あなたにはね、おにいさんがいるのよ
(あなたと揃いの髪)
(あの人と揃いの目)
いやだ。困ったわ
母は”兄”を話す時、いつも困ったように笑った
私と揃いのものは、何だったかしら
あの日のてのひら
小さく喧騒の音を聞きながら、ティニーは横たわっていた。設営されたテントは自室よりはずっと小さかったけれど、自分を置き去りにして交わされる話し声が聞こえる分ずっと孤独に思う。 胸に抱いた真新しいトローン。母の持っていたものではないのが寂しい。あれは、イシュトーが持っていたのだ。今はどこにあるのだろうか。 アルスターより魔道士小隊を率い、初陣。 それがティニーが今背負うものである。 先に魔道士三姉妹が向かっているはずだ。ティニーも迅速に向かわねばならない。
この力を、何のために振るう?
それは、叔父のためだ。己を育て、慈しんでくれた叔父のため。愛してくれた従姉妹のため。 ティニーはテントの中に横たわりながら、母の言葉を思い出していた。 あれは、賊討伐よりイシュトーが帰還した時だ。 幼いティニーは返り血を浴びたイシュトーに怯え、塔の中の母に会いに行った事がある。ティニーは混乱して訴えた。
(かあさま、どうして、人を殺さねばならないの)
ティニーは小鳥が死ぬことにも堪えられない娘だった。 娘の言葉にティルテュは驚いたようだった。ティルテュは公女である。教育は勿論それにそったものであり、グランベル特有の騎士教育がなされていた。 それは、国のために。という思想だ。 ティルテュは敵に対して容赦をする必要は無いし、国を愚弄し、民を脅かすものは敵である、という教育を施されている。そのため、娘の言葉はティルテュにある程度の衝撃を与えた。ティニーは制限された教育と、騎士としてより、むしろ政略結婚のための教育のために、そのような思想を持っていなかった。 彼女は、おそらく始めて疑念を抱き、己の心に問い直した。今まで、ティルテュはシグルド公子こそ正しかった、アルヴィスは間違っている。という単純な公式のみで動いていたのだ。
(……私は、少なくとも私は、ずっと、私のために力を振るったわ)
(かあさまのために?)
(そう。……私の信念を、貫くために……)
ティニーはそれから騎士としての教育を受けたが、ティルテュは度々ティニーに話しかけた。 (何のために力を振るうのかを、間違えないでね。ティニー)
(かあさまは死んでしまった)
今ティニーは、叔父のために人を殺す。 それで良いはずだ。ティニーは、フリージのティニー。私はここ以外では生きられないのだから。 また民が泣くだろうか。 北トラキアの民。彼らは口々にかつての時代を乞い、征服者であるフリージには従おうとはしない。 それは何故なのだろう。私たちが正しくとも民は抗うものなのか。それとも、私たちが間違っているのか。 耳を突く子供達の悲鳴がティニーを苛むが、彼女は小さくトローンを抱えなおすと短い仮眠を取るべく瞳を固く閉じた。 首元に振れるアミュレットが小さく音をたてる。 紅い宝石のついた、金細工のペンダント。母のくれた、私のお守り。
明日は、反乱軍を殺すのだ。
紅い宝石は血の色ね、とティニーは小さく泣いた。
(あかいいろがちらちらとちらつく)
「ティニー」
魔道士の小隊の中に、現れたのは一人の魔道騎士だった。魔道騎士だ、と思うのはその人が馬を駆り、その腰に細身の剣をさげ、雷の空気を纏っていたからだ。実際には彼は叙勲など受けたことが無いから騎士などではない。だが、フリージ王族としてアルスターにいたティニーからはそう思えただけだった。 少し低めの声から、男性なのだろうと思った。すっぽりと被った外套と、ほっそりとした体躯のために一見わからない。だが、無国籍な服装は反乱軍の者だろう、と周囲の魔道士が一斉に詠唱を始める。 ティニーといえば、どうして名を呼ばれたのかがわからない。彼女は勿論フリージの末姫として周知の存在であり、フリージの銀髪はよく目立つ。だが、彼女はそういった自覚は無く混乱するだけであった。 傍らのリンダがその人影を凝視し、ふと瞳を眇める。 男が、外套を落としたのはその時だった。
その時、ティニーはそこに鏡があるように思った。長くこんな顔は見ていない。ティニーの銀はやや赤みがある銀であり、それは記憶の中の母にもない色だった。 赤みがかかった銀がなびく。 手入れのされていない銀髪が風に翻り、印象的な紅い瞳がその中にあった。ティニーはその紅に気がつくと、やっと”鏡ではない”ということがわかった。 馬に乗る男はまだ若く、少年と呼んで差し支えない。 少年は目も覚めるほど美しく、感情無く佇んでいた。淡白な感情表現が、無表情を作っている。その佇まいはどこか異様で、安易に立ち入れない空気を漂わせていた。 周囲の魔道士達は狼狽のためにその手を止めている。 それもそのはずだ。紫を沈めた銀髪はフリージのもの。血族にしか現れない。その銀をもって現れた男、これは誰だ?しかも、その男は赤の瞳をもって現れたのだ。赤い髪はしばしば現れるが、赤い瞳はヴェルトマーの濃い血族にしか現れない。だが、少年の衣装はヴェルトマーのものとも思われなかった。 ティニーもまた、戸惑っていた。自分と同じ髪をして、赤い瞳をしている少年。
迷いなく居るのは、少年だけだ。
だが、リンダはおずおずと――戸惑いを秘めながらも確信をもった瞳で――囁いた。
・ ・ ・ ・ 「アーサー?」
……頷いた。 「リンダ?」 ティニーはさっと傍らの従姉妹を見たが、リンダはトローンをその手に持ち直し、その片手にティニーの手を取り、駆け出していくところだった。 「リンダ様!?」 「何をなさいます!」 魔道士達が口々に騒ぎ、その雷をちらつかせた。ティニーは自分達に向けられる殺意に慄き、震えを隠せない。だがリンダは、魔道士達が自分を叛乱分子と監視の役目を負っていたことをよく知っていた。迷いなくトローンを唱え、周囲へと雷撃を飛ばす。 「り、リンダ!」
この力は何のためのもの?
