一月前のあの人を覚えている 難しい顔をしながら、懐かしそうに顔を滲ませる時とても優しい人だ 外の話を持ってくるあの人を皆大好きで あの人だけから聞く親の話をかみしめて聞いた
あの人の笛の音が しばらく、唯一の子守り歌のように
幻想の人
キィン、と冷たい音が鳴る。研ぎ澄まされた怜悧な刃は二人の間でちらちらと火花を上げた。 鉄剣とはいえ立派な刃物。遠目にだがシャナンが見守っている気配がする。 以前大人がいないとき傷つけてしまって流れた血は、二人にしっかりと刻み込まれている。万全の注意を持って相対していた。 遠慮なくきりつけるよりもっと繰り出す剣の細かさが違う。
同時くらいに跳び退り、どちらかともなく剣を下ろした。 スカサハは違和感を覚えてシャナンの方に視線をやった。スカサハの時間間隔は確かだ、先ほどシャナンがあと10分で止めろ、と言ったのはどうしたのだろう。 (当然、スカサハはシャナンになにか起きているのではないかとも思った) 果たしてシャナンに何事かは起こっていた。来訪者がいたのだ。背の伸びたシャナンと丁度同じくらいだろうか、シレジアグリーンの髪がまとめられつつも風にそよがせている男。 姿勢のいい背中が視界に入り、スカサハは顔をほころばせた。 「ラクチェ、レヴィン様だ」 シャナンが二人の様子に気がついたのであろう。彼が振り向くと同時に男もこちらを向いた。金色の瞳がスカサハを覗く。 (あれ?レヴィン様の瞳……金だったかな?) そうであったような気もする。まぁ、さして重要なことでもないだろう。 ラクチェに視線を戻すと、丁度彼女はシャナンと男の方に目を向けるところだった。 「本当。戻ったのね」
スカサハは、ぞくりと背筋が総毛立つような気がした。
慌ててラクチェの視線の先を追ったが、そこには見慣れた男の姿があるだけだった。今視えたものはなんだったのだろう。 ぐるぐると全ての力が流れていくような、渦ごとのみこまれているような。 違う、と何かが警鐘を鳴らすのだ。 どこか冷たくなった男の瞳に優しさを見出せずスカサハは逡巡した。横をすり抜けるようにラクチェが駆けて行く。 止めよう、と伸ばした手はラクチェを捕らえることはなかったが、ラクチェを止めることは出来た。振り返ったのだ。 「スカサハ、今呼んだ?」 言葉ではなく、スカサハは頷いた。ラクチェの手を取ってシャナンと男の方に向かう。2メートル程はなれた位置で立ち止まった。 「レヴィン様、いらしたんですか」 硬い声だった。ラクチェは不思議そうにスカサハを見たが、スカサハは何も答えない。男は冷たい顔に苦笑を生んで短く「ああ」と答えた。 やはり、違う。 スカサハは確証を掴んだ。根拠はない。 判断は誤っているかもしれないが、ラクチェの瞳に映ったものに間違いはない。 レヴィンは風に愛されている男だったが、風ではなかった。 スカサハの表情はますます硬くなり、言葉はぎこちないものとなった。流石にシャナンも不自然に思ったらしい。問うと、スカサハはただ首を振った。
「……私のせいかもしれないな」 男が言った。自責の言葉とはとても思えない調子だった。 「先ほどワープで来たばかりだから、その魔力の波動をスカサハは敏感に感じているのかもしれん」 「でも、今までは違うんですか?」 当然の疑問をラクチェは聞いた。男は「今までは影響を与えないようにとしばらく時間を置いてからやってきたのだ」と答えた。ラクチェは納得したようだ。 男は何か考えながらスカサハの方に一歩踏み出した。音のしない歩き方、こんな風にあの人は歩いていただろうか。 男の一歩と合わせるように、スカサハは一歩後ずさった。 男は片眉を少し浮かせて苦笑いを浮かべさせた。音なく身を翻す。 「オイフェと話すことがあるから、その後セリスの様子を見たらまた出る」 そのままふわりと立ち去ったその男をスカサハは油断なく見据えていた。結局、視界から外れるまで目をそらしもしなかった。
「レヴィン様、嫌いなの?スカサハ」 二人になった後ラクチェが聞いた。スカサハは意外そうな顔で答えた。 「そう見えたのか?」 「ううん」 ラクチェは首を振った。 「でも、ぴりぴりしたから」 「そっか」 スカサハはちょっと悩むような仕草を見せてからラクチェの手を取って歩き始めた。二人がよく行く、気に入りの場所だ。小さなティルナノグでの秘密基地と言ってもいいだろう。 風が寄せて長く伸びたラクチェの髪をさらっていく。風の形をとる草の姿に、スカサハはふと立ち止まった。 「嫌いじゃないよ」 むしろ、レヴィン様は好きだよ。と呟くように言った。
スカサハの反応に『魔法コンプレックス』という名がつけられてしばらく。セリスはこれからレンスターに向かうと言う男と面会していた。 いつからか、現実めいたものがなくなった人だ。それがいつからであったかはセリスは覚えていない。 幼い頃に聞かされた夢のような理想の話は、確かにあの頃も現実の厳しさを秘めてはいたけれど、セリスはその話が何より好きだった。 ひょっとしたら、両親の話よりもだ。 夢と現の間を語るようなレヴィンの姿はセリスの理想の核となる。
