストリアについて叩き込まれてるから……きっと出立は最後になる」
 リーフはアレスと仲が良い。始めは意外だ、と思ったが嬉しく思った。自分とよく似ていると言われる従兄弟。
 二人の仲は互いに面倒をみたりみられたりで、おそらく本人達は互いを世話のかかるやつだと思っているだろうということが、どこか笑いを誘った。
「ナンナはアグストリアに行くのだから、早めに話しておかないとね」






 十歩ほど離れた場所からリーフが振り返った。不思議そうな、顔をしている。
「どうしたナンナ、疲れたかい?」
 疲れてない。
 ナンナはやっとのことで首を振ることができた。それは、リーフへの返答ではなかった。
 足が言うことを聞いてくれない。リーフが心配する、動きなさい。
 意思に反して、ナンナの首は振られ続けた。横に。


「――」

 声が出た。
 なんでもありません、と紡ぐはずの唇は異なる言葉を発した。


「私を、アグストリアに……おやりになるのですか」
 頬を水滴が伝った。これは何と呼ぶのだったか。


「ナンナ?」
 リーフは困惑したようだった。それで肯定と解ってナンナは慄いた。
 あんなにも動かなかった足が、勝手に動く。後ずさる。



「……嫌、です」


 ナンナは主君への抗いを初めて口にし、またそれに驚愕した。
 己の罪深さに慄然としながらも、どうしても許諾できない悲しみに溺れてしまいそう。
 真っ直ぐに見つめてくる柘榴の瞳に耐え切れず、ナンナは背後に駆け出した。
「っナンナ!」


 思わず足を止めてしまいそうに、うっとりする声が己の名を呼ぶ。けれどもナンナに酔いしれる余裕は存在しなかった。










 何時ほど経っただろう。
 バーハラの広い城内の隅でしゃくりあげていたナンナは泣くことに飽いた。
 一日泣き臥せってしまえば良かったのかも知れないが、それほど子供に徹することもできない。なんだか滑稽で、また少し心が塞がる。
 悲しいばかりがなくなってしまった時、残ったのは怒りだった。
 ――リーフ様が、私の意向も考えないのでお決めになってしまったからだわ。
 小さな叛逆にナンナはそう定義づける。
 途端に泣きじゃくっていたのが恥ずかしいようで、ナンナは顔を洗おうとその場を離れる。
 その途上、ふ、とナンナは瞳を彷徨わせた。


「――」
 他の誰より知っていて、代え難い声が聞こえた。ナンナは自然そちらへと足を運ぶ。
 その声が誰より綺麗だと言ったのは誰の言葉だっただろう。それに即座に肯定を返せると思う。僅かに幼さを残した低い声は優しさも苛烈さも宿した澄んだ音だった。脳内を染めつくされるような感覚が嫌ではない。
「怒らせてしまったようなんだ」
 ああ、私のことを話している。ナンナは瞬時に判断した。リーフはナンナを怒らせたと思ったとき、こんな風にとても困ったように話す。
(リーフ様はお解りではないのだわ)
 そうやって困ったように。リーフが話しかけているだけで、ナンナの心は甘やかに溶かされてしまうというのに。
 これは既に刻み込まれた本能だ。そして、それが忠誠なのか恋なのか、判断する理由をナンナはもたない。
 だがナンナは繰り返すように言い聞かせた。私は怒っている。
 それだけは引いてはいけないのだ。
 私を切り捨てようとするのは嫌なのだと、みっとも無く縋り付けたらいいがそれもできない。リーフの中の己の姿を壊したくないと、そう思う故に。


