好き、という言葉は簡単に言えない言葉だ
それは個人のいきさつもあるだろう
一人一人の性格もあるだろう


だから、両想いのまま終わる恋は珍しくない





束縛の代償





 彼女は記憶力がいいほうだ。
 幼いころの封印されていた記憶が解き放たれた今、自己確認がなされてからの記憶を大体は覚えている。
 だから、最近の出来事である妹との再会や――シグルド軍との出会い。そういうのもみんな覚えている。
(エーディン様……?いや、違う。もしや貴女は……)
 繊細な弓騎士の始めの言葉も、ブリギッドは当然覚えているのだった。




「貴女の名は、ブリギッド……そうおっしゃるのではないですか?」
 実も知らぬ騎士にいきなり名を言い当てられたブリギッドはたいそう困惑した。
 始めはドバール達の追っ手かと思ったが、あの男たちに騎士らしき人物を動かすような才量はないだろう。
 海で生きてきたブリギッドには、目の前の人物のような存在を見るのは始めてだった。
 声さえ聞かなければ女と見間違えそうな細い線の持ち主。使い込まれた弓の姿だけが彼を戦士に見せている。
 かつて見ないようなその容貌に、ブリギッドは困惑している。そんな姿を持つものに、名を知られているとは思ってもいなかったからだ。
「……そうだよ。何故あたしの名を知っている!?」
 ブリギッドの怒声に、しかし青年騎士は動ぜず、そのかんばせをほころばせた。
「貴女をずっと探していました」
 え?とブリギッドは目を丸くした。全然似ていないというのに、父が穏やかに微笑んだときと印象が重なる。
「しかし、これではゆっくりとその件について話す時間もありませんね」
 青年はそういって矢をとった。二本。
 ブリギッドは舌打ちをして同じように矢を取る。
 示し合わせたかのように微かな罵声がして――。
 二人は一斉に矢を放った。追いかけてきた海賊たちに対して。


 ピサールが泣きながら兄のいる城へと去っていったころにようやく青年は再びブリギッドに視線をやった。
 ひざまづく。
 さぁ、何を言い出すか……と思っていたブリギッドはまたもや困惑の渦に叩き込まれることとなる。
「貴女の妹姫……エーディン様とお会いください」


 ……それが二度目に聞いた、妹の名だった。










 良かった、と言う。
 ミデェールが自分と共にいることを。
「縛って……いるかと思ったんです」
 エーディンは優美な顔を翳らせながら呟いた。
「私がお父様の娘で、ミデェールが護衛騎士であったから」
 ジャムカと誓いを交わした身なのだから、もはやユングヴィの者とも言えないだろうに。
 あの人は、頑固に自分を主と言って守り続けていたから。
「でも、本当は私のわがままでしたの」
 昔、ミデェールのことが好きだったんです。エーディンは穏やかに言った。






「ねぇミデェール。ひとつ聞いていいかな」
 弓兵たちの訓練の指揮を執っていたミデェールを捕まえて、ブリギッドは郊外に連れ出した。 シレジアの夏は短いが、その分過ごしやすいのだ。
 崖から無造作に足をほおり出しているブリギッドの横で、ミデェールは文句も言わず静かに控えている。
 そうしてしばらくたった後、ブリギッドがやっと一言呟いたのだった。
「何をでしょうか?」
「エーディンのこと、どう思う?」
「と言われましても……ユングヴィの公女ともあろう方でいらっしゃるのに慣れぬ地で頑張っていらっしゃって……」
「そうじゃなくて!」
 ミデェールは困惑した顔を向けた。
 何故かブリギッドは「わかって」しまった。
「恋愛の目でってことだよ」
「私はユングヴィに仕える身。尊き方に対しそのような感情を抱くことはありません」
 言い馴れたような、事務的な言葉だった。






「淡い、初恋のようなものでした」
 苦い思い出を語るようにエーディンは囁いた。
「綺麗で、優しくて……弓の国ユングヴィで私の護衛を託されていたほど弓が強くて!」
 あの人はただの憧れだと思っていたかもしれないけれど。とエーディンは言った。
 再開したときにはヴェルダンの王子と寄り添っていた、既に一人の女性となっていた妹が、今は十代前半の少女のような顔をする。
「彼への想いは確かに……淡雪のような、恋でしたわ」
 彼女にとっての昔の想いが、ひょっとすると彼の中にまだ残っていたとしても?






「ミデェール」
 命令することに慣れた声。ミデェールはその言葉にはい、と穏やかに返答した。
「目を閉じろ」
 返答の代わりに瞼を下ろす。さやさやと流れる風が二人の髪を揺らす。
 その胸に刃を突き立てたとしても、少し悲しそうな顔で笑うだけのような気がする。


 噛み付くような口付けに……男が僅かに動揺するような気配がした。
 それがほんの少し、おかしかった。












 赤い流星が降った日。目の前が真っ赤に染まった。
 ミデェールの腕の中でブリギッドは混乱する頭を整えていた。
 部下たちに裏切られた日のように、彼女は裏切りには慣れていない。
 左腕から流れる血のために、彼女は既に抱えた神の弓を持つことができなかった。備わっている治癒能力が、辛うじて血を流すまいとしている。
「デュー!その先に敵兵は!?」
 先回りして周囲の状態を見ていたデューの姿にミデェールが声をかける。
 その方向が唯一の突破口だ。開けたバーハラ周辺で、わりと入り組んでいて視界に止まりにくく、しかも馬をとばせるスペースがある。
「確かに兵は少ないけど、大分ソルジャーが出てきてる!弓じゃ辛いよ!」
 怒鳴りつけるようにデューも答えた。
 異国の友人はどうしているだろう。湧き上がる不安が胸をつぶそうと迫るが、できることは理解していた。この美しい人を守るのだ。
 どうにかしなければ、と賢しい頭を、めぐらせるデューの姿を見て、ミデェールは一時も迷うことなくその馬を飛び降りた。
 ブリギッドを降ろして、何故、と混乱するかの人の瞳に微笑みかけた。
「私がお供できるのはここまでです……ブリギッド様、貴女にウルの加護がございますよう」
 ミデェール、と唇が動いた。ミデェールは微笑んだままその身を翻す。
「デュー!タイミングを見計らえ。馬は使えるな!?」
 当たり前だよ、とデューも答えた。この人間が好きだったわけではないけれど、嫌いなわけでもない。エーディンの恋心を、ブリギッドの想いを、デューは知っていた。不器用な男。


 せめてその思いだけでも継ぎたい。

 存外に軽い体を抱えて、デューは馬へと駆け寄った。抱えられながら、ブリギッドは手を伸ばす。どうして、と瞳が訴えている。
 ミデェールは微笑んだまま、何も言わなかった。






「待って……お願いだ、デュー!ミデェールが!」
 似合わない刃を抜いて走り去った人の名をブリギッドは呼んだ。デューは悲痛な声で無理だと言う。
 駆けていく馬にブリギッドの体は急速にミデェールから離れていく。
 さっきまで、自分をその腕に抱いていたあの人。
「ミデェール……!」
 一度も自分を、拒否することのなかった人。
 縛ってばかりいたのに。
 みるみる彼から離れていく。



 温もりさえ捨て置いて。
 笑顔さえ忘れて。
 あの声に呼ばれた自分の名を、忘れてしまいそう。






 これは留め置いた代償だろうか。
 始めてだった。
 あの人が、ブリギッドを抱きしめたのは、あれが始めてのことだった。


 伝えられればよかったのに。
 下手な意地になど拘らず。






 好きだと……言えたらよかった。



 そこで終る恋だとしても。
















(03/06/16)