いつからだろうか、男がそんな夢語りを話さなくなったのは。 それはつい一年前だったような気もするし、昨日のような気もする。さもなくば、そんなことを聞かされたなどそれこそ夢の中の出来事だったかのように希薄に感じられた。 (でも、何より夢幻の住人は、目の前のこの人かもしれない) 昔の話よりも薄れた目の前の男はセリスに現実をつきつけてくる。もっと存在が確かだった時よりもずっと生々しいものを提示した。レンスターでの決起の話しも然りだ。 男は現れるたびに現実を引き連れそれをセリスにほおり投げた。それに対し喜ばしい気分にはなれなかったが、受け入れたくないと思ったことは一度たりとない。
「私のいない間、不測の事態が起こるかもしれないが……そうしたら、お前は自分の判断こそを頼りにして進め」 不測の事態が起こると知っているような事を言う。 この男は全てを知っているようでいるが、それは間違いであると気がついている。この男には予視の力はなく、限りなく近しい予測と感知とで動いているのだ。 オイフェやシャナンの忠告を聞けと言わない男に、セリスは違和感なく頷いた。 自分の判断だけを信じなくてはいけない時がある。 他者の意見を聞くのは悪いことではない。むしろいいことだ。だが決断は最後に自分に託されるということをセリスは学んでいた。 それは誰にも弱音を吐けることではない。例外を言うならば、この男にだろうか。聞いてくれる男だとは思っていないが。 この幻めいた男になら、誰にも告げたことのない言葉を吐いても世界は滞りなく進んでいくのだろうか。 いいや。 きっとこの男は、無駄だと言って笑う。
セリスは少し意地悪をしたくなった。これから旅だつ男への土産のようなものだ。 「レヴィン、良ければ出立前にみんなに一言かけていってくれないか?」 男は表情を動かさずに「構わない」とだけ言った。きっと、些細なことだと思っているのだろう。 「そう、じゃあお願いするよ」 微笑みをたたえてセリスは、男を緩やかに送り出す。
「……レヴィン様、出立の時間ですか」 どこか硬い声でスカサハが男を迎えた。丁度オイフェの出した戦略のレポートを行なっていたらしく小さな文机の上には乾いていない羽ペンが置かれている。 「ああ、しばらく周るから当分こちらにはこないだろう……。スカサハ、お前はセリスを諌め、また助けてやれ」 スカサハはその言葉にやや伏せ気味の顔をあげた。瞳だけはそらさず男に向けられてはいたが。 口を少しあけて、躊躇うようにまたつぐむ。だが逡巡の後に決心が決まったらしい。スカサハは再度口を開いた。 「……一つ、お聞きしたかったことがあります」 男は無言でその先を促した。それに後押しされたかのように、次の言葉は案外あっさりと出てきた。
「レヴィン様は、人じゃないんですか?」
ラクチェは部屋には見えなかった。と言っても彼女は部屋にはほとんどいない。外で鍛練をしているか城で手伝いをしているか、そうでなければ大抵スカサハの部屋にいる。だがスカサハの部屋にはいなかった。 男は風を読んで外へと向かって、果たして彼女はそこにいた。真剣を携え黙々と振りつづけている。ふわりと流れた風にその手を止めて顔をあげた。 「レヴィン様、何かご用でも?」 男がこれから出る旨を告げるとラクチェは納得したように頷いた。それからちょっと虚空を見て男に向き直る。 「ではレヴィン様、一つお聞きしてもいいですか」 男は少し逡巡した。スカサハに投げられた難問は記憶に新しい。ラクチェは承諾を待たずにその内容を告げた。
「レヴィン様は、神様なのですよね」
今度こそ男ははっきりと動揺を示した。スカサハには曖昧に濁した返答は、しかし今度こそ逃れられないような強さを持っていた。 「私が……神であって欲しいのか?」 それでも震えることなく紡がれた言葉にラクチェは真っ直ぐと視線を投じる。透明な視線だ。 「そうであって欲しいです。それは、セリス様の夢が叶われることですから」 神の助けがあるからか、と男は言おうとしたが止めた。そう告げたい瞳ではなかったのだ。 「セリス様を、神様が見守られていらっしゃる。 私が死んでも、スカサハが死んでも、レスターやデルムッドが死んでも、その守りはセリス様に出会いを導きになります」 ラクチェの瞳は揺るがなかった。 「神様の救いなんかなくてもセリス様はきっと夢を掴みます。セリス様に訪れる出会いが、それを助けていくでしょう」 ラクチェは一息区切ると、男の金色の瞳を見つめなおした。
「レヴィン様は、神様なのですよね?」
再び姿を見せた男にセリスは笑顔を向けた。 「どうだい?……少しは驚いたかな」 スカサハとラクチェが聞くであろう言葉に予想がついていたセリスはくすりと表情を滲ませた。冷たいながらもどこか憮然とした感を含む男の表情にセリスはしてやったりという気になる。 「次に来る時はきっと忙しいよ。だから、私も今のうちに言っておく」 セリスは右手を少しだけ握って、男の瞳を見た。金色の目。
これが、緑色の目なら夢を語ったっていい。
「私がそう思ったのは、スカサハの態度が変わってからだよ……それで始めて、ラクチェの視界の貴方が見えた」
でもそれが金を宿したままならば、幻に夢をかたるようなものだ。
「貴方に聞かされた理想の話を……今の貴方は、幻想だと言って笑うかな?」
フォルセティは結局、どの質問にも答えられなかった。 同意は、承認。
それは禁忌だ。
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