 リーフの話は続いている。まさか相手は父ではあるまい、アスベルか……。

「ばかよね、リーフさま」

 サラ、だ。

 そうだ、彼女だ。リーフの声が綺麗だと言ったのは。
 ナンナは数少ない、サラという13歳の少女の素性を知っている一人だった。それに驚きはしたし複雑な思いが沸いたのも最近のことだが、こまっしゃくれていながらどこか寂しげなサラを、可愛いと思う。
 大地に届かんばかりの波打ったアッシュブロンド。翠の瞳は涼やかでサラの少女ゆえの神秘性を高めていた。
 あまり馴染もうとしないサラ。小さな白い指がくるくる動くさまはこんなに愛らしいのだと、ナンナが手を取って人の輪に連れて行った。


 サラはよく喋るが、リーフに話しかけるときほど優しい響をもつのは他にない。
 幼いという理由だけで皆知ろうとはしないが、サラはきっと、リーフが好きなのだ。少女の恋から女へと移り変わるものとして。マンフロイへの戦いだけに密かに参列したサラが、だが理由は祖父だけではなかったに違いない。
 リーフはサラには殊更優しく話しかける。それがどんな色を秘めているのか、ただサラだけの場所があるのはよくわかった。


 それでもナンナも、サラが可愛い。
 だからだろうか、溶かされかかっていたツンツンとした棘がむくむくと心を守りはじめる。どうしてリーフは、サラに相談をするのだろう。



 ナンナは静かに踵を返した。
 サラの呆れ声が聞こえたような気がした。



「ばかよね、二人とも」















「元気でね」
「ナンナも」
 イザークへと帰るラドネイを見送りながらナンナは一つ数を積み重ねた。
 己を呼ぶリーフの声を避け始めて3日目である。




 常ならばそんな不敬に真っ先に窘めを発する父は何か物思いにふけっているようで何も言おうとはしない。それがありがたくもあり、歯痒くもあった。
 アグストリアに向かう、兄やアレスの出立はいつだろう。リーフがトラキアへ帰還するのは?
 表情を翳らせたナンナはふと瞳を凍らせた。


 後方から衣擦れの音がしてナンナは身を硬直するのを感じる。
 そこに、人がいたとは思いもよらなかった。終戦で気が緩んだだろうか。ナンナは気配には敏感だ。怪我を負った人がわかるよう。鼓舞の声をかけられるよう。
 簡素ながらも質のよい長衣の裾が目に入る。ゆらゆら揺れる長い髪。顔をすっぽりと隠してしまうような紗のヴェール。
 彼女はこんな様にふらふらと出歩く性質ではあったが、セリスの軍と合流して以来は控えていたと思っていた。それも全て、リーフに影響が響かないようにという彼女らしからぬ気遣いだ。
 まだ両親の傍でふわりと笑っていてよい年頃の少女の気遣いにナンナはいたく琴線を震わされたものだった。
 このヴェールは、同軍を決めた彼女にリーフが与えたものだった。面倒だろうけど、と瞳を伏せたリーフから受け取った時、少女はヴェールをマントのようにひらひらとさせながら「あら素敵じゃない」と笑っていた。


「…サラ」
「話があるの、ナンナ」


 ヴェールの中から涼やかな翠が覗いて刺すようにナンナを見つめた。変わりのない、率直な瞳だった。

 サラの名を呼んだ声音は困惑を宿していて、ナンナは驚いた。こんなように感情を露にしてしまうなど。
 横を進む幼げな少女からは一欠けらも動揺は見られない。
 この焦りはなんだろう、と自問する。
 と、サラが突然見上げてきた。
「あたしは、フィンじゃないのよ」
 どきりとした。
「アグストリアに惹かれた思いを指差されたみたいで怖いのね。リーフさまは心を読んだりしないよ、読めないんだもの」
 読めるのは、サラはそこで言葉を止めた。
 ナンナはそんなことはない、と言おうと喘いだが、またそれがどんなに無意味なことかもわかっていた。
 心が、読めるのは。


(心が読めるのは、サラ)