ティニーは容赦なく振るわれた雷撃にがくがくと震えながらリンダに引かれていた。馬上の少年は軽やかに降り立つところだ。その片手に雷を纏わせて。
その力は何のためのもの?
「リンダ。アミッドが君を探している」 引かれるまま、少年の前へとまろびでた二人。アーサーはリンダにそう告げた。 「ああ、アミッド兄様――」 ほろほろと涙を零すリンダを、今までティニーは知らない。……知らない? ティニーは見たことがある。あれはアルスター王宮だ。常は離宮に閉じ込められているリンダが、数えるほどの王宮登城をした時の日。元アルスター王女が住まう別棟を、じっと見つめていた時のことだ。 ティニーは、唐突に理解した。リンダの雷は己のためのものだったのだ。彼女が、自らの道を切り開くためのものだったのだ。 リンダは涙を拭うと、ティニー、と呼びかけた。ティニーはどうすればいい。叔父のために戦う自分は、ここでリンダを殺すべきだ。私を育ててくれた叔父のために。今は王宮にいないイシュタルのために。メルゲンで命を落としたイシュトーのために。
(私のためではない)
母は常に、己のために選んできたと言った。私が私の運命を切り開くために、戦ったのだと言った。ティニーはどうしたらいいのだ。かあさま。 (私と揃いの髪、赤い瞳) 少年は、衣服の中からペンダントを取り出した。見覚えのある、アミュレット。ティニーはそれを見ると、はっとしたように己の衣服をまさぐった。やはり、そこから出てくる同じ、アミュレット。 (これは、なんなの?) 感情の色が見えない。淡白な少年。精霊を思わせる薄い美しさでそこに立っている。その表情に、さっと色が差すのをティニーは見た。蕾が開くかのような変化だった。 端正な顔がみるみる綻び、白い顔が笑顔に歪んだ。アミュレットを支えていた指先が金属から離れ、ティニーの方に向けられる。 「ティニー!」 背中に回された腕は、まるで壊れ物を抱くかのように優しげだった。 ティニーは、その勢いで草むらに尻をつく。
あなたには、おにいさんがいるのよ
アーサーはほっそりとした体つきであり、がっしりと成熟していたイシュトーとは全く違った。 荒れた肌は手入れの様子も無く、イシュタルともまるで違う。 あんな、鮮烈な紅い瞳なんて知らない。 頬をくすぐる銀の髪。赤みがかかった、知らない父の色を宿した色。 (けれども、私と揃いの)
ティニーはそっと華奢な背中に手を回してみた。一瞬びくりとアーサーが震え、それからティニーを抱く手を少し強まる。ティニーを離すまいと、ティニーを愛しているのだと告げる仕草だった。 ティニーは、この少年を知らない。それと同じくらい、アーサーもティニーを知らないはずだ。 どうして、無条件に愛しているということができるの。
それはティニーが母からしか知ることが無かった、肉親ゆえの愛であると幼いティニーはまだわからない。 理解したのはただ、アーサーの雷はこの瞬間、ティニーのためのものだったということだ。 戦場を走った栗毛の馬も、すっぽりと被った外套も、紅い瞳も、銀の髪も。この背中に回された腕でさえ、この瞬間はティニーのために存在するということだった。
「にい、さま」
掠れた呼び声は、だから、この瞬間アーサーのためだけに存在したのだ。
(アミュレットがしゃらりと揺れる)
「ティニー」 リンダと共に向かった解放軍。それは、ティニーを孤独に押しやることのない場所だった。未だ理想を知らず、未だ振るう力の理由を知らない。未だ、帝国への思慕を残している。 「にいさま」 それでもティニーが解放軍に向かったのは、アーサーの笑顔のためだった。 ティニーがいれば、他になにもいらないのだと言いたげな、無条件の愛情こそがティニーが最も願っていたものだったから。 兄が名を呼び、妹が応える。 二人が望む、最大の願い。
この戦場で、ティニーがいずれ抱く慈愛。平和への希求。祈り。 それもまだ知らず。
今日ティニーが人を殺す。 それは、アーサーのために生きるため。
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