 そうだ、言い訳は意味がない。
 彼女は私よりもよほど、私の心に素直だ。
「リーフさまの、一番になりたいのね」
 サラが、ではない。
 ……私がだ。
「臣下としても女としても、友人としても。ナンナとして、リーフさまの一番になりたいのね」
 いつのまにか庭園へとたどり着いていた。サラは奥の東屋までは行かず、途中で足を止めた。
「ナンナはあらゆることに目を向けてるけど。その実リーフさまの事しか考えてない。だから盲目なのよ」
 サラの言葉は、容赦が無かった。


「……だから、アグストリアに行けって言われるの」

「っ!!」
 ナンナの美しい顔が苛烈に染まった。衝動に駆られて右手を振り上げる。
 ……そのまま、振り下ろされずに、止まる。
 力なく降ろされた右腕を握り締めて、ナンナはがくがくと震えた。
(こんなことでは)
 泣くのは飽いた。雫一つ落ちはしない。
(こんなことでは、リーフ様のお役に立てない)
 だからだろうか。リーフは心が読めないのに、ナンナの弱さに気づいたのだろうか。こんなに弱いから、アグストリアに……知らないノディオンに惹かれてしまうのだろうか。
 もっともっと強ければ、郷愁に揺られる事なくリーフは連れて行ってくれただろうか。


「……ナンナ?」

 本能が顔を上げさせた。
 大地の色を宿した髪。白い洋装。低めに響く綺麗な声、ナンナもこの声が、とても好きだ。
 東屋に居たのだと気がつく。少し困ったような顔。
 ガーネットの瞳に映った自分の姿が、ナンナの心を一層震わせてしまうのだ。
「嫌……です」
 声が震える。否定なんて、そんな貴方に逆らうようなことを。
「アグストリアに、惹かれました……でも」
 そこで、愚挙に気がついた。否定じゃない。これは意見だった。渦中にある己の心を伝えるための過程だった。
 それほど己は部下らしくなかったのだ。この人の言葉全てを肯定し、この人を神と崇め奉ることを望んでいるわけが無いのに。
 そんな者は、民にはなれただろうが役には立てない。
 己の中の反する意見すらリーフの耳に入れまいと、ずっと綺麗な音ばかりと気を張っていたのだ。
 ずっとずっと、思い違いをしていた。


「リーフ様のお傍で……リーフ様のために力を尽くしたいのです」
 そのためなら視界を広げる。
 諫言だって口にする。
 もっと大人になるから。
 どうか。



(お願いです)



 リーフはやはり、困惑した顔をした。
「では、一度私とレンスターに戻るか?」
「そうではなく……」
 リーフは思案気な顔で言葉を続ける。
「そうしたいなら、先見はアスベルに頼むよ。リワープも使えるし」
「はい?」
「先に向かえればノディオンはアグストリアの出窓だし……良いと思ったのだが私の早とちりだったかな。だが、私は一度レンスターに戻って随兵を改めようと思っていて……」
 ナンナは慌ててリーフの言葉を遮った。
「あの、リーフ様?先見というのは……」
「あれナンナに話していなかったか?アレスを助けてアグストリアに遠征するんだよ。本当はセリスも一緒に行きたかったんだけどバーハラは帝国時の旧臣が多くて行けないそうだ」
 くらりとするナンナ。
「で、では……私をアグストリアにやるというのは……」
「直ぐにアレスと同道できるわけではないけど、レンスターからも先に一人行かせたいと思ったからね。デルムッドと積もる話もできるだろうし……ナンナ?大丈夫?」
 どうしたんだ、と優しくリーフが呼びかける。硬い皮膚に包まれた指がそっとナンナの頬を擦る。
「どこか痛いのか?」


 ナンナはそこで、やっと早とちりに気がついた。

「ばかよね、二人とも」
 そうだ、サラはそう言っていた。




 堰を切ったように泣き出したナンナに、リーフは困惑して頬を撫ぜる。閉じた瞳に、優しく口付けを落とした。
 リーフの体温は、少し冷たかった。





















 サラはとうに、姿を消して。
 実感して悔しいことに、彼女はずっと大人だ。















(04/09/02)
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